紹介
そこで父は従兄との婚約を進めることを決め、私を街に呼び戻して婚約式を挙げることにした。
私は父が婚約パーティーのためにホテルで予約してくれた個室に、予定より早く到着した。
扉を開けた瞬間、私は呆然と立ち尽くした。
部屋全体がピンク色の誕生日パーティー会場に装飾され、横断幕には「クララ26歳の誕生日」と書かれていた。
チャプター 1
父に言わせれば、私は昔から「世捨て人予備軍」らしい。
黒い服ばかり着て、隙あらば神学書なんてものを読んでいる。冗談半分に「静かに暮らしたいし、修道女にでもなろうかな」なんて口にしたこともあった。
──それで本気で危機感を覚えたのだそうだ。
このままでは娘が本当に俗世から消えてしまう。
そう考えた父は、遠縁の従兄の家との婚約話を一気に進め、私を街へ呼び戻して、正式な婚約のパーティーまで用意した。
その日、私は予定より早く、父が私の婚約パーティーのためにホテルで押さえたという個室フロアに到着した。
指定された番号のドアを押し開けた瞬間──息が止まった。
そこは一面、どこもかしこもピンク色に染め上げられた誕生日パーティーの会場になっていたからだ。
壁には「クララ26歳誕生日」と書かれた横断幕までぶら下がっている。
一人の女が、こちらに気づいて眉をひそめた。
「警備員!」
甲高い声が、個室に響き渡る。
「なんでこんな得体の知れない女を中に入れるのよ! 早く追い出しなさい!」
警備員が乱暴に私の腕をつかみ、そのまま引きずり出そうとする。
痛みを堪え、私は腕をねじって拘束を振りほどき、ドア横のプレートで部屋番号を確認した。
「こちらの個室を予約したのは私です。失礼ですが、出ていただけますか」
困ったような表情で、ウェイターが間に入ってくる。
「その……こちらのお部屋は、このお客様のご予約になっておりまして。もしよろしければ、おふたりで何か折り合いをつけていただければと……」
女は、頭のてっぺんからつま先まで、私を舐め回すように見てから、ふん、と鼻で笑った。
「あなた、本当に部屋代払えるの? てっきりどこかの乞食が、物乞いにでも来たのかと思ったわ」
「私はクララ。エクリプス社の社長トリスタンの秘書兼プライベートアシスタントよ。エクリプスの名前ぐらい、聞いたことあるでしょ? このホテルはね、エクリプス財閥の持ち物なの」
トリスタン。エクリプス社の社長。
──それは、私の顔も知らない婚約者の名前だった。
胸の奥で、氷のような何かが音を立てる。
私は冷たく息を吐き、迷うことなくトリスタンに電話をかけた。
「そちらの秘書が、私の予約した個室を占領しています。どう対処なさるおつもりですか」
さっき乱暴につかまれた腕が、じんじんと鈍く痛む。
一介の秘書がここまで傍若無人なら、彼女は単なる秘書以上の存在なのだろう。そんな女を野放しにしている男が、私の婚約者──。
その事実が、じわりと嫌悪感となって広がっていく。
もし今日、納得のいく説明が聞けないのなら。
こんな婚約パーティーなど、意味がない。
受話器の向こうから、低く冷たい男の声がした。
「お前が誰か知らないが、クララは俺にとって大事な人だ。彼女がどの個室を使おうと、俺の知ったことじゃない」
大事な人──。
言い返そうとした。「私はあなたの婚約者だ」と告げようと口を開いた瞬間、通話は一方的に切れた。
通話の内容を聞いていたのだろう、クララは口元を手で押さえながら、くすくすと意地の悪い笑い声を漏らす。
「バカじゃないの? どこで社長の番号を手に入れたか知らないけど、それでのし上がれると思った?」
くるくると私の周りを歩きながら、まるで珍しい動物でも眺めるような目で見下ろしてくる。
「それにしても、すごい格好ね。みすぼらしいっていうか、見てるだけで不快。全身真っ黒なんて──お葬式にでも行くつもり?」
黒い服を選ぶのは、私にとってはごく自然なことだった。
子どもの頃から父のもとで戦闘や射撃の訓練を受け、なにより動きやすさと実用性を優先して服を選んできた。黒は汚れも目立ちにくく、気持ちが落ち着く色。ただ、それだけの話だ。
それを、ここまで嘲笑されるとは、夢にも思わなかった。
「私が何を着ようと、あなたに関係ありません。それに、こんな浅はかな人間を秘書として雇って、客の予約した部屋を勝手に横取りさせているなんて──エクリプスの社長って、ずいぶん品位に欠ける人なんですね」
私はウェイターの方を見て、短く告げる。
「この部屋を空けてください」
だがウェイターは、申し訳なさそうに目を伏せたまま首を振る。
「申し訳ございません、お客様。クララ様は当ホテルのVIPでして……別のお部屋をご案内させていただけませんでしょうか」
「でも、ここは私の予約した個室です!」
胸の奥で、怒りがどろどろと燃え上がる。
父はわざわざ、エクリプス傘下のホテルを婚約パーティーの会場に選んだ。両家の結びつきを象徴する場所として、これ以上ない舞台のはずだった。
なのに、蓋を開けてみればこの有様だ。
ウェイターはなおも困惑したまま、私とクララの間で視線をさまよわせる。
「重ねてお詫びします、お客様。ご予約は確かにお客様のお名前で承っております。ですが、トリスタン最高経営責任者のお怒りを買うわけには……」
クララは勝ち誇ったように笑い、テーブルの上に置かれた赤ワインのボトルをひったくると、その中身を迷いなく私の頭上からぶちまけた。
ひやり、とした液体が、ざばっと音を立てて髪と顔を伝い、首筋、背中へと流れ落ちていく。
「出ていって。ウェイターの方が、あんたよりよっぽど賢いわ。自分の立場もわきまえられないなんて、本当に哀れね」
「言っておくけど、この街で私クララが欲しいと思ったものは、ひとつ残らず手に入るの。例外なんて存在しない」
周囲で一部始終を見ていた客たちが、小声でひそひそと囁き合う。
「あの女、終わったな。よりによってクララに楯突くなんて。あのクララ、トリスタンに可愛がられてるって有名じゃないか。前からかなり横柄だったけど」
「そうそう。前にも、あるお嬢様がうっかりクララを怒らせたことがあってさ。そしたら、翌日にはエクリプスがその子の家の会社を買収してたんだって」
「クララさんに謝った方がいいよ。それからさっさとここを出るんだ。トリスタンの耳に入ったら、人生終わるぞ。あいつ、クララのことになると、手加減って言葉を知らないからな」
取り巻きのような言葉を聞き、クララの笑みはますます深くなる。
「聞こえたでしょ? さあ、跪きなさい。その床にこぼれたワイン、ちゃんと舌で舐め取って謝りなさい。そうしたら、許してあげてもいいわ」
「ちゃんと頭を下げてお願いするっていうなら──このホテルでウェイターとして雇ってあげなくもないけど?」
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