ドンの執着の狩り

ドンの執着の狩り

渡り雨 · 完結 · 22.8k 文字

255
トレンド
336
閲覧数
6
追加済み
本棚に追加
読み始める
共有:facebooktwitterpinterestwhatsappreddit

紹介

すでに署名を済ませた離婚届を握りしめ、私は屋敷へと足を踏み入れた。

二年。

神崎家の専属弁護士だった父は、敵対勢力によって口封じのために殺された。母は病床で半年間持ちこたえた末、死の間際に私を神崎龍之介――裏社会を牛耳るマフィアのボス――に託して息を引き取った。

龍之介はその約束を守り、私と結婚した。

龍之介の秘書として二年間を過ごしてきた私には、この書類をどう扱えばいいか痛いほど分かっていた。あとはただ、最後にもう一度だけ、彼からサインをもらうだけでいい

チャプター 1

結衣視点

 すでに署名を済ませた離婚届を握りしめ、私は屋敷へと足を踏み入れた。

 二年。

 神崎家の専属弁護士だった父は、敵対勢力によって口封じのために殺された。母は病床で半年間持ちこたえた末、死の間際に私を神崎龍之介――裏社会を牛耳るマフィアのボス――に託して息を引き取った。

 龍之介はその約束を守り、私と結婚した。

 龍之介の秘書として二年間を過ごしてきた私には、この書類をどう扱えばいいか痛いほど分かっていた。あとはただ、最後にもう一度だけ、彼からサインをもらうだけでいい。

 書斎の扉は少しだけ開いていた。

 その隙間から、むせ返るような重く甘いオレンジブロッサムの香りが漂ってくる。

 二年前、私がオレンジブロッサムのヘアコンディショナーを使った時、龍之介は有無を言わさぬ口調でこう言い放った。『匂いがきつすぎる。変えろ』

 だが今、彼の書斎を満たしているその濃厚なオレンジブロッサムの香り――紗夜の愛用する香水――を気にするどころか、彼は笑い声さえ上げていた。

 紗夜が戻ってきて初めて、私は龍之介がどれほど人を大切にできる人間なのかを知った。

 紗夜は名門・西園寺家の一人娘であり、龍之介の幼馴染だった。しかし家同士の都合により、彼女は龍之介の弟である健太郎と結婚したのだ。

 健太郎が死ぬまでは。

 紗夜は「一族の未亡人」として、再びこの屋敷に戻ってきた。

 龍之介は自らすべての手配を行った。東館の最も環境の良い、窓から薔薇園を一望できる部屋。いつでも使える専用の車に、二十四時間体制の護衛。彼女の飼い猫にさえ、専属の世話係がつけられた。

 彼がここまで細やかに人に気を配れるのだと、私はその時初めて知ったのだ。

 その相手が、決して私ではないというだけで。

 私は扉を押し開けた。

 龍之介は執務机の向こうに座っていた。

 紗夜は彼の椅子の肘掛けに寄りかかっている。

 彼女の指先は彼の肩に置かれ、慣れた手つきで襟元を直していた。笑いながら小首を傾げる彼女の髪が、彼の首筋をかすめる。

 先に私に気づいたのは彼女だった。

「結衣! 今ね、コンサートに行こうって話していたところなの。あなたも一緒にどう?」

「結構です」私は書類を机の上に置いた。

 龍之介の視線が、まるで家具でも見るかのように私の上を滑る。

「今日は資料室に行く予定ではなかったか?」

 私は財団の書類の束の真ん中に離婚届を忍ばせ、署名ページを開いて彼の方へ押しやった。

「サインが必要な、いつもの決裁書類です」

 彼はグラスを置き、紙の端を指で押さえ、わずかに眉をひそめた――

「中身を確認させろ」

 心臓が跳ねた。

「いつもの書類です。重要なものではありません」

「龍之介ったら」紗夜が突然笑い声を上げ、さらに彼へと身を乗り出した。

「いつからそんなに慎重になったのよ? 昔、私のラテン語の赤点答案にサインしてくれた時なんか、見向きもしなかったじゃない」

 彼の口角がわずかに上がった。

 その幼い頃の思い出が、彼の愛情をはっきりと揺り起こしたのだ。彼はそれ以上確認することなくペンを手に取り、自分の名前をサインした。

 流れるような筆致で、素早く、そして迷いなく。

 彼と紗夜が言葉を交わしている隙に、私はわずかに震える指先で書類を引き寄せた。

 紗夜が私をちらりと見て、いつもの親しげな口調で言った。「もう、龍之介ってば。結衣のこと、まるでお使いを頼む秘書みたいに扱ってるんだから。これじゃただの雑用係じゃない。とてもこの屋敷の奥様って感じじゃないわよね」

 龍之介は何も答えなかった。まるで何も聞こえなかったかのように。

 私は背を向け、その場を離れた。

 深く息を吸い込む。

 胸の中で張り詰めていた何かが、静かにほどけていくのを感じた。

 十七歳の時、私は神崎家の屋敷へと送られた。

 当時の龍之介は二十五歳で、一族の事業の大半を引き継いだばかりだった。人を寄せ付けず、畏怖を抱かせるような静けさを纏っていた。

 彼は私に仕事を与えてくれた――専属秘書という仕事を。書類を整理し、予定を管理し、会議の議事録を取り、交渉の席では静かに座っていること。

 私はすぐに仕事を覚えた。この二年間で、自分は屋敷を動かす歯車の一部になったとさえ感じていた。

 結婚の話が出たのは、私が学校に戻って文学を学びたいと口にした後のことだった。

 彼の口調には、一切の反論を許さない響きがあった。

『お前には身分が必要だ。一族には安定した体裁が必要となる。結婚は互いにとって利益になる』

 私たちにも、優しいと呼べるような瞬間はあった。

 結婚して最初の数ヶ月、彼は深夜に帰宅する際、薔薇の花を買ってきてくれた。私がソファで眠り込んでしまった時は、まるで猫を起こさないようにするかのような優しい手つきで、私を寝室まで抱きかかえて運んでくれた。

 私が熱を出した時には、一晩中ベッドのそばに付き添い、その冷たい手を私の額に当てていてくれたこともあった。

 私は、それが始まりなのだと思っていた。

 だが実際には、それがすべてだったのだ。

 結婚二周年の記念日。

 私は勇気を振り絞り、今まで一度もしたことのない行動に出た。繁華街にあるミシュラン星付きのレストランを予約し、深いブルーのドレスを買い(龍之介が青色を好きだと言っていたのを覚えていたからだ)、午後四時から身支度を始めた。

 思ったのだ。今回ばかりは、私から歩み寄れば、彼も私を見てくれるのではないかと。

 私は真夜中までレストランで待ち続けた。龍之介は現れず、電話一本かかってこなかった。

 翌朝、執事が私の朝食の皿の横に新聞を置いた。社交界ページのトップを飾る写真には、紗夜の肩にコートをかける龍之介の姿が写っていた。

 私はその写真を長い間見つめ続けた。

 写真の中の龍之介は、私が今まで一度も見たことのない表情を浮かべていた。まるで世界で一番大切なものを見つめるような、一点に向けられた、柔らかく、ひたすらに甘い眼差し。

 その夜、私はあの深いブルーのドレスをずたずたに切り裂いた。

 その日から、私はここを逃げ出すための計画を立て始めたのだ。

 私は廊下の突き当たりに立ち、手元の書類を強く握りしめた。

 もう、神崎家の透明人間の妻でいるのはご免だった。紗夜がゆっくりと、本来彼女のものであるはずだったすべての場所を奪っていくのを、ただ見ているのはもう嫌だった。

 私は別のことがしたかった――まだそれが何なのかは分からなくても、とにかく何か別のことを。

 うつむき、親指でそのサインをそっとなぞる。

 インクはすでに乾いていた。

 二年。私は彼の秘書であり、妻であり、この屋敷で最も静かな影だった。

 けれど今日から、私はただの結衣になる。

最新チャプター

おすすめ 😍

二度目はない 動じず咲く

二度目はない 動じず咲く

102.9k 閲覧数 · 完結 · Gloria Fox
結婚式の一ヶ月前、私は一年かけて自らの手で縫い上げたウェディングドレスを燃やした。

婚約者は身ごもった愛人を腕に抱き寄せたままそこに立ち、私を鼻で笑っていた。「俺がいなきゃ、お前なんて何の価値もない」

私はきびすを返し、この街で最も裕福な男の扉を叩いた。「ロック氏、政略結婚にご興味はおありですか? 千億ドル相当の株式――それに加え、未来のビジネス帝国も無料でお付けいたしますわ」
妻が去り、妊娠を知った俺は、ただ泣き崩れるしかなかった

妻が去り、妊娠を知った俺は、ただ泣き崩れるしかなかった

471.3k 閲覧数 · 連載中 · 蛙坂下道
鈴木七海は、中村健に好きな人がいることをずっと知っていた。それでも、彼との結婚を選んだ。
しかし、結婚して5年後、彼は離婚を切り出した。その時初めて、彼の想い人が私の父の隠し子(私の異母兄弟)だと知った。
離婚を決意した七海だったが、その時にまさかの妊娠が判明した。
転生して、家族全員に跪いて懺悔させる

転生して、家族全員に跪いて懺悔させる

319.9k 閲覧数 · 連載中 · 青凪
婚約者が浮気していたなんて、しかもその相手が私の実の妹だったなんて!
婚約者にも妹にも裏切られた私。
さらに悲惨なことに、二人は私の手足を切り落とし、舌を抜き、目の前で体を重ね、そして私を残酷に殺したのです!
骨の髄まで憎い...
しかし幸いなことに、運命の糸が絡み合い、私は蘇ったのです!
二度目の人生、今度は自分のために生き、芸能界の女王になってみせる!
復讐を果たす!
かつて私をいじめ、傷つけた者たちには、十倍の報いを受けさせてやる...
追放された偽物の娘、その正体は最強でした

追放された偽物の娘、その正体は最強でした

397.2k 閲覧数 · 連載中 · ゲゲゲ
「本物の娘が見つかった。お前はもう用済みだ」
あの子が現れたその日、私は『偽物の娘』として家を追い出された。
渡されたのは、わずかな小銭と地方行きの片道切符だけ。
さらに婚約者は私をゴミのように捨て、その日のうちに『本物』であるあの子にプロポーズした。

……上等じゃない。せいぜい勝った気でいればいいわ。
だって彼らは、私の【本当の顔】を何一つ知らないのだから。

名門病院が見放した命を救う『天才外科医』。
オークションで数億円の値を叩き出す『伝説の画家』。
裏社会の闘技場で無敗を誇る『影の女王』。
そして――彼らの全財産すら小銭に思えるほどの『真の巨大財閥の後継者』であることを。

今さら元婚約者が土下座で許しを請おうと、本物の娘が嫉妬で狂いそうになろうと、もう遅い。
かつて私に婚約破棄の書類を叩きつけた冷酷で傲慢なCEOでさえ、今や何かに取り憑かれたように私を追い回し、「もう一度だけチャンスをくれ」とすがりついてくる始末。

私を捨てて、自分たちの人生を『アップグレード』したつもり?
笑わせないで。最初から、圧倒的に上の存在だったのは私のほうよ。
社長、突然の三つ子ができました!

社長、突然の三つ子ができました!

260.8k 閲覧数 · 連載中 · キノコ屋
五年前、私は継姉に薬を盛られた。学費に迫られ、私は全てを飲み込んだ。彼の熱い息が耳元に触れ、荒い指先が腿を撫でるたび、震えるような快感が走った。

あの忌まわしい夜から逃げるように去った私だったが、ほどなくして三つ子を妊娠していることに気付く。

五年後、医療界の新星として戻ってきた私は、継母、継姉、実の父へ全ての仕返しを誓う。

その時、彼が現れた。三人の小さな自分そっくりの顔をじっと見つめながら、優しく「パパ」と呼ぶよう子供たちを誘う彼。

ふとシャツのボタンを外し、悪戯っぽく笑って言った――

「どうだい、あの夜の熱をもう一度味わってみないか?」
マフィア姫の帰還

マフィア姫の帰還

36.9k 閲覧数 · 完結 · Tonje Unosen
タリアは何年ものあいだ、母と義理の妹、そして継父と暮らしてきた。だがある日、ついにそこから逃げ出すことに成功する。

ところがその直後、自分にはまだ外に家族がいるのだと知る。そして本当に自分を愛してくれる人たちが大勢いることも――そんなものは今まで感じたことがなかった。少なくとも、彼女の記憶にあるかぎりでは。

タリアは人を信じることを学ばなければならない。新しくできた兄たちにも、ありのままの自分を受け入れてもらわなければならないのだ。
つわり発覚!? 禁欲上司に甘やかされすぎて、胸キュンが止まりません!

つわり発覚!? 禁欲上司に甘やかされすぎて、胸キュンが止まりません!

27.3k 閲覧数 · 連載中 · 佐伯綾子
結婚3周年の記念日、私は妊娠検査薬の書き込み(結果)をプレゼントとして夫に贈った。だけど、返ってきたのは1枚の写真――女の胸に添えられた、男の手。その指に光る結婚指輪が、すべてを物語っていた。

それは私の夫の手。――彼は、浮気をしていた。
今さら返してと言われても、私はもう最強一家の娘です

今さら返してと言われても、私はもう最強一家の娘です

4k 閲覧数 · 連載中 · ^野田恵^
シェリーは一度、高貴なるライアン公爵家に裏切られ、惨めに命を落とした。

――だが目覚めると、5歳児の姿に返っていた。
今世こそ冷酷な貴族の手から逃れ、平穏に生きるのだ。そう誓った彼女は、孤児院の斡旋リストから、最も害のなさそうな「退屈で平凡な男」を新しい父親に指名した。

それが、人生最大の計算違いになるとも知らずに。

新しく父親になったサイラスは、裏社会の生ける伝説と呼ばれる【最強の殺し屋】。
母親は、引退した【超一流の暗殺者】。
兄たちは、国を揺るがす【狂気の天才科学者】と、歩く人間兵器な【最凶の武闘派】。
――ようこそ、世界で最も物騒な「普通の家族」へ。

かつての実家が消えたシェリーを必死に捜索する裏で、彼女は文字を習うより先に、銃の分解方法を叩き込まれていた。
彼女のために世界を火の海にできるほどの怪物の家族に囲まれ、かつての脆く儚い令嬢はもうどこにもいない。

彼女は家族に全肯定され、狂愛される「怪物ちゃん」。
かつて自分を捨てた傲慢な貴族どもを、今度はその牙で、完膚なきまでに噛み砕く番だ。
本物令嬢の正体がばれました

本物令嬢の正体がばれました

127.1k 閲覧数 · 連載中 · ワニノコ
新谷南は新谷家で二十年も育てられたのに、本当の娘が戻ってきた途端、あっさり家を追い出された。

デザイン部のディレクターの席? 本当の娘へ。
何千万円もの価値がある婚約話? 本当の娘へ。

会社中の人間が、彼女という「野良扱いの娘」がどう転げ落ちていくか、笑いものにしようと様子をうかがっていた。

そんなある日、世界限定二十台の高級バイクが会社の前に止まる。降りてきた不良っぽいイケメンが言った。

「妹、兄貴と一緒に帰るぞ」

新谷家の人間「……は?」

そのあとで彼らはようやく知ることになる。

彼女こそ、国内外の美術館の館長たちが面会待ちの列を作る「南先生」と呼ばれるアーティストであり、
新谷グループの全受賞特許の名義人であり、
さらに、伝説の「国家並みの資産を持つ」と噂される周防家の、本当の長女だということを。

大手財閥の若き当主は、封印していた婚約書を取り出し、薄く唇を吊り上げる。

「なるほど。俺の本当の婚約者は、君だったわけか」
地獄の淵で誓った「死」の宣告――裏切り者たちへのレクイエム

地獄の淵で誓った「死」の宣告――裏切り者たちへのレクイエム

3.5k 閲覧数 · 連載中 · 南宮
夫は私を病院へ放り込み、愛人と笑い、娘を飢えさせた。
雪の中で凍え死にかけた私を救ったのは、復讐の代行者。
「選べ。彼らを許すか、地獄へ送るか」 私の答えは決まっている。
膝をついて泣き言を漏らす夫を見下ろしながら、私は冷たく微笑む。
罪を償う時間よ。地獄の火よりも熱い、復讐の始まりを教えるわ。
離婚後、ママと子供が世界中で大活躍

離婚後、ママと子供が世界中で大活躍

179.9k 閲覧数 · 連載中 · yoake
18歳の彼女は、下半身不随の御曹司と結婚する。
本来の花嫁である義理の妹の身代わりとして。

2年間、彼の人生で最も暗い時期に寄り添い続けた。
しかし――

妹の帰還により、彼らの結婚生活は揺らぎ始める。
共に過ごした日々は、妹の存在の前では何の意味も持たないのか。
自己犠牲はもうおしまい。虐げられた養女の反撃

自己犠牲はもうおしまい。虐げられた養女の反撃

10k 閲覧数 · 連載中 · 神楽
丸十五年もの間、涼宮寧音の人生は、ただ一つの残酷な目的のためにあった。
――病弱な義妹のための「生きる血袋」として仕えること。

健康も、才能も、尊厳も、そのすべてを捧げて尽くしてきた。しかし、必死に媚びへつらい、 縋り付いてきた家族から彼女に返されたのは、冷酷な裏切りと追放だった。

彼女の最初の人生は、あまりにも惨めな悲劇で幕を閉じる。
底知れぬ悔恨のなか、彼女は高層ビルから身を投げたのだった。

――だが、運命は彼女に二度目のチャンスを与えた。

二十三歳の誕生日の朝、目を覚ました寧音は誓う。もう二度と、理不尽に耐え忍ぶだけの犠牲者にはならない、と。

彼女は、毒親と義妹が巣喰う涼宮家を毅然と離脱。彼らが決して奪うことのできない、自分だけの唯一無二の武器――非凡なる「デザインの才能」を手に、新たな世界へと飛び込む。

その圧倒的な輝きは、政財界に絶対的な権力を誇る最高経営責任者、伏見盛重の目を引いた。彼は同情という名の施しではなく、対等なビジネスパートナーとして、彼女に救いの手を差し伸べる。

いまや寧音は、ただ生き延びるために足掻く哀れな女ではない。

自らの人生を狂わせた「家族」を冷徹に、一歩ずつ破滅へと追い詰めながら、彼女は愛する実母の死の真相へと迫っていく。