彼が救ったのは親友であり、死にゆく妻ではなかった

彼が救ったのは親友であり、死にゆく妻ではなかった

大宮西幸 · 完結 · 12.6k 文字

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紹介

出産予定日まであと二週間、夫の健太は嵐の夜、車で家を飛び出していった。
理由は幼馴染の美雪のマンションが停電し、閉所恐怖症の発作が起きそうだと言ったからだ。
私はお腹を押さえて「破水した」と告げ、床の血を見てほしいと懇願した。
「またその手か?先週も嘘をついただろう?美雪は本当に危険な状態なんだ」
彼は私の手を払いのけ、ドアが勢いよく閉まった。
私は血だまりの中に立ち尽くし、雨幕に消えゆく彼の車のテールランプを見つめた。
私の子供は、父親を失ったのだ。

チャプター 1

 窓の外で雷鳴が轟き、ガラス戸がビリビリと震える。

 ソファに手をついて立ち上がろうとしたその時、生温かい液体が内股を伝り落ちるのを感じた。視線を落とせば、カーペットに赤い染みが滲み広がっていく。

 破水だ。

 予定日までまだ二週間ある。だが、明らかに様子がおかしい。下腹部を襲う引き裂かれるような痙攣に、私は膝から崩れ落ちそうになった。

「健太……」

 ジャケットに袖を通す彼の背中に手を伸ばす。

「産まれそうなの」

 健太は車のキーを探しながら、顔も上げずに言い放つ。

「いい加減にしてくれよ、結月。先週も死ぬほど痛いって大騒ぎして、結局ただの前駆陣痛だったじゃないか。病院の待合室で三時間も潰す暇なんて、今の俺にはないんだ」

「今回は本当なの、お願い――」

 言いかけた言葉を遮るように、彼のスマホが着信を告げた。

 画面には「美雪」の文字。

 彼は食い気味にその電話を取った。

「健太っ!」

 受話口から、女性の悲鳴じみた泣き声が漏れ聞こえてくる。

「マンションが停電しちゃって、風で窓が開いて……真っ暗なの、もう耐えられない……!」

 健太の顔色がさっと変わる。彼はふと顔を上げ、私の顔を一瞥したが、その視線が下半身に向けられることはなかった。

「自分で119番に電話するか、お義母さんに来てもらえ」

 彼がドアを開け放つと、冷たい風が雨しぶきと共に吹き込んでくる。

「美雪のマンションは古いから、配線がおかしいんだ。この天気じゃ本当に命に関わる」

 私は必死に彼の袖を掴んだ。

「お願い、足元を見て!」

 彼は苛立たしげに私の手を振り払う。

「結月、お前には心底うんざりだ。美雪が俺を必要としている時に限って、いつもそうやって気を引こうとする」

 吐き捨てるような口調には、嫌悪感が滲んでいた。

「前回は腹痛、今度はなんだ? いい加減、悲劇のヒロイン気取りはやめてくれ」

 彼は冷ややかな目で私を見下ろした。

「あの子は昔から閉所恐怖症なんだ。暗闇の中で一人震えてるのを、放っておけるわけないだろ? 少しは大人になれよ。自分のことしか考えられないのか?」

 バンッ、と乱暴にドアが閉ざされた。

 エンジン音は、瞬く間に激しい雨音へと吸い込まれて消えた。

 取り残された部屋で、お腹の子が苦しげに暴れ回る。隙間風が肌を刺し、ふくらはぎを伝って血が床に滴り落ちた。

 大人になれ。

 自分のことしか考えられない。

 足元に広がる血溜まりを見つめ、私はふと乾いた笑みを漏らした。

 あの男は、これを見ようとすらしなかったのだ。

 震える指先でスマホを取り出し、連絡先の一番上にある番号をタップする。

「お兄ちゃん……破水したの」

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