紹介
二十年。緑川子ども園(みどりかわこどもえん)で食べたプリンから、青海市(あおみし)の海沿いの豪邸まで──私はずっと「役に立つ人間」だと証明し続けてきた。
ある日、上司の高橋 大和(たかはし やまと)の家で、派手な服を着た女性に「コートを取ってきて」と命じられた。まるで召使いのように。
「俺がいなければ、お前に何ができる?」と、大和は割れたグラスの中で冷たく言った。
答えは分からなかった。でも、私はその場を去った。
緑川町(みどりかわちょう)の古びた子ども園に戻った初日、森川 隆司(もりかわ たかし)に出会った。彼は私を冷たい目で見て言った──「ここは金持ちが罪滅ぼしをするための場所じゃない」。
その男が大嫌いだった。
しかし、雨の夜、灯台酒場(とうだいさかば)の薄暗い照明の下で、彼の歌声を聞くまでは…。
チャプター 1
彩香視点
午後十一時四十七分。電話が鳴り、私はすでにその着信がどういう類のものか察していた。
オフィスから戻ったのは、ほんの二十分前。カウンターの上には、作りかけのカップ麺が置かれ、器からは湯気が立ち上り、縁には箸が渡してある。画面が光り、彼の名前が映し出された。「ボス」でも「社長」でもなく、ただ「大和」。二十年間、私は一度もその登録名を変えたことがない。
三秒間、スクリーンに指を彷徨わせる。そして、通話ボタンを押した。
「俺のところに来い。今すぐ。厄介なことになった」
「お願い」もなければ、「もし忙しくなかったら」という気遣いもない。ただ、あの口調。私がすべてを放り出して駆けつけると決めつけている、あの声。いつだって、そうしてきたから。
湯気が消えていくカップ麺を、私は見つめる。こんな呼び出しが、今まで何度あっただろう。百回? それとも二百回?
十六歳の時、緑川町児童養護施設のオンボロの寮で。電話の向こうから、大和のひび割れた声がした。「彩香、退学になった。俺についてこい」。私は授業をサボり、五キロ近く走って、校門の外で煙草を吸っている彼を見つけた。
二十歳の時、青海市の狭いアパートで、午前二時。「投資家が手を引いた。あの財務モデル、作り直してくれ」。七十二時間ぶっ通し。十二杯のコーヒー。キーボードを叩く指の感覚が麻痺していった。
二十五歳、彼が会社を立ち上げた年。「役員会に殺されるかも。これを何とかしろ」。私は、他社からの副社長就任のオファーを断り、彼のアシスタントとして留まることを選んだ。
そして今、私は二十九歳。呼び出しは昔と同じ。そして私は、今もまだ駆けつけようとしている。
鍵とコートを掴む。背後でドアがカチリと閉まる。カップ麺はそこに置かれたまま、すでにふやけてしまっているだろう。
私の古いセダンが、誰もいない通りを切り裂いていく。青海市の深夜の雨が降り始め、ワイパーがフロントガラスを軋ませる。白浜。あの湖畔の豪邸。去年、彼が資金調達ラウンドを成功させた時、頭金の交渉を手伝ったのは私だ。何週間もデベロッパーとやり取りを重ね、価格を三千万円も値切った。けれど、そこで夜を過ごしたことは一度もない。招待されたことすらない。
街の灯りは、豪邸が点在する地区のまばらな光へと変わっていく。ハンドルを握る指に力がこもる。
到着すると、家は煌々と明かりが灯り、すべての窓が明るかった。玄関のドアが開け放たれている。これは決して良い兆候ではない。私は深呼吸をして車を降りた。胃がすでにきりきりと締め付けられる。あまりにも知りすぎている、災厄の前の、あの馴染み深い感覚。
リビングはめちゃくちゃだった。砕けたワイングラスがフローリングの床に散乱している。シャンパンのボトルが倒れ、液体がラグに染み込んでいた。赤ワインの染みが至る所に広がっている。アルコールと、むせ返るような香水の匂いが空気に満ちていた。
その惨状の真ん中に、一人の女が立っていた。高級ブランドのランジェリー姿に、大和の白いドレスシャツを羽織っている。見覚えがあった。先月、私がクリーニングに出したシャツだ。足元には、ありえないほど高いヒール。手には、デザイナーズバッグ。先週、大和に頼まれて注文したものだ。「大事な人のためだ」と彼は言っていた。
「やっと来たのね!」。彼女の声は甲高い。「大和からアシスタントだって聞いてるわ。これ、片付けて」
彼女は傲慢な仕草でワインの染みを指差した。私は割れたガラスから彼女へと視線を移した。若い。たぶん、二十五か二十六。いかにも、という感じの美人だ。
「そのカーペット、手織りだから気をつけてよね。それと、二階に行って私のコート取ってきて。キャメルのやつ。早く、シワにしないでよ」
私は屈みこみ、ガラスの破片を拾い始める。指に破片が食い込み、ちくりと痛んだが、身じろぎはしなかった。こんなことは、もう何度も経験してきた。
大和はバーカウンターに寄りかかり、指に煙草を挟んで、こちらを見ている。その表情は冷ややかな愉悦。まるで自分とは何の関係もないショーでも観ているかのようだ。煙が彼の顔の前で渦を巻いている。
私の手が震えていた。恐怖からではない。二十年間、ずっと同じことを繰り返してきて、突然、この状況がどれだけ異常か悟ってしまったような。そして、二十年間の蓄積された怒りと失望が、ついに表面に現れ始めたのだ
女が大和にすり寄り、わざとらしいほど大きな声で言った。「あなたたち、一緒に育ったんですって? じゃあ、彼がいろんな女と一緒にいるところ、たくさん見てきたんでしょう?」
彼女は彼の首に腕を回してキスをすると、私に向き直って微笑んだ。純粋な悪意がこもった笑み。「教えてよ。私、彼の何番目の女?」
私は最後のガラス片を拾い上げ、立ち上がる。
「あ、それと飲み物も注いで! あなたアシスタントでしょ。私たちに尽くすべきじゃない?」
私が振り返ろうとしたその時、大和の声が鋭く響いた。
「その辺にしておこう、美咲」
空気が凍りつく。
「やりすぎるぞ」
美咲は呆然とした顔で彼を見た。「何よ?」
大和は財布から分厚い札束を取り出し、コーヒーテーブルの上に放り投げた。紙幣が散らばり、何枚かはひらひらと床に落ちる。
「今夜の分だ。迎えが外で待ってる。帰れ」
「正気なの? たかがアシスタントのことで?」
「帰れ」。彼の声には温かみが一切なかった。
彼女は燃えるような目で彼を睨みつけた。やがて、金とバッグをひったくる。ドアが閉まる音は、豪邸中に響き渡るほど激しかった。
二人きりになった。私は何事もなかったかのように、機械的な動きで片付けを続ける。二十年間。彼の混沌の中で冷静さを保つ術を、私は学んできた。
しかし、私の中の何かが壊れた。今夜ではない。二十年間、少しずつ、少しずつ壊れ続け、この瞬間に至ったのだ。
手を洗い、しわになった服を整える。大和はまだバーカウンターにいて、新しい煙草に火をつけていた。
「大和」と私は言った。自分の声が不気味なほど穏やかなことに驚く。「私、辞めます」
煙草が彼の口元で止まった。灰がカウンターにぽとりと落ちる。
「辞める? 本気か?」
「もう何年になると思う?」
沈黙。彼は煙の向こうから私を見つめ、灰を弾いた。
「二十年だ」と、彼はようやく言った。「緑川町のあのクソみたいな孤児院から、今まで」
私は頷く。「そうね」
一息ついて、言葉を続ける。「あなたに会ったのは八歳の時。あなたは私のプリンを盗んでた。十二歳で初めて喧嘩した時、園田先生に見つからないように、血のついた服を隠したのは私。十六歳で会社を始めるために高校を中退したあなたを、私は追いかけて、高校を辞めた。二十二歳で最初の資金調達を成功させた時、あの財務モデルのために七十二時間ぶっ通しで働いた」
私は言葉を切る。「二十年間よ、大和。私はずっと、あなたの尻拭いをしてきた」
彼は立ち上がり、私たちの間の距離を詰める。その目が、私の目を射抜いた。
「それがどうした」
彼はさらに一歩近づく。「辞めて、それでどうする? どこへ行くつもりだ? 俺なしで、お前に何ができる?」
彼の言葉は残酷で、意図的だった。「お前の履歴書には『高橋大和アシスタント』としか書けない。それだけだ。大学だって卒業してないんだぞ」
両脇で拳を握りしめるが、私の表情は穏やかなまま。二十年間の訓練の賜物だ。
「わからない」と私は言う。それは正直で、剥き出しの言葉だった。「でも、試してみたい。あなたなしで、私が誰になれるのか見てみたいの」
彼は背を向け、バーに戻ると、自分にウィスキーを注いだ。その声は冷え切っていた。
「わかった。なら出ていけ。明日、オフィスに来て手続きを済ませろ」
私は彼の背中を見つめる。高級なシャツに包まれた、あの広い肩。二十年間で初めて、彼が見知らぬ他人のように見えた。
私は踵を返し、ドアに向かって歩き出す。私の足音が、硬い木材の床に響く。ドアノブに手をかける。冷たい金属の感触。
「彩香」
彼の声は柔らかかった。私は立ち止まるが、振り返らない。手はまだドアノブにかかったままだ。心臓の音が、急にとても大きく聞こえる。
「本当に行くのか?」
二十年間。彼が尋ねたのは、これが初めてだった。命令でもなく。脅しでもなく。ただ、尋ねた。
もう遅い。二十年、遅すぎた。彼がこう尋ねてくれるのを、どれだけ待っただろう。でも今となっては、もうどうでもよかった。
「ええ」と私は言い、目を閉じて、深く息を吸った。
そして、彼の言葉を借りて、こう言った。「その通りよ。私は出ていく。ただそれだけのこと」
ドアを押し開ける。冷たい夜の空気が頬を撫でていく。背後でドアが閉まる。その音は、がらんとした豪邸に響き渡り、決定的で、もう後戻りはできなかった。
大和はリビングの真ん中で立ち尽くし、閉まったドアを凝視していた。煙草が指まで燃え尽きていく。数分前、美咲があれほど気にしていた高価なカーペットの上に、灰が落ちた。皮肉なものだ。彼は長い間、そのドアを見つめていた。
やがて、絞り出すような声で呟いた。「クソッ」
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(この小説を軽い気持ちで開くなよ。三日三晩も読み続けちゃうから…)













