紹介
妹の澄子が「失恋した」という理由で、家族が彼女を慰めるために私たちの牧場へ乗馬に連れてくることを決め、結婚式は延期された。
私は吉羽家の牧場の厩舎で、血まみれになった指で母の番号に電話をかけた。
母は一言だけこう言った。「また何の芝居?可哀想なふりをすれば、私たちが慰めるとでも思ったの?友恵、いい加減にしなさい!」
婚約者の寿道は、さらに冷酷だった。「結婚式を延期するだけだろう?それすら受け入れられないなら、いっそキャンセルだ。――俺は、澄子と結婚する」
それが、彼らが私を失望させた最後だった。
そして、私が助けを求めた、最後の機会でもあった。
私は自らの血の海に横たわり、とうに息絶えていた。彼らは私がただ拗(す)ねて、どこかで一人でふてくされているだけだと思っていた。放っておけば、私が自分からすごすごと戻ってきて謝罪すると、そう高を括っていたのだ。
だが、彼らは知らない。
私が、もう死んでしまったことを。
チャプター 1
本来ならば寿道と結婚するはずだったその日に、私は死んだ。
妹の澄子が「失恋」したから。その傷心旅行として、家族は彼女を連れてうちの牧場へやってくることになり、結婚式は延期されたのだ。
私は吉羽家が所有する牧場の厩舎で、血まみれの指を震わせながら母に電話をかけた。
母の言葉は短かった。
「また狂言? 可哀想なふりをすれば構ってもらえると思ってるの? いい加減にしなさい、友恵!」
婚約者の寿道はもっと酷かった。
「たかが延期だろう? それすら受け入れられないなら、いっそ破談にしようか――俺は澄子と結婚したっていいんだぞ」
それが、彼らから与えられた最後の絶望だった。
そして、私が発した最後の助けを求める声でもあった。
血の海に沈んだ私は、とうに息絶えている。彼らは私がただ拗ねて、どこかに隠れて鬱憤を晴らしているだけだと思っている。放っておけば、そのうち泣きついて謝ってくると高を括っている。
けれど、彼らは知らない。
私がもう、死んでいることを。
魂となって厩舎を抜け出した時、兄の隼人の声が聞こえた。
遠くに見える吉羽家の母屋は、煌々と明かりが灯っている。
彼らは到着したのだ。
「三日も帰ってないだと? 電話も出ねえ、メッセージも無視かよ」
隼人は母屋の縁側で、苛立ちを隠そうともせずに携帯を耳に押し当てていた。
相手は実家の執事だ。
隼人は鼻を鳴らした。
「ふん、分かった。放っておけ。どこへなりとも勝手に行かせとけばいい」
私は彼の背中を追ってリビングへ入った。
A市の郊外に位置するこの牧場は、吉羽家の私有地だ。暖炉には火が入り、部屋は暖気に満ちている。到着したばかりなのだろう、ソファの背にはコートが掛けられていた。父の村太郎は新聞をめくり、母の奈美子は紅茶のカップを傾けている。そして澄子は寿道に寄り添い、明日の乗馬の予定を楽しげに聞いていた。
「執事の話じゃ、友恵は三日も戻ってないらしい」
隼人が携帯をテーブルに放り投げた。
母が眉をひそめる。
「いつまで駄々をこねるつもりかしら。たった二週間の延期じゃない。澄子が失恋したのよ、姉なら少しは配慮すべきでしょう?」
父が新聞を下ろした。
「あいつのいつもの手だ。騒ぎを大きくして姿を消し、私たちが頭を下げるのを待っている。今回は誰も連絡するな。頭を冷やさせろ」
母は冷笑した。
「そんなに聞き分けがないなら、いっそどこかで野垂れ死んでくれた方が清々するわ」
部屋の隅に浮かびながら、私はその言葉を聞いていた。
かつての私なら泣いただろう、弁明しただろう。けれど今は涙さえ出ない。魂は泣かないのだ。
澄子が顔を上げ、下唇を噛んだ。
「お父様、お母様、お姉様を責めないで……私が失恋したせいで、式が延期になったから……」
か細く、罪悪感に濡れたその声は、まるで傷ついた小鹿のようだ。
母は彼女を抱き寄せる。
「馬鹿な子ね、澄子が悪いわけないでしょう? 全部友恵がわがままなだけよ」
澄子はうつむき、手元のスマホ画面を高速でフリックした――
『自業自得ね。結婚式? あんたなんかに似合うわけないでしょ。今日、寿道さんに乗馬を教えてもらったわ。彼の手、すごく温かかった。あんたは一生知らないままね。死ねばいいのに、二度と戻ってこないで』
送信。削除。
顔を上げた時には、また眼を赤くした健気な妹に戻っていた。
窓辺に浮かびながら、私は笑おうとした。声は出なかったけれど。
今日は本来、私と寿道の結婚式だったはずだ。
純白のドレスを纏い、父と腕を組み、薔薇の花びらが舞うバージンロードを歩くはずだった。ゲストたちの祝福を受け、寿道が牧師の前で『誓います』と言うはずだった。
けれど、澄子が「失恋」したから――存在もしない彼氏との失恋のために――両親は家族全員でのA市への休暇を決め、式は二週間延期された。
さらに滑稽なのは、寿道までもが同意したことだ。
「友恵、澄子は今傷ついてるんだ。たった二週間だぞ、小さいことにこだわるな」
あの夜、私は家を飛び出し、人気のない夜道を歩いていた。薄手のコートを突き抜ける冷風よりも、心の亀裂の方が痛かった。背後の足音に気づく間もなく――粗末な布で目隠しをされ、数人の手によって車に押し込まれた。
車は長く走った。トランクから引きずり出されると、干し草と馬糞の匂いがした。馬の鼻を鳴らす音。
そこは――A市にある吉羽家の所有する厩舎だった。
足首には家畜のように鎖が巻かれた。男は私を知らなかった。自分が獲物を、その獲物の縄張りに捨てたことすら知らずに。
丸三日。
ナイフが頬を切り裂き、煙草の火が鎖骨に押し付けられた。皮膚が焦げる音。罵倒、羞恥。猿轡のせいで悲鳴すら上げられない。
三日目、酒に酔った男の手加減が狂った。後頭部に重い衝撃。鼻と口から同時に鮮血が溢れ出す。痙攣、白目、硬直――まるで瀕死の家畜だ。
男は慌てた。
「クソッ――俺は金貰って頼まれただけだ、こんな気味の悪い場所、二度と来るか!」
鎖が外される。足音が遠ざかり、扉すら閉めずに男は逃げ去った。
世界が静寂に包まれた。私は氷のように冷たい地面に這いつくばり、弱っていく鼓動を聞いていた。
血に濡れた指で、隅に蹴り飛ばされていたスマホを手繰り寄せる。画面は砕けていたが、まだ生きていた。震える指で母にかけた。
「また狂言? 可哀想なふりをすれば構ってもらえると思ってるの? いい加減にしなさい、友恵!」
通話が切れる。
私は二番目の番号へかけた。
寿道の声は、疲労と不機嫌に満ちていた。
「友恵、たかが延期だろう? 中止になったわけじゃない。それすら受け入れられないなら、いっそ破談にしようか――俺は澄子と結婚したっていいんだぞ」
スマホが指の間から滑り落ち、血溜まりに沈んだ。
「助けて」「死にそう」と言いたかった。けれど喉から溢れたのは血の泡だけで、声にはならなかった。
最期の瞬間、私は思った。これで寿道は望み通りだ――澄子と結婚できるし、もう私という「邪魔者」に付きまとわれることもない。
澄子はずっと私の死を望んでいた。そうすれば両親の愛を独占できるから。誰も彼女の視界を遮るものはいなくなる。
今、彼女の願いは叶ったのだ。
そして今。私の冷たい亡骸から六十ヤードも離れていないリビングで、彼らは暖炉を囲んでいる。私がどれほどわがままかを語り合い、熱い紅茶を飲み、明日はどの馬を澄子に乗せるか相談している。
誰も知らない。私がもう、死んでいることを。
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