別れた後、元カレは私に「愛を少しでいいから恵んでくれ」と乞い願ってきた

別れた後、元カレは私に「愛を少しでいいから恵んでくれ」と乞い願ってきた

渡り雨 · 完結 · 14.2k 文字

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紹介

「桜井、もう遊びは十分だろう?家に帰るぞ」
彼は私の前に立ち、まるで施しでもするかのように言った。

かつて七年もの間、私を惨めな気持ちにさせたこの男を見つめ、私はふっと笑った。「でも、もうあなたを愛してないの」

「強がるな。お前は俺から離れられない」

私は彼がテーブルに投げ捨てたブラックカードを拾い上げ、ウェイターの元へ歩み寄ると、ゴミ箱に捨てた。「すみません、手が滑っちゃって」

「たとえ北川グループを丸ごと私にくれたとしても、もう欲しくなんてない。だって、あなたはもう、汚いから」

彼の顔は瞬間にして真っ白になった。恐らく、この瞬間に至って初めて彼は理解したのだろう——失ってしまったものは、もう二度と取り戻せないのだと。

チャプター 1

 鼻腔を突く消毒液の臭いに、私は重い瞼をこじ開けた。目に飛び込んできたのは、病院特有の無機質な白い天井。窓の外には東京タワーの輪郭が浮かび、夜色の中で橙色の光を放っている。

「桜井さん、気がつきましたか?」

 看護師が点滴を交換しながら、典型的な東京のイントネーションで話しかけてきた。

「胃出血に加えて、軽い脳震盪も起こしていました。昨夜は危険な状態でしたが、搬送が早くて助かりましたよ。ただ……ご家族とはまだ連絡がつかないんですか?」

 家族。

 私は無意識に枕元のスマートフォンに手を伸ばした。画面には二十三件の不在着信が表示されているが、そのすべてが私から北川彰人にかけたものだった。

 そして彼からは、一件の折り返しもない。

 SNSを開くと、タイムラインのトップに北川彰人の投稿が表示された。

 添付された写真は、夜空を埋め尽くす絢爛な花火。位置情報は銀座で最も豪華なザ・リッツ・カールトン。添えられた文章はたった二文字。

【生誕】

 写真の片隅には、両手を合わせてケーキに祈る水原真央の姿と、蝋燭の灯りに照らされ、彼女を愛おしげに見つめる北川彰人の横顔が写り込んでいた。

 投稿時間を確認する。昨夜の二十三時。

 その頃、私は電話越しに彼から「今忙しいんだ」と不機嫌に突き放され、彼が食べたがっていた新宿のラーメンを買いに暴雨の中を独り歩いていた。そして帰路、逆走車と接触して転倒し、胃痙攣を起こして血を吐いていたのだ。

 震える指先で、私はその投稿に「いいね」を押した。

 そして、北川彰人に電話をかけた。

 今度は繋がった。

「桜井、また何の騒ぎだ?」

 男の声には、二日酔い特有の嗄れと明らかな不機嫌さが滲んでいた。

「昨夜は真央が雷を怖がっていたから、少し付き合ってやっただけだ。数十回も電話してきて、監視のつもりか?」

 雷が怖い? だから付き添っていたと。

 けれど私だって痛いのは怖い。死ぬのも怖い。手術同意書の「万一の事態」という欄にサインする時、誰一人そばにいない孤独が怖かった。

 まだ耐えられると思っていた。けれど、この瞬間。

 私の中で何かが完全に切れた。

「北川」

 私の声は異常なほど静かで、自分でも他人の声のように感じられた。

「別れましょう」

 電話の向こうで二秒ほどの沈黙があり、すぐに鼻で笑う音が聞こえた。

「いい度胸だな、桜井。七年も使い古した『引いてダメなら押してみろ』なんて駆け引き、まだ通用すると思ってるのか? 今度は何日家出するつもりだ? 三日か? それとも五日?」

 背景から、水原真央の甘ったるい声が聞こえてくる。

『彰人くん、誰ぇ? もしかして桜井さんが怒っちゃった? 私のせいだよね、昨夜無理に引き止めちゃったから……』

「お前には関係ない」

 北川彰人は優しくそう答えると、私に対して冷酷な声色に戻った。

「一時間やる。戻ってきて真央に謝罪しろ。お前の電話のせいで、彼女は昨夜よく眠れなかったんだ。もし戻らないなら、二度と敷居を跨ぐな」

 プツッ——

 電話が切れた。

 暗転した画面を見つめても、涙は出なかった。心臓の痛みさえ感じない。

 失望が許容量を超えた時、心が死ぬのは一瞬なのだと知った。

 私は手の甲に刺さった点滴針を引き抜いた。鮮血が溢れ出したが、痛みはない。

 看護師が悲鳴を上げて駆け寄ってくる。

「桜井さん、何をしてるんですか! 安静にしていないと!」

「もういいんです」

 私は傷口を押さえ、蒼白な顔で微笑んだ。

「どうしても捨てなきゃいけないゴミがあるので」

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もう誰かの妻でも、母でもない。一人の科学者として、世界を驚かせるために。

数々の賞を総なめにし、頂点に立った私を見て、元夫は顔面蒼白で崩れ落ちた。
震える声で私の名前を呼び、足元に縋り付く彼。

「行かないでくれ……君がいないと、俺は……」

かつて私を見下していたその瞳が、今は絶望と後悔に染まっていた。
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