紹介
あの夜、壁に手をついて体を支えながら、個室から漏れ聞こえる笑い声に耳を澄ませた。
夫、智之(ともゆき)の声が弾んでいた。「賭け金をあと百万円追加だ。俺は男の子二人、女の子一人に賭ける」
彼の愛人、七奈美(ななみ)が甘えた声で言う。「あなた、もう結果を知っているんでしょう」
「当たり前だろ」彼は軽く答えた。「俺の子どもなんだ。知ってて当然だ」
そして、私は聞いてしまった。
彼らは私の胎のことを、まるで便利な機械か何かのように品定めしていた。
「どちらの卵子がより貴重か」に、祝杯をあげていた。
「どの子が一番先に生まれるか」でさえ、賭けの対象にしていた。
一方、私はドアの外に立ち、ひび割れた皮膚の全身を、浮腫んだ足で支えていた。
中で彼らは、狂喜し、祝っている。
私という完璧な「器」が、夫と彼の愛人の子どもを身籠っていることを。
その瞬間、吐き気はぴたりと止まった。
ただ、寒いと感じた。
そして、一つの計画が、氷のように冷たい胸の中で、ゆっくりと鼓動を始めた。
チャプター 1
由紀子視点
病院の廊下、壁に手をついて身体を支える。今日八度目の悪阻(つわり)が、ようやく引いてくれた。
鏡に映る姿は、まるで亡霊だ。浮腫んだ顔に、青黒く窪んだ眼窩。パンパンに張り詰めた腹部の皮膚は透き通るようで、三本の妊娠線が亀裂のごとく這っている。
三つ子。妊娠八ヶ月。拒絶反応は、私の命を削るほどに酷かった。
それでも、この子たちは私と智之の子供だ。三年に及ぶ不妊治療の末、ようやく授かった奇跡なのだから。
「内園様、本当に退院されるのですか?」看護師が慌てて追いかけてくる。「今の容体では……」
「今夜は、夫の会社の上場記念パーティーですので」私は引きつる頬で無理に笑みを作った。
「どうしても、行かなくては」
煌びやかな宴会場。けれど私の鼻をつくのは、入り混じったシャンパンと香水の残り香だけだった。
「内園はどこに?」給仕の一人を捕まえて問う。
「あ、内園様でしたら、ご友人の方々と『翡翠の間』にいらっしゃいます」彼は視線を泳がせた。
「ご案内いたしま——」
「結構よ」
鉛のように重い体を引きずり、廊下の突き当たりへと向かう。
個室のドアは僅かに開いており、そこから笑い声が溢れ出していた。
私は足を止め、本能的に腹部を撫でる。赤ちゃんたちが、動いた。
隙間から、聞き慣れた夫の声が漏れてくる。あのどこか人を食ったような、お気楽な笑い声。
「賭け金をもう百万上乗せだ。俺は男二人に女一人に賭ける」
胸の奥がじわりと温かくなる。やっぱり彼も、子供たちを楽しみにしてくれているんだ。
「智之ったら、ずるーい。不公平よ」甘えるような七奈美の声が響く。
「最初から結果を知ってるんでしょう?」
「当たり前だろ」彼は鼻で笑う。
「俺の子供だぞ、知らないわけがない」
部屋の中が囃し立てる声で沸く。私の口元も自然と綻び、ドアの枠にそっと身を預けた。
「じゃあ本当に男二人、女一人なのか? おい七奈美、遺伝子検査の結果はどうだったんだ?」
その一言で、空気が凍りついた。
私の指が、掌に食い込む。
「どっちにしろ、私の可愛いベイビーたちよ」七奈美の声は、砂糖菓子のように甘ったるい。
「由紀子さんには感謝しなきゃね。あんなに辛い思いをして産んでくれるんだもの」
「あいつはそういう役に適しているんだ」智之の口調は平坦で、まるで機械の性能でも評価しているかのようだ。
「子宮の条件が良く、耐性も強い。医者は減胎手術を勧めたが、俺が断った。七奈美の卵子は貴重なんだ。一つたりとも失うわけにはいかない」
世界から音が消えた。
私は視線をゆっくりと下腹部へ落とす。皮膚の下で、三つの小さな命が蠢いている。
「智之、お前も悪よのう」別の男が笑う。共同経営者の金田だ。
「本妻に愛人の代理母をさせるとは。しかも一気に二人も。由紀子ちゃんが知ったら……」
「知るはずがない」智之が遮る。
「カルテは改竄済みだ。あいつは自分の卵子だと信じ込んでいる」
「じゃあ、三人目は?」誰かが尋ねる。
「七奈美ちゃんのじゃないなら、さすがに由紀子ちゃんの子か?」
沈黙。
やがて、七奈美の忍び笑いが聞こえた。
「三人目? 誰の子だと思う? 当てたら智之にご褒美ねだっちゃおうかな」
部屋中がどっと沸き返り、下卑た推測の声が飛び交う。
私はよろめき、背中で冷たい壁にぶつかった。
部屋の中の会話は続き、毒蛇のように耳へと潜り込んでくる。
「由紀子ちゃんも哀れだな」
「何が哀れなもんか。もともと家の繋がりを利用して、無理やり智之に結婚を迫ったのはあっちだろ? 自業自得だ」
「違いない。智之の本命はずっと七奈美ちゃんだったのにな」
「それにしても七奈美ちゃん、痛いのは嫌だって? 自分の腹は痛めたくないのか?」
「怖いもーん」七奈美が猫なで声で言う。
「妊娠なんてしたらスタイル崩れちゃうし。由紀子さんが喜んで“器”になってくれるんだから、私が苦労する必要ないでしょ?」
智之が声を低くして笑う。
「お前ならどんな姿でも愛してるさ」
続いて、口づけを交わす水音が響く。じゅぷ、と湿った音が。
私はきつく瞼を閉じた。
記憶の破片が脳裏に突き刺さる。採卵室、長い針が腹部を貫いた痛み。歯を食いしばり、爪が掌に食い込んで血が滲んだあの日。
智之は私の手を握り、目を赤くしていたっけ。
『由紀子、もう少しだ。俺たちの子供のために、頑張ってくれ』
減胎手術のカウンセリングで、医師はモニターを指差して言った。
『胎児が三人は母体への負担が大きすぎます。一人か、二人に減らすことをお勧めします』
智之は私の肩を抱き、力強く言った。『一人だって減らせない。全員俺たちの血を分けた子だ。選ぶなんてできない』
吐きすぎて虚脱状態の私に、彼は甲斐甲斐しく粥を運んでくれた。その瞳は滴るほどに優しかった。
『この子たちが生まれたら、毎日ずっとそばにいるから』
嘘だ。
全部、嘘だった。
私はゆっくりと体を起こす。
行かなきゃ。こんな地獄からは、一刻も早く逃げ出さなきゃ。
けれど、足が地面に縫い付けられたように動かない。
待って!
彼らは、二人だと言った。七奈美の受精卵は二つだと。
なら……私のは?
まさか、三人目の子は私と智之の子なの?
お腹を押さえる。そこには、皮膚越しに三つの鼓動が確かに脈打っている。
万が一、彼らが間違えていたら?
万が一、カルテの改竄に漏れがあったとしたら?
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彼が初恋の相手と入籍した日、彼女は交通事故に遭い、お腹の双子の心臓は止まってしまった。
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後に噂で聞いた。彼は新婚の妻を置き去りにし、たった一人の女性を世界中で探し続けているという。
再会の日、彼は彼女を車に押し込み、跪いてこう言った。
「もう一度だけ、チャンスをください」
愛した令嬢は、もう他の男のものです
優しく、聞き分けの良い女でいれば、いつか彼の心を手に入れられると信じていた。
しかし、神様は残酷な悪戯を仕掛けた。
私に下された診断は、心不全。そして、余命数ヶ月という非情な宣告だった。
やがて、彼の“本命”が帰国する。
そして、私はあっけなく捨てられた。
騒ぎ立てることもなく、私は静かに彼の前から姿を消した。
彼から一銭たりとも、受け取らずに……。













