紹介
私のすべてだった、牧村須加――。
三年前の“あの日”、私たちの日常は血と炎に塗りつぶされた。共通の敵である犯罪組織によって父は殺され、母は心を失い、そして彼の両親も命を奪われた。
復讐を誓った私は、光の世界に彼を残し、たった一人で闇に身を投じることを決意した。
私が組織に堕ちた裏切り者だと信じ込ませ、心の底から憎ませること。それが、危険な復讐に彼を巻き込まないための、唯一の方法だったから。
「――まさか、こんな形で再会するなんて」
潜入任務中の些細なミスで逮捕された私。取調室の扉が開き、そこに立っていたのは……成長した彼の姿。鋭い眼光で私を見据える、刑事牧村須加その人だった。
「名前を」
かつて私の名を優しく呼んだ唇から紡がれたのは、他人に向けるような、氷のように冷たい声。
「……朝比奈鈴」
本当の私は、潜入捜査官。
本当の私は、今もあなたを愛している朝比奈鈴よ。
――そんな悲痛な叫びは、喉の奥で凍りついた。
「なぜだ! なぜ俺たちの家族を殺したクズどものために働いている!」
彼の魂からの叫びが、私の心を鋭い刃のように抉る。
ごめんね、須加。でも、私は嘘をつき続けるしかない。
「過去は過去よ。私にはもう関係ない」
彼の瞳が、深い失望と憎しみに染まっていく。心が砕け散る音がした。
それでも、いい。正義のため、復讐のため……そして何より、あなたを守るためなら、私は世界で一番の悪女になろう。
これは、愛する人に憎まれながら、孤独な戦いに身を投じた少女の、切なくも激しい愛と復讐の物語。
二人の運命の歯車が、最悪の再会によって、再び軋みを上げて動き出す――。
チャプター 1
朝比奈鈴視点
なんて、ついてないんだろう。
三年ぶりに、ようやく戸茂市に戻ってきたというのに。狼組の外縁組織に加わってまだ数週間。これが初めての大きな仕事になるはずだった。なのに、熱を出して遅刻したせいで、今こうして逮捕されかけている。ほんと、最悪だ。
午後の静寂をパトカーのサイレンが切り裂く。私はコンビニの外に立ち尽くし、中の惨状を呆然と眺めていた。覆面を被った強盗たちはとっくに逃げ去り、馬鹿みたいに私だけが現場に取り残されている。
「動くな!手を上げて、見えるようにしろ!」
「何もしていません!」
冷静を装いながら、私はゆっくりと両手を上げる。頭の中は目まぐるしく回転していた。逃げ道を探して視線を走らせるが、すでに警官たちに包囲されている。銃口がこちらに向けられ、若い警官の一人はひどく緊張しているのが見て取れた。
「後ろを向け!手を頭の後ろで組め!」
指示に従う。冷たい金属が手首に食い込み、カチリと音を立てた。周囲の視線を感じるが、平静を保たなくてはならない。
警察署へ向かう道中、パトカーの無線がノイズ混じりに聞こえてくる。前の席に座る二人の警官が、低い声で事件について話している。私は後部座席で手錠をかけられたまま、少しでも楽な姿勢を探していた。
落ち着け、鈴。このための訓練は受けてきたはずだ。タイミングが悪かっただけ。防犯カメラの映像が、私の無実を証明してくれる。何より大事なのは、正体を明かさないこと。
「着いたぞ。降りろ」
私は深呼吸をして、これから起こるであろう全てに備えた。
取調室の椅子に座り、廊下を歩く足音に耳を澄ませる。どんな刑事が来ようと対峙してやろうと顔を上げた、その時だった。ドアが開き、私の世界は時を止めた。
戸口に立っていたのは、ぱりっとした警察の制服に身を包んだ一人の男。長身で、広い肩幅。手には書類フォルダーを抱えている。私を認めた瞬間、彼の瞳に驚きがよぎったが、すぐにプロとしての冷静さを取り戻した。
嘘……。彼だ。
三年。背は伸び、体つきもがっしりした。でも、あの瞳は……。あんなに優しく私を見つめてくれた瞳は今、冬のように冷え切っている。
私たちは数秒間、見つめ合った。空気は張り詰め、重苦しい。自分の心臓の音が、耳の奥でうるさく鳴り響いている。何か言いたいのに、彼の表情がそれを拒絶していた。
「こんにちは。牧村刑事です」
彼の声は低く、冷たく、まるで私のことなど知らないかのように響いた。でも、そんなはずはない。私たちは、お互いをよく知りすぎている。
彼は私の向かいに腰を下ろしたが、視線を合わせようとはせず、手元の書類に集中している。
「名前は」
「朝比奈鈴です」
「年齢」
「二十二歳です」
「なぜ現場にいた」
「通りかかっただけです。買い物をしようと」
「何をだ」
「風邪薬です」
これは嘘ではない。実際に熱があり、そのせいで遅刻して、騒ぎに乗り遅れたのだ。
「防犯カメラによると、現場に到着したのは最後だ。強盗たちが去った後、なぜすぐにその場を離れなかった?」
「怖かったからです」
「映像から、強盗事件に関与していないことは確認が取れた」
彼はフォルダーを閉じ、立ち上がった。
「もう帰っていい」
牧村須加は私に背を向け、ファイルを整理し始める。これ以上、会話を続ける気はないという意思表示だ。私は立ち上がり、何かを言おうとするが、言葉が出てこない。
警察署を出ると、土砂降りの雨が降っていた。傘を持っていなかった私は、あっという間にずぶ濡れになった。街角に立ち尽くし、どこへ行けばいいのか分からなかった。頬を伝うのが雨なのか涙なのか、自分でも分からなかった。
この瞬間を、頭の中で何度も何度も練習してきたのに。どうして今、自分の感情をコントロールできないんだろう?
途方に暮れていると、一台の黒い車がゆっくりと私の隣に停まった。窓が下ろされると、そこには須加の厳しい顔があった。
「乗れ」
「必要ない――」
「乗れ」
彼の口調は、反論の余地を一切与えなかった。
一瞬ためらった後、私は助手席に乗り込んだ。車内には穏やかなクラシック音楽が流れている。これは須加のお気に入りだったはずだ。でも今は、まるで葬送曲のように聞こえる。
「どこに住んでいる」
「都島区です」
住所を伝えた後、私たちは黙ったまま車を走らせた。ワイパーの音と音楽だけが、二人の間を埋めている。彼の顔をまともに見ることができず、代わりに窓の外を眺め、ガラスに映る横顔を盗み見た。毎日、毎晩、考え続けてきたその顔を。
車は古びたアパートの前で停まった。私が降りて礼を言おうとしたその時、須加はエンジンを切り、私の後について階段を上がってきた。
私の部屋は狭くてみすぼらしい。ベッドとテーブル、小さな冷蔵庫があるだけ。壁のペンキは剥がれ落ち、窓からは冷たい隙間風が入ってくる。
「ここか?」
彼は部屋の中央に立ち、嫌悪感を隠そうともせず辺りを見回した。
「これが、お前の望んだことか?」
私は彼に背を向けたまま、振り向いてその問いに答える勇気がなかった。
「あなたには関係ないことよ」
「関係ないだと?」
彼の声が荒くなる。三年間溜め込んできた感情が、爆発し始めていた。
「朝比奈鈴、お前がいなくなってからのこの三年間、俺がどんな思いで過ごしてきたか分かるか?」
「死んだと思っていた!毎日のように考えていたんだ。あの夜、お前を引き留めていたら?俺が一緒に行っていたらって!」
私は目を閉じ、やがて薄い笑みを浮かべてようやく振り返った。
「全部、過去のことよ」
「過去?ああ、お前にとってはそうなんだろうな。今の自分を見てみろよ、朝比奈鈴!」
「もう警察官なんてやりたくないの、須加。給料は安いし、毎日危険な目に遭う。うんざりなのよ」
笑みを浮かべているのに、嘘をつくたびに、刃物で心臓を切り裂かれるような痛みが走る。
「金のためか?俺たちが夢見た全てを、金のために捨てたのか?」
「私はただ、自分のために生きたいだけ」
「お前は、俺たちの両親を殺した奴らのために働いているんだぞ!朝比奈鈴、お前の母親は今も病院のベッドで寝たきりなんだ!」
私の笑みが、一瞬で消え去った。それは、私が聞くことを何よりも恐れていた言葉だった。
「三年だぞ。一度も見舞いに帰ってこない!俺がいなかったら、誰があの人の面倒を見るんだ?」
「それは……それは、あなた自身が選んだことでしょ」
私の声が、微かに震えた。
「お前は、本当に俺の知っている女なのか?」
彼を守るため、完全に諦めさせるため、私は最も残酷な言葉を絞り出した。
「私は、あなたが思っていたような人間じゃなかったのよ。たぶん、本当の私なんて、これっぽっちも知らなかったんじゃないかしら。あの楽しかった思い出?私にとっては、ただの子供の遊びだったわ」
須加は長い間、静かに私を見つめていた。その瞳から、光がゆっくりと消えていく。やがて、彼は頷いた。
「分かった」
彼はドアに向かって歩き、ドアノブに手をかけ、一瞬だけ動きを止めた。
「お前の母親のことは、俺がちゃんと面倒を見る。お前は……自分の体を大事にしろ」
彼の背後でドアが閉まり、もう私は耐えられなかった。床に崩れ落ち、声を上げて泣いた。外の雨が私の泣き声をかき消してくれたが、心の痛みを覆い隠すことはできなかった。
最新チャプター
おすすめ 😍
竜王の花嫁
偉大なるイグナス王国を形づくる七つの村では、毎年欠かさず「選定の儀」が執り行われていた。その儀で村の娘のひとりが選ばれ、恐るべき竜王の花嫁となるのだ。
なぜそんな儀を年ごとに続けるのか、誰にもわからない。これまで選ばれていった花嫁たちが、その後どうなったのかも――。
奴隷にされているのか?
竜の餌にされているのか?
それとも……竜王自身が、彼女たちを喰らっているのか?
それだって否定はできない。王は自分たちとは違う、人ではないのだという噂があるのだから。
それでも、その疑問は執念深く人々の胸を苛んだ。
いったい、花嫁を何に使っているのか――!?
だが、誰も王に問いただそうとはしなかった。逆らうなどという無謀が、どんな運命を呼び込むかが怖かったのだ。
もっとも、そんなことはベラドンナの知ったことではない。今年は彼女の村が花嫁を差し出す番だったが、自分が選ばれるはずがないと彼女は確信していた。
なぜかって?
もちろん、計画があるからだ。そして彼女は、その計画が自分を裏切るはずがないと信じ切っていた……いや、本当にそうだろうか。
妊娠を隠して離婚します
九条雅人は彼女の顎を荒々しく掴み、低く唸った。
絢香の頬は屈辱と興奮で真紅に染まったが、その声にはまだ意地が残っていた。「あなたこそ、私に執着しているだけじゃないの?」
雅人は冷酷に鼻で笑った。
「離婚してからどれほど経った? それでもう俺の『ルール』を忘れたか。お前の身体は、今でも俺をこんなによく覚えているくせに。……ほら、咥えろ」
熱を帯び、恐ろしいほどに猛り狂った彼の太いものが、絢香の顔を容赦なく叩いた。
雅人は冷たく笑う。
「俺から離れられるなんて夢にも思うな、絢香。お前は俺だけのものだ」
——
3年間の契約結婚の間、霧島絢香は「雅人が冷徹な人間だから、その心を溶かすことができないのだ」と思い込んでいた。
しかし、彼が桜井陽菜の妊婦健診に付き添い、彼女が少しでも不快な思いをしないよう、見たこともないほどの優しさと甘やかし方で接している姿を目撃したとき、絢香はついに悟った。彼は人を愛せないのではない。ただ、自分を愛していなかっただけなのだと。
絢香は静かに離婚届にサインし、自身の「妊娠診断書」を胸に抱いて彼の元を去った。
だが、絢香が完全に姿を消した瞬間、雅人は狂わんばかりになり、街中を血眼になって彼女を捜し回った。
ついに再会を果たしたとき、雅人の瞳は血走り、その声は掠れていた。
「絢香、俺が悪かった……頼む、俺の元に戻ってきてくれ」
夫と息子に捨てられた私は、幸福という名の檻を抜け出すことにした
しかし現実の結婚生活は、私を泥のような惨めな境遇へと引きずり落とした。
夫と息子にとって、私は愛人の飼い犬にさえ劣る存在でしかなかったのだ。
離婚届に淡々と署名する二人の姿を前に、私の心は不思議と静まり返った。
「そう、それでいいわ」
最後に乾いた笑みを浮かべ、私は決別を告げる。
今日で、私たちは正真正銘の赤の他人。
離婚後、奥さんのマスクが外れた
彼は言った。「彼女が戻ってきた。離婚しよう。君が欲しいものは何でもあげる。」
結婚して2年後、彼女はもはや彼が自分を愛していない現実を無視できなくなり、過去の関係が感情的な苦痛を引き起こすと、現在の関係に影響を与えることが明らかになった。
山本希は口論を避け、このカップルを祝福することを選び、自分の条件を提示した。
「あなたの最も高価な限定版スポーツカーが欲しい。」
「いいよ。」
「郊外の別荘も。」
「わかった。」
「結婚してからの2年間に得た数十億ドルを分け合うこと。」
「?」
長年の結婚生活を終わらせたら、夫と息子が泣きついてきた
あの女のために、何度も私を置き去りにした二人。そして今回の件で、私はようやく完全に目が覚めた。
彼らは、私の愛を受け取るに値しない。
だから私は、正式に離婚協議書を差し出した。
すると、あろうことかこの二人は、声を揃えてこう言ったのだ。
――本当に深く愛していたのは、私の方だった、と。
ふん、今さら一体、何の真似のつもりかしら。
偽りの仮面
彼は、私との間に子供を授かることさえ望んではいない。
そればかりか、外では他の女性と戯れ、私の心を深く傷つける。
逃げ出したい。強く、自立した女性になりたい。
そう願う私を、しかし、彼が手放すつもりは毛頭ないようだった……。
運命のゲーム
フィンレイが彼女を見つけたとき、彼女は人間の中で暮らしていた。彼は自分の存在を認めようとしない頑固な狼に心を奪われる。彼女は彼の運命の相手ではないかもしれないが、彼は彼女をパックの一員にしたいと思う。潜在的な狼であろうとなかろうと。
アミーは彼女の人生に入り込み、パックの生活に引き戻すアルファの魅力に抗えない。彼女は長い間感じなかった幸せを見つけるだけでなく、ついに彼女の狼も目覚める。フィンレイは彼女の運命の相手ではないが、親友になる。パックの他のトップ狼たちと共に、彼らは最高で最強のパックを作るために働く。
パックの順位を今後10年間決定するパックゲームの時が来ると、アミーは古いパックと向き合わなければならない。10年ぶりに彼女を拒絶した男性を見たとき、彼女が知っていたと思っていたすべてが覆される。アミーとフィンレイは新しい現実に適応し、パックのための道を見つける必要がある。しかし、この予想外の展開は彼らを引き離してしまうのだろうか?
双子とヤクザの父親
六年の月日が流れ、二人は思いがけず再会する。彼女は必死に彼から距離を置こうとするが、運命は異なる計画を用意していた。
驚くべきことに、彼は突然現れ、彼らの愛らしい子供を抱きしめながら、大胆に彼女に詰め寄る。「俺たちの子供を産んでおいて、逃げられると思ったのか?」
彼女は凍りついたように立ち尽くし、言葉を失う。彼こそ、畏怖の念を抱かせる帝国の君主だった。彼女は二人の世界があまりにもかけ離れていて、決して交わることはないと思い込んでいた。
しかし、彼女は知らずのうちに、この不屈の王の真実の愛となっていたのだった。
捨てられたルナの復讐
「ベラ」イーサンの声音が変わった。わたしが嫌というほど知っている、あの警告めいた刃が混じる。「いまのフェイは不安定なんだ。おまえが彼女を恨むんじゃないか、これで群れが割れるんじゃないかって、怯えてる。彼女がいちばん望んでないのは、この子が俺たちの間に入り込むことだ」
「だったら、そんなことしなければよかった」わたしは真正面から彼の目を捉え、こちらの瞳に張りついた氷を見せつけた。「息子のところへ戻って」
「いい加減にしろよ」彼は苛立ちまぎれに髪をかきむしった。「何度言えば――人工授精だ。俺の精子を使ったのはそうだが、フェイと俺は――」
ベラは冷えきった鼻笑いを漏らした。なんて厚かましい嘘。彼女の伴侶は、兄の番と関係を持ち、家族ぐるみで彼女を何も持たせず追い出した。愛人が「正しい」座に収まるために、道を空けるように。哀れな愚か者――彼は、彼女がただの厄介な養女で、簡単に切り捨てて支配できると思い込んでいた。自分が探し求めていた天才的な技術者が、まさか自分のルナだったとは、ついぞ知らずに。
彼が自らを汚した時点で、ベラの中ですべては終わった。彼女は彼を拒み、奪われたものを取り戻した。何年も密かに彼女を愛してきたヴィクターの助けを得て、頂点へと駆け上がっていく。
イーサンが彼女を取り戻そうとしたとき、こう言った。「俺たちの子どもを、父親なしで育てたいのか」
ベラは嘲るように微笑んだ。「その子の父親は、あなたじゃないわ」
私が去った日
けれど最後に彼が選んだのは、私ではなく、彼の初恋の女性だった。
夫は、私の心を深く傷つけただけではない。あの女が私の大切なジュエリーデザインを盗むことを許し、さらには実の息子までも操って、私を「怪物」だと思わせた。
嘘で塗り固められた結婚生活の中で、私は少しずつ自分を失っていった。
息が詰まるような日々。愛されていると思い込んでいた時間。すべてが偽りだった。
けれど、彼らはひとつだけ間違えた。
私を、もう戻れないところまで追い詰めたこと。
私が去ると決めたあの日。
私は、最低な夫も、母親への感謝を忘れた息子も、そして彼らによって壊された過去の自分も、すべて置き去りにした。
親友の支え。そして、私の本当の価値を見抜き、才能を認めてくれたある若き実業家との出会い。
その温かな手によって、私はもう一度、自分自身を取り戻した。
失った誇りを取り戻し、眠っていた才能を開花させ、世界へ羽ばたくデザイナーとして新たな人生を歩み始めた。
今、私の作品は世界の舞台で輝いている。
一方で、かつて私を捨てた男は、跪いて許しを乞う。
「戻ってきてくれ」と。
けれど、もう遅い。
私が去ったあの日こそが、私が本当の自分を取り戻した日。
もう二度と、過去には戻らない。
知る前の夜
二日後、インターン先に足を踏み入れると、彼が社長のデスクの向こうに座っていた。
あの夜、私を喘がせた男にコーヒーを運ぶ日々。なのに彼は、まるで一線を越えたのが私のほうだと言わんばかりの顔をする。
***
始まりは賭けだった。終わりは、彼女が決して望んではならないただ一人の男だった。
ジューン・アレクサンダーは、見ず知らずの男と寝るつもりなどなかった。だが、夢にまで見たインターンを勝ち取り、その夜を祝っていた彼女は、勢い任せの無茶な賭けに背中を押され、謎めいた男の腕の中へと導かれる。熱を帯びた気配を纏い、寡黙で、そして忘れられない男。
もう二度と会うことはない――そう思っていた。
ところが初出勤の日、オフィスに入った瞬間――
彼が新しい上司だと知る。
最高経営責任者、その人だったのだ。
たった一夜、無謀に身体を重ねた男の下で働かなければならない。ヘルメス・グランデは権力者で、冷たく、そして絶対に手を出してはいけない存在。けれど二人の間に張りつめた緊張は、どうしても消えてくれない。
距離が縮まるほど、彼女の心と、二人の秘密を守り抜くことは難しくなっていく。













