紹介
ガラスのファサードを貫く朝光の中、村上裕介が差し出した楽譜が、彼女の人生という楽章を新たなものへと変えてゆく。常識に囚われぬ音楽の鬼才は、彼女に真の音楽の在り方を叩き込んだ。綾音は、己の血液が奏でる音を、その時初めて聴いたのだ。
国際コンクールの眩い光を浴びて、彼女は高田誠一が十二年の歳月をかけて作り上げた完璧な音を、星屑へと砕き散らした。最後のハーモニクスがボストンのホールに溶けて消えた瞬間、聴衆は悟る。いつも俯きがちだったあの優等生が、太平洋の向こう側で、とうに荊の翼を手にしていたことを。
帰国便の機内。村上裕介がそっと彼女のシートベルトを締める。窓に映り込む二つの若い顔。一人の眼差しには十年の孤独が澱み、もう一人の瞳には新生の炎が宿る。高田誠一に守られるだけだった過去の白石綾音は、もういない。音楽という世界で本当の自分を解き放ち、彼女の新たな人生が、今、始まる。
チャプター 1
リハーサルホールのドアの向こうから聞こえてきた声は、鋭利な刃物のように私の心を抉った。
「呼んだらついてくる子犬みたいだよな」
聞き慣れたその声が、嘲るように響く。
「実力もなければ個性もない。あんなのと付き合えるわけないだろ」
高田誠一の声だった。
六歳の頃から「誠一兄さん」と呼び慕い、ずっと一緒だった。両親が私たちの婚約話を持ち出すまでは、本当に、仲が良かったのに。
すべてが変わってしまった。
「……大丈夫か」
隣にいた藤崎くんが、心配そうに声をかけてくる。
「誠一はきっと酔ってたんだ。だからあんな戯言を……気にするな」
私はかぶりを振る。涙が、瞳のふちで懸命に堪えられていた。
誠一兄さんはもう一年近く、私との共演を拒み、メッセージも無視し、音楽室に私が入ることさえ許さなかった。学院で顔を合わせても、私を認めた瞬間に踵を返して去っていく。
ただ、どうしてなのか知りたかった。
今、その理由がわかった。
彼の目には、私は道端の野良猫と同じだったのだ。機嫌がいいときだけ構い、飽きれば追い払う。そんな存在に過ぎなかった。
「綾音?」
「藤崎くん、音楽室まで付き合ってくれる?」
彼が差し出してくれた楽譜ケースを受け取り、それで顔を隠すように俯く。
「もう、あの人と話す必要なんてないみたい」
彼の気持ちは、もう痛いほどわかってしまったから。
その時、リハーサルホールのドアが内側から開けられた。
合奏の授業を担当する野原先生が、人の良さそうな笑顔で戸口に立っている。
「おお、白石! ちょうどよかった、今、学園祭の音楽会で共演する曲について話していたところなんだ」
先生はそう言うなり私の手を取り、有無を言わさずリハーサルホールへと引き入れた。
私は身体をこわばらせたまま、中へと足を踏み入れる。ピアノの前に座る高田誠一が視界に入ったが、彼は鍵盤に視線を落としたまま、私と目を合わせようともしない。
「さあ、ここに座って」
野原先生は、誠一兄さんのピアノの向かいにある演奏席を指差した。
「誠一、白石にそんな態度をとるんじゃない。君たち二人は学院の誇りなんだからな」
高田誠一は一言も発しない。リハーサルホール全体の空気が、窒息しそうなほど張り詰めていた。
「野原先生、白石さんは少し体調が優れないのかもしれません」
見かねた藤崎くんが助け舟を出してくれる。
「また後日にしては——」
「白石綾音」
高田誠一が、唐突に口を開いた。その声は、恐ろしいほどに冷え切っていた。
「どうして俺の言うことを聞かない?」
彼はついに顔を上げ、射抜くように私をまっすぐに見据える。
「両家が俺たちの生活に干渉しなくなるまで、練習は別々にしようと要求したはずだ。なのに君は……どうしてまだついてきて俺を追い詰めるんだ!」
私は黙り込んだまま、膝の上のヴァイオリンに触れることさえできなかった。
ただならぬ雰囲気を察した野原先生が、軽く咳払いをする。
「どうやら君たちは、二人きりで話す必要があるようだ。……みんな、我々は一旦外に出よう」
すぐに、広いリハーサルホールには私と高田誠一だけが残された。
静寂が、目に見えない壁のように私たちを隔てている。
「君にプライドはないのか?」
高田誠一の声が、沈黙を破った。
「俺はずっと、君をただの子分くらいにしか思ってなかった。わかるか? 少しは自分で努力したらどうだ。いつも俺の周りをうろついてないで……君みたいな人間、鬱陶しいんだよ」
誠一の言葉が、鋼の針となって私の心臓に突き刺さる。
今、ようやく彼の本心が聞こえた気がした。
「俺から離れてくれないか」
彼の声には、隠そうともしない侮蔑が滲んでいた。
「俺には俺の、追い求める音楽がある。君に足枷をつけられたくないんだ。わかるだろ?」
指先が氷のように冷えきって、ヴァイオリンを手に取る力も湧いてこない。
記憶が、潮のように押し寄せる。思えば過去のどんな時も、彼は私に対してひどく無頓着だった。私の演奏への苛立ちと侮蔑。私に向ける、あの嫌悪に満ちた眼差し。私はただ、それらのサインからずっと目を逸らし続けてきただけなのだ。
「誠一兄さん」
私は、声が震えないように必死で平静を装った。
「これまで長い間、ご指導ありがとうございました」
深く、息を吸う。
「あなたの言う通りです。私も、自分の道を探さなくちゃいけません。もう、あなたの邪魔はしませんから」
ヴァイオリンをケースにしまい、私はリハーサルホールを後にした。
一度も、振り返らなかった。
ようやく、すべてが終わったのだ。
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三兄:「新薬の開発が遅々として進まないのはなぜだ?」――彼女が治験をしなくなったからだ。
四兄:「どうしてこんなにつまらない脚本しか上がってこない?」――彼女がもう執筆しないからだ。
五兄:「この義肢は、なぜこんなに出来が悪いんだ?」――彼女が製作をやめたからだ。
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(この小説を軽い気持ちで開くなよ。三日三晩も読み続けちゃうから…)
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そう高をくくっていた夫の顔に、受理された離婚届を叩きつける。
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その夜、鳴り止まない私のスマホに出たのは、新しい恋人の彼だった。
「知らないのか?」
受話器の向こうで、彼は低く笑った。
「良き元カレというのは、死人のように静かなものだよ?」
「彼女を出せ!」と激昂する元夫に、彼は冷たく言い放つ。
「それは無理だね」
私の寝顔に優しくキスを落としながら、彼は勝ち誇ったように告げた。
「彼女はクタクタになって、さっき眠ってしまったから」
令嬢の私、婚約破棄からやり直します
婚約まで二年、そして結婚まで更に二年を費やした。
だが長谷川冬馬の心の中で、彼女は幼馴染の市川美咲には永遠に及ばない存在だった。
結婚式の当日、誘拐された彼女は犯される中、長谷川冬馬と市川美咲が愛を誓い合い結婚したという知らせを受け取った。
三日三晩の拷問の末、彼女の遺体は海水で腐敗していた。
そして婚約式の日に転生した彼女は、幼馴染の自傷行為に駆けつけた長谷川冬馬に一人で式に向かわされ——今度は違った。北野紗良は自分を貶めることはしない。衆人の前で婚約破棄を宣言し、爆弾発言を放った。「長谷川冬馬は性的不能です」と。
都は騒然となった。かつて彼女を見下していた長谷川冬馬は、彼女を壁に追い詰め、こう言い放った。
「北野紗良、駆け引きは止めろ」
初恋よ、引き下がれ!
私は、彼を無性愛者なのだと思い込んでいた。……あの日、彼の裏切りを知るまでは。
夫の浮気が発覚したのは、相手の女が病院に運ばれたからだった。二人の行為があまりに激しかったせいだという。
そして、何よりも私を打ちのめしたのは、その相手が――私の実の妹だったという事実だ。
その瞬間、心臓を煮えたぎる油に放り込まれたような、耐え難い激痛が全身を貫いた。













