永遠に訪れない結婚

永遠に訪れない結婚

渡り雨 · 完結 · 19.9k 文字

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紹介

健太とはもう5年一緒にいる。
無名のチンピラだった頃から、彼がのし上がって組長になるまで、ずっとそばで支えてきた。

頂点に立ったら、市役所に行って正式に籍を入れようって、彼は約束してくれていた。
そして今日こそが、ついに私たちが婚姻届を出すはずの日――そのはずだった。

でも健太は、初恋の女、佐藤美咲のせいで、これまでに8回も婚姻届の提出を延期してきた。

これは9回目の挑戦。
10回目なんて、私はもう許さない。

チャプター 1

 市役所の記入台に座り、私は目の前に置かれた婚姻届を見つめていた。籍を入れようとするのは、これで九度目だ。

 隣に座る健太は、スマホの画面をスクロールしている。自分の記入欄は、すでにぞんざいな字で埋められていた。

 日付欄へとペンを走らせようとした私の手は、微かに震えていた。

 今度こそ大丈夫。だよね、健太?

 深く息を吸い込む。日付を書き入れようとしたまさにその時、ガラス扉が勢いよく開いた。

「健太!」

 目を真っ赤に腫らし、涙ぐんだ美咲がロビーを駆け抜けてきた。私には一瞥もくれない。

「健太!」彼女は上ずった声を上げた。

「仕事で大変なことになっちゃって、契約書の条件が全然わからないの。お願い、一緒に見て!」

 日付欄の上でペンがピタリと止まる。私はゆっくりと首を巡らせ、健太を見た。

 彼は美咲を見つめ、私を見て、そして再び美咲へと視線を戻した。その額に、うっすらと汗がにじむ。

「美咲、俺は今、ちょっと取り込み中で……」

「健太、今日の午後にはこの契約書にサインしなきゃいけないの!」美咲は彼の腕にすがりついた。

「どうしたらいいかわからないのよ。お願い。こういうのがわかるの、健太しかいないじゃない」

 健太の表情が変わるのを、私はただ見つめていた。罪悪感と心配が入り混じった、あの見慣れた顔だ。

 またか。

 一度目の記憶が脳裏をよぎる。市役所の外に立っていた時、健太のスマホが鳴った。

『美咲が海外から帰ってきたんだ。空港まで迎えに行かないと』

 彼は私を階段に取り残し、角を曲がって消えていく車を、私はただ見送るしかなかった。

 二度目は、入り口のドアのところまで来ていた。健太のスマホが震え、メッセージを読んだ彼の顔から血の気が引いた。

『美咲が病院に運ばれた。アレルギー反応だって。ごめん、行かなきゃ』

 三度目。私たちは駐車場にいた。『美咲がバンジージャンプをするんだけど、怖がってて。俺がついててやらないと』

 四度目。五度目。六度目。七度目。八度目。

 いつだって美咲だ。いつだって緊急事態。いつだって『次は絶対に籍を入れよう、約束する』。

 そして私は、その度に『わかった』と頷き続けてきた。

 だが、今回は九度目だ。

「玲奈……」健太が私を見た。すがるような目をしている。

「俺……」

 私はペンを置いた。不思議なほどの静けさが心を満たしていく。ふと、笑みがこぼれた。

 健太が凍りつく。

「玲奈?」

「いいよ」と私は言った。

「仕事は大事だもの。行ってあげて」

 あっという間に、健太の顔に安堵の表情が広がった。彼は急いで立ち上がり、ジャケットを手に取る。

「わかってくれてありがとう。次は必ず来るから、誓うよ。次こそ絶対に籍を入れよう」

 前回も彼は同じことを言った。その前も。さらにその前も。

 美咲と共に去っていく彼を見送る。急に、この空間が明るすぎ、そしてうるさすぎるように感じられた。

 目の前の婚姻届を見下ろし、私はそれを真っ二つに引き裂いた。

 九度、私は待った。

 九度、彼は彼女を選んだ。

 記入台の脇にあるゴミ箱へ、紙の切れ端をパラパラと落とす。

 立ち上がり、一度も振り返ることなく、私はその場を後にした。

 外は思いのほか冷え込んでいた。階段近くのベンチに腰を下ろし、スマホを取り出す。

 メールの受信トレイは満杯だった。何十通もの未読メッセージ。そのすべてが、ここ数ヶ月間無視し続けてきた仕事のオファーだ。画面をスクロールしていく。

 そして、その一通が目に留まった。

『Re: シニア経営企画ディレクター職の件 - 黒田グループ』

 私はその名前を、長い間じっと見つめた。

 黒田。

 三年前、柴田家が港で黒田の積荷を襲撃し、数億円相当の物資を強奪した。その襲撃で黒田の人間が一人命を落とし、それが三ヶ月にも及ぶ血みどろの抗争の引き金となった。

 上層部の介入によってようやく手打ちとなった際、柴田家はM市から永久追放され、同市は黒田の完全なる縄張りとなった。

 M市。黒田の絶対的領域。健太の家族が、絶対に手を出せない唯一の場所。

 私の親指が、キーボードの上を滑る。

『黒田様

 オファーを謹んでお受けいたします。いつから勤務可能でしょうか?

 高橋玲奈』

 送信ボタンの上で、指を浮かせる。

 そして、私はそれを押した。

 健太、私がM市に着いた時、私たちの関係はすべて終わる。

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だが、あいにく。
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私はまず、元の持ち主が昨夜味わった屈辱のツケをきっちりと払わせ、皮膚に残る毒素を洗い流した。
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誰も想像すらできないだろう。この私が、数々の名門貴族や権力者たちが大金を積んで列をなし、首を長くして診察を待つ伝説の名医——【暁】だなんて。

私が時価総額数十億ドルのファッション帝国を裏で支配していることも、ウォール街の株価をたった一回の取引で大暴落させられることも、誰も知らない。私はその正体を、この平凡で冴えない素顔の裏にすべて隠し持っていた。

さらに劇的なことに、私の実の親はこの街で頂点に君臨する最高峰の大富豪だった。

そして私の婚約者——すでに顔を合わせているにもかかわらず、その正体を知らなかったあの男こそ、この街の誰もが名前を聞くだけで震え上がる、ビジネス界の冷酷な死神:梅原晴琉だったのだ。

ある日、彼は私の手を執り、ゆっくりと距離を詰めると、耳元で低く囁いた。

「俺のこの鼓動、今なら感じられるか?」

私は至って真面目な顔で彼の胸に手を当て、大真面目にこう返した。

「心拍数は確かに少し高めですが、非常に健康的です。心配ありませんよ」

彼は一瞬呆気にとられ、それからふっと吹き出した。その瞬間の彼の笑顔に、私の心臓もなぜかドクンと跳ねた。それは、自分自身でも説明のつかない初めての衝動だった。

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