偽りの結婚と、奪われた人生。離職までの三十日間、私が仕掛けた地獄の全貌

偽りの結婚と、奪われた人生。離職までの三十日間、私が仕掛けた地獄の全貌

わたあめ · 連載中 · 717.4k 文字

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紹介

結婚は、最初からしていなかったことになっていた。流産の果てに孤独な目覚めを迎えた私の手元には、離婚届さえも届かない。
夫は今も、奪い合う女と共に笑っている。――さようなら、私の愛した人。
そして、地獄へようこそ。離職期限は三十日。偽りの結婚、拘留の真実、放火事件の全貌。
私が積み上げた証拠は、あなたの大切な女の正体を暴き、あなたを奈落へ引きずり込む。
三十日後、私は自由になる。そしてあなたは、永久に救われない廃墟の中で生きるのだ。

チャプター 1

朝7時。谷口美桜は痛みの中で目を覚ました。ベッドに広がる血の染みが、目に刺さるほど赤い。

昨夜、山﨑蓮に狂ったように抱かれ、何度も求められた記憶が一気によみがえる。

目覚ましが鳴った瞬間、彼はさっと身体を離し、服を着替えると、そのまま出ていった。ひと言すら残さずに。

最後は彼女自身が救急へ電話し、病院に運ばれて――そこで初めて、流産したのだと知った。

スマホがぶるぶると震え続ける。広報部の小山誠子から、メッセージが何件も届いていた。

【谷口さん、山﨑社長がトレンド入りしてます! 下山さんと空港で撮られました!】

【広報部の電話が鳴りっぱなしです! いつ会社に来られますか?】

ニュースも立て続けに流れてくる。写真の中では、山﨑蓮が、つい先日夫を亡くしたばかりの下山柚奈をきつく抱きしめ、離れがたそうにしていた。

山﨑蓮の秘書――それが世間の目に映る、彼女の唯一の肩書きだ。

誰も知らない。彼女が本当は山﨑蓮の妻であることを。

そして、下山柚奈の事故死した夫が、山﨑蓮にとって戸籍上の兄だったことも。

谷口美桜は洗面台に手をついた。鏡に映る自分は、まるで幽霊みたいに青白い。

深く息を吸い、短く打ち返す。

【すぐ行きます】

子宮内容除去の処置を終えると、看護師が書類を差し出した。

「ご家族の方は? こちら、署名が必要です」

「自分で書きます」

「ご結婚されていますよね? マタニティ保険が使えれば、一部は戻りますよ」

谷口美桜のペン先がぴたりと止まる。

「はい。結婚して3年になります」

看護師は書類を受け取り、数分後、困った顔で戻ってきた。

「……ご結婚、されていますか? システム上では未婚になっていて、保険適用ができません」

「未婚……?」

谷口美桜は信じられないまま、看護師を見返した。

しばらくして、自分の声がひどく遠く聞こえた。

「……システムの不具合かもしれません。自費でお願いします」

病院を出た彼女は、その足で市役所へ向かった。

照会結果は病院と同じだった。

彼女の婚姻状況は、ずっと未婚。

山﨑蓮もまた、未婚のまま。

3年前、山﨑蓮が結婚証明書を渡してきたとき、金があれば役所に行かなくても済むのかと、ぼんやり感心したことがある。

けれど違った。

最初から最後まで、彼と自分は法の上では赤の他人だったのだ。

スマホは今も鳴り続けている。小山誠子のほうは、もう限界なのだろう。

谷口美桜は通りがかりのタクシーに飛び乗り、そのまま会社へ向かった。

会社の前は記者で埋め尽くされていた。彼女は脇の入口から中へ入る。

すれ違うたび、あらゆる視線がまとわりついた。哀れみ、好奇心、面白がる気配。

「谷口さん!」

小山誠子が駆け寄ってくる。

「山﨑社長に電話がつながりません。どうしましょう?」

「公式声明を出して。山﨑社長は、配偶者を亡くした知人を礼儀として出迎えた。あのハグは慰めの範囲内――そういう説明で」

歩きながら告げる声は、異様なほど静かだった。

「いくつか媒体にも声をかけて。30分後、私が記者会見を開く」

「でも、あの写真……」

「写っているのは抱き合ってる場面だけよ。それ以上は証明できない」

谷口美桜はエレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押した。

「言った通りにして」

扉が閉まる。外の喧騒がすべて遮断された。

彼女は壁にもたれた。下腹部の痛みがじくじくと神経を刺す。

記者会見は驚くほど滞りなく終わった。

山﨑蓮と下山柚奈の関係を釈明するのは、これで17度目だ。慣れたものだった。

オフィスへ戻ると、アシスタントの太田美咲が後を追ってきて、声を潜めた。

「谷口さん、山﨑社長がさっき辞令にサインしました。下山さん、来週から入社して製品開発部長に就任するそうです」

書類をまとめていた谷口美桜の手が、ほんの一瞬だけ止まる。

そこは、もともと自分の席になるはずだった。

半年かけて追った案件。

契約書は、3日徹夜して自分でまとめたもの。

「……そう」

自分の口から出た声は、ひどく平坦だった。

「あと……」

太田美咲は言いにくそうに続ける。

「谷口さんが抱えてた案件もいくつか、下山さんに回されました。契約までは済んでるから、以後は下山さんに引き継がせればいいって」

谷口美桜は微笑んでうなずいた。目の奥がじわりと熱い。

ふいに思い出す。

昨夜、山﨑蓮が彼女を抱きながら、熱に浮かされた声で漏らした名前を。

「……柚奈」

あのときは聞き間違いだと思った。

でも、違った。

ずっと考えていたことがある。

もう、迷う理由はなかった。

谷口美桜は朝から用意していた退職願を持ち、そのまま人事部へ向かった。

「山﨑社長には報告済みですか?」

人事部長の葉山千春が、退職願を見て目を見開く。

谷口美桜は穏やかに言った。

「私の上司は社長ではありません。報告は不要です。通常の手続きで進めてください」

今朝、山﨑蓮が自ら下山柚奈の人事異動にサインしたことを思い出し、葉山千春は何か言いかけ、結局のみ込んだ。

「……分かりました。30日の引き継ぎ期間が終われば、退職できます」

「ありがとうございます」

背を向けて人事部を出て、オフィスへ戻った瞬間、谷口美桜はようやく長く息を吐いた。

むしろ感謝すべきかもしれない。

山﨑蓮が偽の結婚証明書を寄越したおかげで、離婚手続きすら要らないのだから。

あと30日。

それだけで、ここから完全に消えられる。

すべてを捨てて。

彼も含めて。

スマホが震えた。山﨑蓮からのメッセージだった。

【鎮痛剤1箱とホットミルクを持ってこい。金悦ホテル010号室】

簡潔で、命令口調で、当然のような文面。

続いて、下山柚奈からLIMEが届く。

【美桜、私、帰ってきたよ。蓮が歓迎してくれるの。新しく生まれ変わったお祝いだって。樹が亡くなったばかりなのに、こんなに派手にするのはよくないって思ったんだけど、蓮が新しい人生を始めるべきだって言ってくれて。美桜も祝福してくれるよね?】

谷口美桜は画面を見つめたまま、ふっと冷たく笑った。

祝福?

夫の遺骨もまだ冷めきらないうちに義弟を誘い始めたことを?

人の努力の結晶を、当然のように奪っていくことを?

それとも、流産した女に向かって、こんな胸の悪くなる誘いを送ってくることを?

彼女は車のキーをつかみ、エレベーターへ乗り込んだ。

鏡張りの扉に映る顔は、血の気がまるでない。

ただ目だけが、ぞっとするほど冴えていた。

金悦ホテル。

部屋の扉を開けると、山﨑蓮がソファに座り、その隣には下山柚奈がぴたりと寄り添っていた。

ほかには取引先の横山社長、それに山﨑グループの役員が数名。

「谷口さん、来た来た!」

横山社長がぱっと顔を輝かせる。

「ちょうどいい。山﨑社長が、下山さんは君の後任だって言ってたんだ。今後の案件は彼女が見るんだろう? なら、ほら。この一杯、下山さんに敬って、引き継ぎの挨拶といこうじゃないか」

下山柚奈は慌てて手を振った。

「横山社長、そんな。谷口さんほど有能な方の後なんて、とても……。私はただ、蓮の負担を少しでも軽くしたいだけなんです」

「柚奈、謙遜するな。君なら十分やれる」

山﨑蓮が口を開く。

そして谷口美桜へ向けた視線だけ、すっと冷えた。

「薬と牛乳は」

谷口美桜は無言でテーブルに置いた。

下山柚奈が申し訳なさそうな顔を作る。

「ごめんなさい。私、そこまでしなくていいって言ったのに。蓮が心配だからって、わざわざ薬を届けさせて……」

口ぶりには、抑えきれない優越感がにじんでいた。

山﨑蓮は牛乳のふたを開け、自分で温度を確かめると、ちょうどいいと判断してから彼女に渡す。

谷口美桜はその光景をじっと見つめた。

そのとき、ようやく分かった。

愛されているかどうかなんて、ひと目で知れる。

「薬を届けるのが遅れたんだ。罰は受けてもらわないとな」

横山社長が笑いながら酒を3杯注ぎ、目の前へ滑らせてきた。

「自分で3杯、どうだ?」

「申し訳ありません。薬を飲んでいるので、お酒は飲めません」

谷口美桜は静かに断る。

「飲み会があるって分かってたのに、わざわざ薬を飲んだの?」

下山柚奈が目を丸くして首をかしげる。

「美桜、もしかして私が戻ってきて案件を引き継ぐの、あまり歓迎してない? そういうことなら、私から蓮に――」

「こいつにそんな度胸はない」

山﨑蓮が遮った。

だが谷口美桜を見る目には、すでに露骨な警告が宿っている。

「たかが数杯で死にはしない。柚奈は今日は体調が悪いんだ。代わりに横山社長へ飲め」

谷口美桜はグラスの透明な液体を見つめた。

胃がきりきりと縮む。

やがて顔を上げる。口元には、まだ笑みがあった。

「昨夜、あなたと寝たとき、私が出血したのも……見ていたでしょう?」

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——

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