紹介
四年後、私は夫と共に故郷のA市に戻ってきた。さほど大きくないこの街で、運命は皮肉にも、私を彼と再会させた。
あろうことか、彼は私に愛人になれと言い放ったのだ。
私は左手を掲げ、指輪が照明の下で冷たい光を放つ。
「あなた、目は見えないの?」
チャプター 1
故郷に戻ってから、もう三ヶ月余りが過ぎた。
時の流れは緩やかで、日課といえば両親との散歩や談笑、あとはスマホ越しに夫や娘とテレビ電話をするくらいだ。
今日は親友に誘われて街へ出た。数日後には夫と娘もこちらへ来る予定なので、ちょうどいい気晴らしになると思って了承したのだ。数年ぶりに会った彼女は相変わらずで、私を試着室に押し込んでは「また太っちゃった」と愚痴をこぼしている。
買い物を終え、市中心部の高級レストランに腰を落ち着ける。
酒が入った親友は、堰を切ったように話し始めた。「ねえ知ってる? あの時、あんたたちが式場を出ていった直後に、聡介が戻ってきたのよ」
彼女は声を潜め、ゴシップ特有の興奮を目に宿して続けた。「ほとんど入れ違いみたいなもんよ。その日のうちに、あの女と結婚式を挙げたんだから」
「世間じゃ大炎上だったけど、本人は痛くも痒くもないって顔してたわ」
私は淡々とグラスを傾け、口を湿らせた。
「過去のことよ。もう終わった話だわ」
親友は溜息をつき、話題を変えた。
「正直なところ、当時あんたが思い詰めてるんじゃないかって心配してたのよ。まさか結婚して、娘まで生まれてるなんてね」
「今の旦那さん、良くしてくれる?」
私は頷き、自然と口元を綻ばせた。
夫と娘のことを思うだけで、胸の奥から温かいものが込み上げてくる。それは真の安らぎであり、かつてあの男の後ろを愚かにも追いかけ回していた頃の自分とは、何から何まで違っていた。
食事と会話が進む中、親友が突然顔色を悪くした。
「お腹壊したかも」と言い残し、彼女は慌ててトイレへと駆け込んでいく。
取り残された私は、手持ち無沙汰にスマホを弄っていた。
「由美奈か?」
背後から声がした。
あまりに聞き覚えのあるその声に、全身が凍りつく。
振り返る。
そこに聡介が立っていた。後ろにはスーツ姿の男たちを数名従えている。濃色のコートを羽織り、髪を隙なく撫で付け、顔には見飽きたあの笑みを張り付けていた。
虚飾と、独善に満ちた笑みだ。
「やっぱりそうだ」彼は数歩近づき、私を値踏みするように上から下まで眺めた。
「いつ戻ってきた?」
取り巻きの男たちも寄ってきて、探るような、嘲るような視線を投げてくる。
その一人が舌打ち交じりに言った。
「なんだその格好、相変わらず地味すぎて涙が出るねえ。聡介がいなくなってから、相当落ちぶれたんじゃないか?」
「全くだ」別の男が鼻で笑う。
「どうりでこんな場所にいるわけだ。由美奈、お前まだ聡介が忘れられなくて、待ち伏せしてたんだろ?」
「つーか、よく入れたな。ここ安くないぜ」
彼らの言葉が、蝿のように耳元でブンブンと喚き立てる。
私はグラスを持つ手に力を込めた。
いつだったか、私も彼らの前で顔色を窺い、機嫌を損ねないよう愛想笑いを浮かべていた。
今にして思えば、なんと滑稽なことだろう。
聡介は手を振って取り巻きを制すると、ねっとりとした甘い視線を私に向けた。
「数年見ないうちに、綺麗になったな。分かってるよ、俺のことが忘れられないんだろ。じゃなきゃ、わざわざこんな所に来るはずがない」
彼は勿体ぶって一呼吸置き、さも慈悲深い提案でもするかのように声を潜めた。
「そこまで俺を愛しているなら、受け入れてやってもいい。俺の愛人になれよ」
男たちが即座にはやし立てる。
「さっすが大将、情が深いねえ!」
「おい、早く感謝したらどうだ? 今の大将はすげえんだぞ。なんたって、今をときめく巨大企業のトップ、林田様と提携するんだからな。本物の大物だぞ!」
「千載一遇のチャンスだぜ、その恰好じゃあな!」
彼らの声はますます耳障りになっていく。 周囲の客が眉を顰め、ヒソヒソとこちらを見ているのが分かった。
吐き気がした。
彼らの言葉にではない、目の前の男に対してだ。
これほど図々しく、恩着せがましく振る舞える神経が信じられない。晴子だけでは飽き足らず、夫の愛を受けて輝く私を見て、薄汚い欲望を抱いたのだろう。
その視線は蛇のように絡みつき、粘着質で、不快極まりない。
嵐の中で「ずっと一緒だ」と誓ったあの少年は、とうの昔に死んだのだ。
私はグラスを置き、バッグを掴んで立ち上がった。
一秒たりともここにいたくない。
だが数歩も進まないうちに、手首を掴まれた。
聡介が追いかけてきており、その後ろには金魚のフンたちも続いている。
「何するつもりだ?」彼は不満げに眉を寄せた。
「俺が話してるんだぞ」
「晴子と結婚したのは仕方なかったんだ」声のトーンを落とし、自分に酔ったような表情で彼は続けた。
「一つの命がかかってたんだ。お前なら理解できるだろ?」
「それに、俺の心はまだお前を愛してる」
「俺に振り向いてほしいんだろ? 拒絶するような真似はやめろよ」
私は彼の手を力任せに振りほどき、左手を突き出した。薬指のリングが、陽光を弾いてきらりと輝く。
「目は節穴なの?」
「私が結婚してることすら、見えないわけ?」
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