紹介
未婚のまま身ごもった痛みは、今も口にできない傷だ。子どもの父親は跡形もなく姿を消した。自ら命を絶とうとした、その寸前に、ヘンリーが現れた。家を与え、父のいないこの子を自分の子として育てると誓って。
あの日、救ってくれたことにはずっと感謝している。だからこそ、釣り合わないこの結婚で受ける屈辱にも、長いあいだ耐えてきたのだ。
だが、すべてが変わった。かつての恋人、イザベラ・スコットが戻ってきた瞬間から。
いま私は離婚届に署名する覚悟ができている。けれどヘンリーは、自由の代償として一千万ドルを要求した――どう頑張っても、私にはかき集められる額じゃない。
私は彼の目をまっすぐ見て、冷ややかに言った。「一千万ドルで、あなたの心を買うのね」
ウォール街でもっとも力を持つ後継者、ヘンリーは元心臓病患者だ。まさか、自分が「恥さらしの元妻」と呼ぶ私が、いま彼の胸で打っているその鼓動を仕組んだ張本人だなんて、夢にも思わないだろう。
チャプター 1
秋のたそがれが、マンハッタン総合病院の特別病棟の床から天井まである窓を通して、長い影を落としていた。私は息子のベッドサイドに立ち、医療モニターの一定の青い光が、熱で赤らんだ頬を静かに照らすのを見つめていた。
「ママ……?」
ビリーの声は弱く、医療機器のかすかな作動音にやっと重なるほどのささやきだった。五歳の息子は、真っ白で糊のきいたシーツにもたれ、金色の髪を熱の汗でしっとりと濡らして横たわっていた。
私は身をかがめ、額にかかった髪をひと筋、そっと払いのけた。「なあに、ビリー?」
「パパに会いたい」
その三つの言葉は、胸に刃を突き立てられたように痛かった。私は無理に笑みをつくり、声が震えないよう努めた。「パパはお仕事で忙しいの。ママがここにいるからね、いいでしょう?」
ビリーの青い目にみるみる涙がにじんだ。「やだ! パパがいい! 電話して、ママ。お願い……?」
小さな指が毛布の端をぎゅっとつかむ。その様子を見ていると、泣くまいと必死にこらえ、いつもそうであるように、聞き分けのいいお兄さんでいようとしているのがわかった。
どうして、この子の願いを拒めるだろう。たとえ、どうなるかがわかっていても。ヘンリー・ハーディングに連絡しようとするたび、いつも同じ結末になると知っていても。
「わかったわ、坊や。電話してみる」
私は携帯を取り出し、窓辺へと移動した。指先がヘンリーの個人番号の上で止まる。その番号はずっと変わっていなかったけれど、よほどの緊急事態でない限り使うなと、彼ははっきり言っていた。
三回目の呼び出し音でつながった。だが、出たのはヘンリーの声ではなかった。
「ヘンリーが今、私と一緒にいるってわからないの? こんな時間にどうして電話してくるのかしら」
イザベラ・スコットの声は相変わらず気品に満ち、作り物めいた甘さがべったりと絡みついていた。完璧に整った顔立ち、白金色の髪、流行の最先端をゆく装い――彼女は何もかもが完璧に見えた。
「ヘンリー、動かないで……」彼女の声が、ふいに戯れるように親密さを帯びる。「キスさせて?」
私は携帯を握る手に力を込め、窓の向こうの街の灯を見つめながら、なんとか平静を装った。「息子が高熱で入院しているの。父親に会いたいと言ってるわ」
「あら?」そのわざとらしい気遣いに、肌が粟立った。「でも今、私たちちょっと手が離せないの。あとでかけ直したらどう?」
私は返事もせず通話を切り、深く息を吸ってからビリーのもとへ戻った。期待に満ちたその表情が、私をほとんど打ち砕きそうになる。
「パパだった?」
「いいえ、ビリー。あの……出なかったの。でも、もう一度かけてみましょう、ね?」
ビリーはうなずいた。でも、その目に浮かぶ失望は隠しようもなかった。今度はスピーカーにして、呼び出し音が聞こえるようにする。
「何だ」
ヘンリーの冷たい声が、部屋に響いた。
「パパ、ぼくだよ!」
熱があるのも忘れたように、ビリーの顔がぱっと明るくなる。
「ぼく、病気なの。病院に来てくれる?」
しばし間があった。その沈黙は、かすかな望みを孕んでひどく重たかった。
「マンハッタン総合病院の特別病棟、千六百三十号室だよ」ビリーは急いで続けた。言葉がこぼれるようにあふれ出る。「パパに会いたい」
返事はない。
「もし忙しいなら……画面でお話しするだけでも、だめ?」
ビリーの声は、だんだん小さくなっていった。
「仕事中だ」
ヘンリーの声は平板で、取りつくしまもなかった。
私は、息子の目から光がすっと消えていくのを見た。それでもビリーは、どうにか笑顔をつくった。
「うん、わかった、パパ。じゃあ、さようなら。体に気をつけてね。お仕事、がんばりすぎないで」
通話が切れ、ビリーは顔を窓のほうへ向けた。下唇がかすかに震えているのが見えた。抱きしめてやりたかった。この痛みから守ってやりたかった。でも、今はこの子自身が気持ちを整える時間が必要だとわかっていた。まだ五歳なのに、息子はもう、涙の隠し方を覚えてしまっていた。
それから数時間後、ようやくビリーが眠りに落ちたあと、私は部屋の隅のひじ掛け椅子に座り、診療費の明細に目を通していた。考えはどこまでも沈み、ヘンリーとの結婚で、私はいったい何を得たのだろうと自問していた。
そのとき、不意に大理石の床を打つヒールの音がして、私は廊下へ顔を上げた。ガラス扉の小窓越しに見えた光景に、胸がずきりと痛んだ。
ヘンリーが廊下をこちらへ歩いてくる。チャコールグレーのスーツは完璧に仕立てられ、その圧のある存在感に、ほかの患者や職員たちが本能的に道をあけていた。両脇には二人の警護員がつき、病院の灯りの下で耳元の通信機が鈍く光っている。
けれど、私の胃をきゅっと縮ませたのは、彼の腕に寄り添う女の姿だった。イザベラ・スコット。たぶん大半の人の月給より高いだろう白い高級スーツを着て、その手を当然のようにヘンリーの腕に置いている。
二人はビリーのために来たのではない。そんなこと、あるはずもなかった。ヘンリーがここにいるのは、イザベラの健康診断に付き添うためだと、私は知っていた。なにしろ、イザベラは彼の初恋の人なのだから。
私はさらに椅子の奥へ身を沈めた。だが、その動きがヘンリーの目を引いた。ほんの一瞬、ガラス越しに視線がぶつかる。灰色の瞳は冷えきっていて、五年前からずっと私に向けてきたのと同じ、無関心で拒絶するような眼差しだった。次の瞬間、彼は何事もなかったように顔を背け、私たちの部屋の前を一瞥もくれずにイザベラを伴って通り過ぎていった。
ビリーが眠りの中で身じろぎし、小さく「パパ……」とつぶやいた。私は立ち上がってベッドサイドへ行き、毛布をやさしくかけ直す。眠っていると、その顔立ちはふっとやわらぎ、五年前のあの夜に出会った男の面影がそこに見えた。優しくて、私を笑わせてくれて、まるで私が大切な存在であるかのように見つめてくれた、あのヘンリー・ハーディングの面影が。
けれど、その人は朝にはもう消えていた。三か月後、祖父の望みをかなえるためだけに私と結婚した、冷たい他人に取って代わられていた。父が経営難のさなかにハーディング家を助けたことで、ヘンリーの祖父は私たち一家と良い関係を築こうとしたのだ。中流家庭が富豪の一族を助けるなんて、今思えば滑稽な話だ。けれど、実際にそういうことが起きた。
私はビリーの額にそっと口づけ、熱を確かめた。熱は少し下がってきたようだった。眠らない街の外では、無数の灯がきらきらとまたたいている。けれど、この千六百三十号室で、私の世界のすべては、息子の胸が規則正しく上下する、その静かな動きの中にあった。
もし知っていたなら――ヘンリー、と私は、イザベラとともに消えていった扉を見つめながら思った。あなたがずっと彼女を愛していたのだと、最初から知っていたなら、私は決してあなたと結婚なんてしなかったのに。
最新チャプター
おすすめ 😍
私が囲っている億万長者
彼は息を呑むほど美しく、落ちぶれていた。夫の裏切りがもたらした傷が完全に癒えるまで、彼をそばに置いておくつもりだった。
お金で彼の付き添いを買い、すべてのルールを私が決め、すべてを完全に掌握しているつもりだった。
けれど、私の隣で横たわるこの男の正体は、彼が語ったものとはまるで違っていた。
魅惑的な笑顔と抗いがたい容姿の下に隠されていたのは、仇敵から身を隠す億万長者の素顔だった。
今や彼は、私の生活に、私のベッドに、そして私の心に――完全に絡みついている。
身を引くことは、彼のそばにいることよりも、もっと危険かもしれない。
真の令嬢は万の顔を持つ
傲慢な御曹司・羽島浩介が彼女を救うために骨折し、白石家のお爺さんが彼女を跡継ぎとして認め、林原財閥が彼女の本当の身分を明かした時――なんと、あの見下されていた「田舎者」こそが、真の商業帝国の後継者だったのだ!
そして、かつて高みから見下ろしていた偽物のお嬢様は、盗作しかできない道化に過ぎなかった。
全ての仮面が剥がれ落ちた時、全世界が彼女の足元で震撼する――。
双子とヤクザの父親
六年の月日が流れ、二人は思いがけず再会する。彼女は必死に彼から距離を置こうとするが、運命は異なる計画を用意していた。
驚くべきことに、彼は突然現れ、彼らの愛らしい子供を抱きしめながら、大胆に彼女に詰め寄る。「俺たちの子供を産んでおいて、逃げられると思ったのか?」
彼女は凍りついたように立ち尽くし、言葉を失う。彼こそ、畏怖の念を抱かせる帝国の君主だった。彼女は二人の世界があまりにもかけ離れていて、決して交わることはないと思い込んでいた。
しかし、彼女は知らずのうちに、この不屈の王の真実の愛となっていたのだった。
追放された偽令嬢、実は超財閥の真の令嬢
孤児だと判明した途端、彼女は養父母から冷酷に家を追い出され、婚約者も本物の令嬢へと乗り換えた。
彼らは、彼女がこれからド田舎で悲惨な生活を送るのだとあざ笑っていた。
しかし、彼女を迎えに来た実の家族は、なんと世界を牛耳る超巨大財閥の一族だった!
さらに、彼女自身もただの小娘ではない。その正体は、世界の医学界が平伏す伝説の天才医師だったのだ。
実家に戻るや否や、彼女は神業のようなメス捌きで次々と難病患者を救い、医療界の権威たちを圧倒していく。その圧倒的な実力に、誰もが恐れる冷酷なトップ御曹司でさえも彼女に惹かれ、無限額のブラックカードを差し出す始末。
一方、彼女を追い出した養父母の家業は倒産寸前に陥り、元婚約者も彼女の本当の姿を知って絶望の淵に立たされていた。
彼らが泣きついて許しを乞うても、彼女は冷たく言い放つ。
「今さら後悔しても、もう遅いわ」
鬼畜社長が離婚後に豹変!?甘えん坊な元夫の執着愛
初恋が帰国し、彼女は彼を要らないと言った。
離婚後、彼女は人生の頂点に立った。
トップレベルのデザイナー無憂は彼女だった。
トップクラスの名門が失った令嬢も彼女だった。
手のひらを返せば雲を作り、手のひらを返せば雨を降らせる株の神も彼女だった。
人生を謳歌する
社長秘書のヒミツ恋情
借金を返すため、彼と交わしたのは一通の契約書。
「体だけの関係。恋愛感情は一切なし」——そう決めたはずだったが…
再婚後、クズ元夫が私に土下座した
しかし、夫がついに自力で立ち上がれるほど回復したその日、彼は初恋の女性を腕に抱き、こう言い放った。
「これからの人生、俺は彼女と、彼女のお腹の子を守っていく」
打ちのめされた彼女が離婚を切り出すと、夫は冷徹に彼女の口座をすべて凍結し、無一文のまま家から追い出し、嘲笑うように吐き捨てた。
「俺がいなければ、お前には何の価値もない」
彼女が妊娠検査薬をそっと隠し持ち、すべてに別れを告げて永遠に立ち去るまで、夫が慌てふためくことはなかった——。
彼女はもう、疲れた
十年ものあいだ、私は幽鬼のようにこの豪邸に閉じ込められ、身を削って家計を支え、彼の吐くその場しのぎの嘘を飲み込み、彼が一片の心も寄せたことのない結婚生活を守り続けてきた。彼は確信していたはずだ、私が逃げ出せるはずがないと。母の癌治療費は、すべて彼の施しで成り立っていたのだから。
それは間違いじゃない。たしかに、金は必要だった。
でも――私はもう、残りの人生すべてを、彼が誰かを愛するのを見て過ごすために生きたくはない。
離婚届は、もうテーブルの上にある。今度こそ、私は懇願しない。縋りついたりもしない。
私が選ぶのは、私自身だ。
今さら帰ってこいと言われても遅い!
本物の娘が戻ってきたその日、私はゴミのように家を追われた。
十五年もの間、家族のために尽くしてきた日々はすべて否定され、身に覚えのない罪を着せられ、幼馴染だった婚約者さえも私を裏切り、本物の令嬢へと乗り換えた。
元家族たちは、私が「貧困街で野垂れ死ぬ哀れな女」だと見下し、勝ち誇っていた。
だが、彼らは致命的な勘違いをしていたのだ。
泥だらけの私を迎えに来た不気味なバイクの男が、実は国家トップクラスの超巨大財閥の御曹司であることも。
私の本当の実家が、誰もがひれ伏す歴史ある名门一族だということも。
そして何より、彼らが無能だと見くびっていた私自身が、各界の重鎮たちが縋る名医であり、世界のファッション界を裏から牛耳る「伝説の天才デザイナー」であるということを!
「今まで苦労をかけたね、私たちの愛しいお姫様」
待ち受けていたのは、超過保護な両親と、不器用ながらも妹を全力で守る身内たちによる、規格外の溺爱ラグジュアリーライフ。
一方、本物の天才を自らドブに捨てた元家族や元婚約者には、取り返しのつかない破滅と、血を吐くような「絶望の後悔タイム」が幕を開ける!
どん底から世界の頂点へ駆け上がる、爽快感100%の現代逆転シンデレラストーリー!
竜王の花嫁
偉大なるイグナス王国を形づくる七つの村では、毎年欠かさず「選定の儀」が執り行われていた。その儀で村の娘のひとりが選ばれ、恐るべき竜王の花嫁となるのだ。
なぜそんな儀を年ごとに続けるのか、誰にもわからない。これまで選ばれていった花嫁たちが、その後どうなったのかも――。
奴隷にされているのか?
竜の餌にされているのか?
それとも……竜王自身が、彼女たちを喰らっているのか?
それだって否定はできない。王は自分たちとは違う、人ではないのだという噂があるのだから。
それでも、その疑問は執念深く人々の胸を苛んだ。
いったい、花嫁を何に使っているのか――!?
だが、誰も王に問いただそうとはしなかった。逆らうなどという無謀が、どんな運命を呼び込むかが怖かったのだ。
もっとも、そんなことはベラドンナの知ったことではない。今年は彼女の村が花嫁を差し出す番だったが、自分が選ばれるはずがないと彼女は確信していた。
なぜかって?
もちろん、計画があるからだ。そして彼女は、その計画が自分を裏切るはずがないと信じ切っていた……いや、本当にそうだろうか。













