紹介
私が絶望の淵にいたとき、医療費を払ってくれたのは夫の弟である正樹(まさき)さんでした。彼は私に寄り添い、娘を懸命に看病してくれたのです。
しかし、その甲斐もなく、娘は死神の手から逃れることはできませんでした。
人生で最も暗いあの日々、正樹さんはずっと私のそばにいてくれました。そして、私たちはやがて結婚したのです。
五年後、正樹さんと私の間には、新しい命も授かりました。
……あのパーティーで、正樹さんと友人の会話を盗み聞きしてしまうまでは。
その瞬間、私の世界は完全に崩壊しました。
チャプター 1
「正樹、あの時のことがバレたらどうする気だ?」
それは正樹の親友、平野の声だった。
あの時のことって、何? 私は壁に張り付いて、鼓動が早鐘を打ち始めるのを感じた。
「お前が美奈子の娘の腎臓をこっそり静留に移植して、静留は助かったけど娘は死んだ。手術の合併症だと嘘をついて……」
平野の声は低く、押し殺されていた。
「あの時、静留は危篤だった。片方の腎臓なら大丈夫だと思ったんだ……まさか死ぬとは思わなかった」
正樹の声には、微かな疲労が滲んでいた。
「美奈子と結婚したのは口封じのためだ。今は妊娠もしてるし、過去のことは吹っ切れたみたいだしな。静留も安心、俺も安心。これで丸く収まる」
その時、ようやく理解した。娘は手術の合併症で死んだんじゃない。
正樹が、あの子の腎臓を秘密裏に静留へ移植したんだ。
私は背中を壁に強く押し当てた。冷たい壁の感触が掌から伝わり、その寒気が心臓まで凍てつかせていく。
「静留はもう貞雄と結婚して、子供もいる。お前らにはもう未来はない。今の生活を大事にしろよ。美奈子はお前を愛してるし、いい女だ」
平野は一呼吸置いて続けた。
「今あるものを大切にするんだな」
正樹はふっと、乾いた笑いを漏らした。
「肩書きなんてどうでもいい。静留を守れればそれで。美奈子か……ああ、確かにいい妻だし、将来はいい母親になるだろう。だが……」
彼は言葉を切った。
「残念ながら、愛してはいない」
その言葉は、鋭利なナイフのように私の胸を突き刺した。
この五年間の愛情は、すべて正樹の演技だったのね。彼がしたことの全ては、最愛の女、静留のため。
唇を強く噛み締めると、口の中に鉄錆のような血の味が広がった。
「美奈子は可哀想だ。すでに子供を一人失ってる。せめて今腹にいるお前の子と彼女を、大事にしてやれよ」
正樹はしばし沈黙し、物思いに耽っているようだったが、やがて口を開いた。
「ああ、そうする」
二人の足音が遠ざかっていくのを確認して初めて、私は壁の陰から這い出すことができた。膝の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。
五年前、正樹はまるで神様が遣わした救世主のように見えた。
あの時、それが私の人生に残された最後の温もりだと思っていたのに。
でも、今ならわかる。
彼は私を、そして私の娘を守ってくれたわけじゃない。
狙いは、静留のものになるはずだった腎臓。
私との結婚も、ただの罪滅ぼしか保身のため。
視界が涙で滲み始めた。
私は夢遊病者のように、ふらふらと家に戻った。
ソファに鞄を投げ出した瞬間、背後から正樹に腰を抱きすくめられた。
「どこ行ってたんだ?」
耳元で囁かれ、彼の手が服の上から這い回る。
私は全身を強張らせ、彼を突き飛ばしたくなった。
「疲れてるの」
「大丈夫」
彼は私の首筋に口づけを落とす。
「優しくするから」
その感触に、強烈な吐き気が込み上げた。娘を殺しておいて、よく私に触れられるわね。
「正樹、妊娠中なのよ。医者にもダメだって——」
「三ヶ月過ぎれば問題ないって言われたろ」
彼は私の言葉を遮り、服のボタンに手をかけた。
「愛しい美奈子、お前が欲しいんだ」
私は猛然と彼の腕を振りほどき、トイレに駆け込んで嘔吐した。
正樹は眉をひそめたが、一歩下がってくれた。
「わかったよ、ゆっくり休め」
去っていく彼の背中を見送りながら、胸の奥から湧き上がるおぞましさを必死に抑えた。
彼が二階に上がったのを確認し、私は震える指で兄に電話をかけた。
「お兄ちゃん……私、間違ってた」
声が震えて、嗚咽が混じる。
「家に帰りたい」
「わかった。すぐに五日後のフライトを手配する。空港まで迎えに行くから」
兄の声は力強く、そして優しかった。
電話を切り、涙を拭う。
振り返ると、そこには正樹が立っていた。
「誰と電話してたんだ?」
心臓が早鐘を打つ。いつからそこにいたの?
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