もう彼の帰りを待ちません

もう彼の帰りを待ちません

渡り雨 · 完結 · 17.7k 文字

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紹介

祖母の最期の願いにより、心臓外科の「ゴールデン・バチェラー」と呼ばれた宗次(そうじ)さんは、彼に片想いをしていた看護師の私と結婚せざるを得なかった。
6年間の隠された結婚生活。病院では、私たちは他人を装い、彼は私と娘の奈々子(ななこ)に冷淡そのものだった。
そんなある日、彼の初恋の相手が帰国する。別の女性のために再び情熱を燃やす彼の姿を見て、私の心は完全に冷めきってしまった。
私は離婚届にサインし、奈々子を連れて彼の世界から姿を消した。
今度こそ、彼は私たちを永遠に失ったのだ。

チャプター 1

結菜の視点

「金田様、本当によろしいのですか? 財産の半分を受け取る権利があるのですよ」

 離婚弁護士にこの問いを投げかけられるのは、もう三度目だ。彼は私の選択が理解できないらしい。

「娘の親権さえあれば、他には何もいりません」

 目の前の離婚協議書に視線を落とす。そこには、奈々子の親権以外、すべての財産分与を自ら放棄すると記されていた。

「しかし金田様、そのような決定は……」

「これ以上お話しすることはありません」私は彼の言葉を遮った。

「宗次なら同意するはずです。彼にとって、私たち母娘はただのお荷物でしかありませんから」

 六年前、私は金田宗次と結婚した。それは彼の祖母が臨終の際に遺した願いだったからだ。病床の祖母は私の手を握り締め、こう言った。『結菜さん、どうか孫のことを頼みます』と。

 私はこの心優しい老婦人の最期の願いを聞き入れた。

 けれど宗次は、私がその状況を利用し、玉の輿を狙ったのだと思い込んでいた。祖母の感情につけ込んだ女だと。

 六年もの間、私たちが結婚している事実を知る者はいなかったし、五歳になる娘がいることさえ知られていなかった。

 何しろ、高名な金田医師と平凡な看護師だ。誰が夫婦だと信じるだろうか? ましてや、私がずっと彼に片想いしていたことなど、誰が知る由もないだろう。

 だが、それもどうでもいいことだ。すべては終わるのだから。

 私は書類をバッグにしまい込むと、足早に病院へと向かった。

 職員用駐車場では、ちょうど宗次が退勤するところだった。白衣を腕に掛けている。

「宗次、話があるの——」

 私を見るなり、彼は眉をひそめた。

「どんな用件だろうと後にしてくれ。急いでいるんだ」

 腕を掴もうとした私の手を、彼は即座に振り払った。

「約束を忘れるな、結菜」

 私たちの、極秘結婚の約束。病院内では一切の親密な関係を見せないこと。

 六年間、私はその約束を厳格に守り続けてきた。だが、それに対する報酬は、日に日に冷淡さを増す彼の態度だけだった。

 その時、一台のシルバーのスポーツカーが滑り込んできて、私たちの目の前に停まった。

 車から降りてきたのは、平木美優だった。彼女は宗次に駆け寄ると、そのまま抱きつき、口づけを交わした。

「宗次、ダーリン! 待ちくたびれちゃった。私の初公演の記念パーティー、絶対に来てくれなきゃ嫌よ」

 美優は宗次の初恋の相手だ。有名なバレエダンサーである彼女は、数年前にキャリアのために海外へ渡り、その際に宗次と別れていた。

 そして今、彼女は帰ってきた。宗次は誰に対しても見せないような優しい顔を、彼女に向けている。

 二人の親密な様子を見て、胸が引き裂かれるように痛んだ。

 美優が私に気づく。

「あら、この方は……?」

 宗次は私を見ようともしなかった。

「こちらは結菜。ここで働いている、ただの同僚だ」

 美優は甘えるような声を出して宗次の腕に絡みついた。

「じゃあ行きましょう、パーティーが始まっちゃうわ」

 宗次は頷き、彼女に従って車に乗り込んだ。

 走り去る車を見送りながら、私は心の中で呟いた。

『結菜、何を期待しているの?』

『彼があなたを愛することは永遠にないって、とっくに知っていたでしょう』

 私はスマートフォンを取り出し、宗次にメッセージを送った。

『明日の夜七時、奈々子のダンスの発表会があります』

 画面を見つめ、返信を待つ。

 いつものように、反応はない。

 私はスマートフォンをポケットに戻し、深く息を吸い込んでから、病院の建物へと歩き出した。

 翌日の終業後、私はダンス教室へ奈々子を迎えに行った。

 私の姿を見つけるなり、娘は興奮して駆け寄ってきた。

「ママ! 今日はファミリーデーの発表会だよ! 『四羽の白鳥』を踊るの!」

 愛しい我が子を見ていると、胸が温かくなり、心の鬱屈が晴れていくようだった。

「誰よりも可愛いわよ」

「ママ、パパは本当に見に来てくれる?」奈々子は期待に満ちた目で私を見上げた。

 彼女はこれまで、父親が自分の行事に参加してくれた記憶がない。

 喉の奥が詰まるような感覚を覚えながら、私は言った。

「きっと都合をつけてくれるわ」

 私は嘘をついた。真実を告げるには、彼女はあまりに幼すぎた。

 夜七時、発表会会場の舞台裏。

 純白のチュチュを身にまとった奈々子は、鏡の前で何度も動きを確認していた。

「ママ、私かわいい? パパ、喜んでくれるかな?」

「世界で一番かわいいお姫様よ」

「パパ、いつ着くの?」奈々子は何度もドアの方を気にしている。

「もうすぐよ」

 他の保護者たちが続々と到着し、子供たちは興奮してパパやママの手を引いている。待っているのは奈々子だけだった。

 ようやく、宗次から連絡が入った。

『手術が長引いている。急いで向かう』

 その知らせを聞くと、奈々子は飛び上がって喜んだ。

「ほらね! パパ、来てくれるって!」

 彼女は嬉しそうに衣装を整えた。

「ママ、私、最高にきれいに踊るからね!」

 発表会が始まった。

 一番目の演目、二番目、三番目……。

 宗次はまだ来ない。

 奈々子の出番が迫っていた。彼女は舞台袖に立ち、客席を何度も覗き込んでいた。

「ママ、パパはどこに座ってるの?」

「もう少し待ってて、道が混んでいるのかもしれないわ」

「結菜さん、お子さんの出番ですよ」先生が私に声をかけた。

 奈々子は空席の目立つ客席を失望の眼差しで見つめた。

「ママ、パパは本当に来られないの?」

 私はしゃがみ込んで彼女を抱きしめた。

「大丈夫よ。ママが客席で見ているからね」

 奈々子の瞳には涙が滲んでいたが、それでも懸命に笑顔を作った。

「うん、ママがいれば十分」

 彼女はステージへと歩み出し、踊り始めた。

 私は客席に座り、不憫な娘を見守った。

 宗次は決して奈々子の存在を認めようとしなかった。結婚後、私たちは他人行儀に過ごしていたが、一年後のある夜、酔った宗次を私が介抱したことがあった。あの一夜、私たちは奈々子を授かった。

 だが酔いが覚めた宗次は、私が故意に彼を酔わせ、子供をだしにして縛り付けようとしたのだと考えた。それ以来、彼は奈々子に対しても冷淡だった。

 私は再び宗次に連絡しようとスマートフォンを取り出した。

 その時、画面に美優のインスタグラムの通知がポップアップした。

 チャリティー晩餐会の写真だった。黒いタキシードを着た宗次が美優の隣に立ち、親密そうにグラスを合わせている。

 そこにはこう添えられていた。

『大切な人と過ごす、完璧な夜』

 宗次の手術が長引いたわけではなかった。彼はただ、美優との晩餐会を選んだのだ。

 舞台上では、奈々子が一人で最後まで踊りきっていた。父親の拍手も、抱擁もないままに。

 演技を終え、彼女は舞台から駆け下りて私の胸に飛び込んできた。

「ママ、私、上手に踊れた?」

「最高の白鳥だったわ」

「パパが見てくれなくて残念だな」彼女の声は小さかったが、そこに恨み言はなかった。

 私は彼女を強く抱きしめ、涙がこぼれ落ちそうになるのを必死にこらえた。

 帰宅後、私はバッグから離婚協議書を取り出し、最後のページに署名をした。

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