契約結婚から、離れるまで

契約結婚から、離れるまで

渡り雨 · 完結 · 26.4k 文字

913
トレンド
1.1k
閲覧数
0
追加済み
本棚に追加
読み始める
共有:facebooktwitterpinterestwhatsappreddit

紹介

私と秋生の三年間の契約結婚も、あと二ヶ月で期限切れになる。

彼は私を好きになったことは一度もない。

そうすれば、私は自由になれる。

と思っていたが。

チャプター 1

国際展示場の会場内は、人々の熱気と喧騒に包まれていた。私は「秋生テクノロジーベンチャーズ」のブースに設置された、最後の一台となるスマートディスプレイの角度を慎重に調整する。当社が新たに出資したAIプロジェクトの成果を、完璧な形で披露するためだ。

「気をつけて、そのスタンド、ちょっと不安定だから!」

音響機材を担当するスタッフが横から声をかける。

私は小さく頷き、その場を離れようとした瞬間——背後から、カツカツという慌ただしいヒールの音が迫ってくるのが聞こえた。

「どいて! そこ、どいてったら!」

反応する暇もなかった。背中に強烈な衝撃が走る。

バランスを崩した私は前へとつんのめり、ただでさえ不安定だった展示用スタンドが倒壊した。重厚な金属製フレームが、私の頭部を直撃した。

瞬時に鮮血が噴き出し、額を伝って床へと滴り落ちた。

頭を押さえながら視線を上げると、早足で近づいてくる秋生の姿が見えた。その後ろには、オフホワイトのデザイナースーツに身を包んだ、長身の女性が続いている。私を突き飛ばした張本人だ。

「本当にごめんなさい!」

その女性は流暢な英語で言った。

「急いでいたものだから、そこに人がいるなんて気づかなくて」

血は止まることなく流れ続け、視界が霞んでいく。

軽度の血小板減少症を患っている私は、一度怪我をするとなかなか血が止まらないのだ。

「心夢、どうしてそんなに不注意なんだ?」

秋生は眉をひそめたが、その口調に含まれていたのは叱責よりも、明らかに相手を気遣う響きだった。

心夢? 私の心臓が嫌な音を立てる。

彼が学生時代から十年間、想い続けてきたという、あの「心夢」なのだろうか。

「秋生、やっと会えた!」

心夢は私など眼中にない様子で、そのまま秋生の胸に飛び込んだ。

「飛行機を降りてすぐに駆けつけたのよ。あなたを驚かせたくて。まさか、こんな事故が起きるなんて思わなかったわ」

秋生は心夢の背中を優しく叩きながら、複雑な眼差しで私を一瞥した。

「そんなことより」

心夢は秋生の腕から離れると、優雅な仕草で髪を整えた。

「そちらの方、傷が深そうじゃない。救急車を呼びましょうか?」

「結構です」

私はふらつく足でどうにか立ち上がり、傷口を強く押さえた。

「ただのかすり傷ですので」

「あら、そんなに出血しているのに、かすり傷だなんて」

心夢は心配そうな表情を作ったが、その声色には、明らかに上から目線の同情が含まれていた。

「あなた、ブースのスタッフよね? 治療費の請求書を秋生の秘書に渡してちょうだい。全額賠償するわ」

そこへ、秋生の秘書である小林が駆けつけてきた。私を見るなり、彼はぎょっとした表情を浮かべる。

彼は、私と秋生が隠れて結婚している事実を知る数少ない人物であり、同時に心夢の存在も知っている。気まずそうにするのも無理はなかった。

「西野さん、出血が止まりませんが……凝固系の持病などは?」

小林が恐る恐る尋ねる。

「ええ、軽度の血小板減少症がありますので」

私は淡々と事実を告げた。

秋生の表情が、にわかに険しいものへと変わた。

彼が私の体質を知らないはずがない。何しろ私たちは、もう三年近くも「結婚」しているのだから。

「秋生、この方のこと、知ってるの?」

心夢が何かを敏感に察知し、疑わしげな視線を私たちに向けた。

時間が止まったようだった。秋生の視線が私と心夢の間を彷徨っていた。一瞬の躊躇の後、彼は口を開いた。

「いや、知らない。会社の社員で、顔を何度か合わせたことがあるという程度だ」

私の心は、瞬く間に冷え切った底へと沈んでいった。

私たちの関係が契約だけのものであることは知っていた。彼の心の中で、心夢という存在がどれほど大きいかも理解していた。だが、このような状況でこれほど冷徹に他人扱いされたことは、骨の髄まで凍りつくような寒さを私に与えた。

「なら、いいのけれど」

心夢は安堵の息を吐き、再び秋生の腕に絡みついた。

「てっきり……でも、不慮の事故とはいえ怪我をさせてしまったのだから、補償はきちんとするわ」

「あとは小林が処理する」

秋生は私から目を逸らし、心夢に向かって言った。

「会議室へ行こう。今日の製品発表会について、最終確認が必要だ」

「ええ、シリコンバレーでの新しいプロジェクトについても、あなたとじっくり話したかったの」

心夢は再会の喜びに浸り、興奮気味に喋り続けている。

二人が立ち去る背中を見つめながら、私は二ヶ月前に受け取った契約満了の通知書を思い出していた。このバカみたいな婚姻契約は、あと二ヶ月で終了する。

「西野さん、病院までお送りしましょうか」

小林が心配そうに私を見つめる。

「いいえ、結構です」

私は首を振り、鞄から取り出したティッシュで傷口をさらに強く押さえた。

「契約の規定通り、休業補償さえいただければ」

私の言葉に、小林はさらに気まずさを募らせたようだった。

スマホで配車アプリを開いたが、展示会期間中の渋滞のせいで、ドライバーからキャンセルされてしまった。

もういい。どうせ家は遠くない。歩いて帰ろう。

会場を出ると、港区の夜景に華やかな灯がともり始めていた。

一歩、また一歩と歩を進めるうち、五年前の記憶が自然と蘇ってくる。

あの頃、私は学費に悩むただの高校生だった。母が突然の脳血管障害で倒れ、医療費が家計を圧迫していたのだ。

進学を諦めかけたその時、秋生が設立した「優秀学生支援基金」が私を見つけ出してくれた。

『西野華恋さんですね。君の成績は非常に優秀だ』

カフェで向かい合った若き日の秋生は、私の申請書類に真剣な眼差しを落としていた。

『高校と大学、すべての学業を修了するまで、私が支援しよう』

それが、彼との初めての出会いだった。

当時二十四歳の秋生は、すでに著名な青年実業家であり、その瞳は澄んでいて、揺るぎない意志を宿していた。

『何か困ったことがあれば、いつでも連絡してきなさい』

そう言われた時、私は涙が溢れ出しそうになった。

大学三年生の時、私は恩人である彼——私の運命を変えてくれた人をより近くで知りたいと思い、彼の会社でのインターンを志願した。

『華恋、よく頑張ったな』

インターン終了時、秋生はそう言った。

『卒業後、うちに来たいならいつでも歓迎する』

彼はいつも週末に休日出勤し、誰もいないオフィスに一人で残っていた。私はこっそりとコーヒーを差し入れし、彼も穏やかな声で礼を言ってくれた。

理不尽なクライアントのリクエストに私が泣いていた時は、ティッシュを差し出し、相手に対して厳然と言い放ってくれた。『これは当社の社員の責任ではありません』と。

『私が責任を持つから』

そう言った時の彼の表情は、今でも私の心に深く焼き付いている。

血はまだじわりと滲み出している。私は血に染まったティッシュを強く押し当て、歩く速度を上げた。

あと二ヶ月。そうすれば、すべてが終わる。

最新チャプター

おすすめ 😍

出所したら、植物状態の大富豪と電撃結婚しました。

出所したら、植物状態の大富豪と電撃結婚しました。

169.4k 閲覧数 · 連載中 · 青凪
5年前、私は誰かの身代わりとなり、無実の罪で投獄された。
出所すると、母親は私が獄中で産んだ二人の子供を盾に、植物状態にある億万長者との結婚を強いる。
時を同じくして、その悲劇の大富豪もまた、家族内での権力闘争の渦中にいた。

街では植物状態の男が若い花嫁とどう初夜を過ごすのかと噂される中、この元囚人が並外れた医療技術を秘めていることなど、誰も予想だにしなかった。
夜が更け、無数の銀鍼(ぎんしん)が打たれた男の腕が、静かに震え始める…

こうして、元囚人の彼女と植物状態の夫との、予期せぬ愛の物語が幕を開ける。
さようなら、愛してくれない家族たち。地味な専業主婦は研究界の女王へと覚醒する

さようなら、愛してくれない家族たち。地味な専業主婦は研究界の女王へと覚醒する

141.1k 閲覧数 · 連載中 · 86拓海
「君よりも、彼女のほうが母親にふさわしい」
愛する夫と子供たちにそう言われ、私は家庭内での居場所を失った。
六年間、身を粉にして尽くしてきた日々は、何の意味もなかったのだ。

絶望の中で目にしたのは、かつて母が手にした科学界の最高栄誉であるトロフィー。
その輝きが、私に本来の自分を思い出させた。

私はエプロンを脱ぎ捨て、白衣を纏う。
もう誰かの妻でも、母でもない。一人の科学者として、世界を驚かせるために。

数々の賞を総なめにし、頂点に立った私を見て、元夫は顔面蒼白で崩れ落ちた。
震える声で私の名前を呼び、足元に縋り付く彼。

「行かないでくれ……君がいないと、俺は……」

かつて私を見下していたその瞳が、今は絶望と後悔に染まっていた。
社長、突然の三つ子ができました!

社長、突然の三つ子ができました!

73.9k 閲覧数 · 連載中 · キノコ屋
五年前、私は継姉に薬を盛られた。学費に迫られ、私は全てを飲み込んだ。彼の熱い息が耳元に触れ、荒い指先が腿を撫でるたび、震えるような快感が走った。

あの忌まわしい夜から逃げるように去った私だったが、ほどなくして三つ子を妊娠していることに気付く。

五年後、医療界の新星として戻ってきた私は、継母、継姉、実の父へ全ての仕返しを誓う。

その時、彼が現れた。三人の小さな自分そっくりの顔をじっと見つめながら、優しく「パパ」と呼ぶよう子供たちを誘う彼。

ふとシャツのボタンを外し、悪戯っぽく笑って言った――

「どうだい、あの夜の熱をもう一度味わってみないか?」
不倫夫を捨て、私は大富豪の妻になる

不倫夫を捨て、私は大富豪の妻になる

91.8k 閲覧数 · 連載中 · 七海
人生最良の日になるはずだった、結婚式当日。
新郎の車から出てきたのは、見知らぬ女の派手なレースの下着だった。

しかも、その布切れにはまだ。生々しい情事の痕跡が残されていた。

吐き気がするほどの裏切り。
幸せの絶頂から地獄へと突き落とされた私。

けれど、泣き寝入りなんてしてやらない。
私はその場でウェディングドレスの裾を翻し、決意した。

「こんな汚らわしい男は捨ててやる」

私が選んだ次の相手は、彼など足元にも及ばない世界的な億万長者で?
跡継ぎゼロの冷酷社長に一夜で双子を授けてしまいました

跡継ぎゼロの冷酷社長に一夜で双子を授けてしまいました

98.7k 閲覧数 · 連載中 · 風見リン
結婚三年目、浅見紗雪は名門の偽令嬢だったことが発覚した。

姑は彼女に離婚を迫り、婚約を真の令嬢に返すよう要求した。

浅見紗雪は不安を抱えながら夫に尋ねた。

しかし彼は冷淡な表情で言った。

「俺が誰と結婚しようと、どうでもいい」

彼女は心が冷え切り、離婚協議書にサインした。

一週間後、十数機のヘリコプターが浅見紗雪の前に着陸し、そこから三人の財閥御曹司が降りてきた。

彼らは興奮した面持ちで言った。

「妹よ、二十年間、ようやく君を見つけることができた!」
逃げる秘書の資産は三千億!?急げ、社長!

逃げる秘書の資産は三千億!?急げ、社長!

73.1k 閲覧数 · 連載中 · 神楽坂奏
十年前、中林真由の母親が腎臓移植を必要としたが、家には手術費を工面する金がなく、挙句の果てに家まで叔父一家に乗っ取られた。
少しでも多くのお金を稼ぐため、彼女は高級クラブでウェイトレスとして働き始めた。
女があまりに美しく、誰も守ってくれる者がいない時、その美しさは原罪となる。
初出勤の日、彼女は危うく猥褻行為の被害に遭いかけた。
男たちが彼女を取り囲み、卑猥な視線をその身に注ぐ。
クラブの金持ちたちは、彼女のような世間知らずの子羊を見つけ出すのが実にうまかった。
彼女が最も惨めなその時、今野敦史が現れた。
この十年、彼女はずっと今野敦史の傍にいた。
友人たちも、家族も、皆が今野敦史を知っていて、二人が付き合っていると思い込んでいる。
でも、今まで彼の周りには女が絶えなかったじゃない。それが今、「ついに運命の相手を見つけた」なんて言ってるの。
今、ようやく彼から離れる機会を得たというのに、どうして手放せようか。
死んだはずの妻が、自分と「瓜二つ」の双子を連れて帰ってきた

死んだはずの妻が、自分と「瓜二つ」の双子を連れて帰ってきた

59.2k 閲覧数 · 連載中 · 白石
5年前、身に覚えのない罪で投獄され、身重の体で捨てられた私。
異国の地で必死に生き抜き、女手一つで双子の息子を育て上げた。

平穏を求めて帰国した私だったが、運命は残酷だ。
かつて私を捨てた元夫・ベンジャミンに見つかってしまったのだ。

「その子供たち……俺にそっくりじゃないか」

彼の目の前にいるのは、彼を縮小したかのような「生き写し」の双子。
ベンジャミンは驚愕し、私たちを引き留めようとする。
しかし、息子たちは冷酷な父親を敵視し、断固として拒絶するのだった。

「僕たちを捨てた男なんて、父親じゃない!」

やがて明らかになる、あの日の「火事」の真相と、悪女オリビアの卑劣な罠。
すべての誤解が解けた時、彼が差し出す愛を、私は受け入れることができるのか?

憎しみと、消え残る愛の間で揺れる、会と許しの物語。
社長、見て!あの子供たち、あなたにそっくりです!

社長、見て!あの子供たち、あなたにそっくりです!

81.3k 閲覧数 · 連載中 · 風見リン
結婚三周年――
中川希は期待に胸を膨らませて、高原賢治に妊娠の報告をした。
しかし返ってきたのは――十億円の小切手、一言「子供を中絶しろ」、そして離婚契約書だった。
子供を守るため、彼女は逃げた。
――五年後。
双子の愛らしい子供を連れて帰ってきた彼女は、医学界で誰もが憧れる名医となっていた。
追い求める男は数知れず。
その時、高原賢治は後悔し、全世界に向けて謝罪のライブ配信中。
中川希は冷ややかに見下ろす。
「離婚して、子供もいらないって言ったんじゃないの?」
彼は卑屈に頼み込む。
「希、復縁して、子供を――」
「夢でも見てなさい。」
「希、子供たちは父親が必要だ。」
双子は両手を腰に当て、声をそろえて言う。
「私たち、ママをいじめるパパなんていらない!」
部屋から布団も荷物も投げ出され、大人しく立つことすらできない高原賢治に、希は言い放つ。
「目を見開いて、よく見なさい。結局誰が誰をいじめてるのか――!」
不倫修羅場の翌日、財閥の御曹司とスピード婚!?

不倫修羅場の翌日、財閥の御曹司とスピード婚!?

106.5k 閲覧数 · 連載中 · 朝霧祈
田中唯はドアの外に立ち、部屋の中から聞こえてくる淫らな声に、怒りで全身をわなわなと震わせていた!
ここは彼女の新居。彼女と高橋雄大の新居になるはずの場所だ。
部屋の中にある調度品は一つ一つ彼女が心を込めて選び抜き、その配置も隅々まで熟考を重ねて決めたものだった。
中にある新婚用のベッドは、昨日届いたばかり。
明日は、二人の結婚式だ。
それなのに今日、彼女の婚約者はその新婚用のベッドの上で、別の女と情熱的に絡み合っている!
「俺と結婚しろ」
背後の男が突然口を開き、驚くべきことを言った!
「俺の姓は鈴木。鈴木晶だ」男は自己紹介を終えると、言った。「明日の結婚式、俺と高橋雄大、どっちを選ぶ?」
田中唯は心の中で、どちらも選びたくないと叫んだ。
だが、それは不可能だと分かっている。
明日の結婚式は予定通り行わなければならない。キャンセルすれば祖母が心配する。自分にわがままを言う資格はない。
「あなたを選びます」
冷酷社長の愛の追跡、元妻の君は高嶺の花

冷酷社長の愛の追跡、元妻の君は高嶺の花

80.4k 閲覧数 · 連載中 · 午前零時
「離婚しましょう」——夫が他の女性と恋に落ち、私にそう告げた日。
私は静かに頷いた。

離婚は簡単だった。でも、やり直すことはそう簡単にはいかない。

離婚後、元夫は衝撃の事実を知る。私が実は大富豪の令嬢だったという真実を。
途端に態度を豹変させ、再婚を懇願して土下座までする元夫。

私の返事はたった一言。
「消えろ」
天使な双子の恋のキューピッド

天使な双子の恋のキューピッド

87.5k 閲覧数 · 連載中 · 鯨井
妊娠中の私を裏切った夫。不倫相手の策略に陥れられ、夫からの信頼も失い、耐え難い屈辱を味わった日々...。

しかし、私は決して諦めなかった。離婚を決意し、シングルマザーとして懸命に子育てをしながら、自分の道を切り開いていった。そして今や、誰もが認める成功者となった。

そんな時、かつての夫が後悔の涙とともに現れ、復縁を懇願してきた。

私の答えはただ一言。
「消えなさい」
離婚と妊娠~追憶のシグナル~

離婚と妊娠~追憶のシグナル~

71.2k 閲覧数 · 連載中 · 月見光
離婚して、すべて終わると思った。
伊井瀬奈は新生活を歩み始める决心を固めていた。
しかし、その時、訪れたのは予期せぬ妊娠——それも、最悪のタイミングでの激しいつわり。
瀬奈は必死に吐き気をこらえるが、限界を迎え……。
「お前……まさか……」
冷酷無比な元夫・黒川颯の鋭い目が、瀬奈のお腹へと向けられる。
あの日から、運命は、もう一度動き出していた。