紹介
ただ一言、こう言っただけだ。「わかった」と。
榛は呆然としていた。私が心変わりするのを恐れるかのように、彼は慌てて書類に自分の名前をサインした。
私もサインをした。ただ、「妻の氏名」の欄に書いたのは、私の名前ではなく、優奈の名前だった。
数日後、私は例の「研究施設」へと送られた。
父は言った。「これでようやく優奈は治るんだ。お前のことを本当に誇りに思うよ」
母は言った。「実験が終わったら、ちゃんと埋め合わせはするからね」
榛は優奈を優しく見つめながら言った。「君が元気になったら、どこへ旅行に行こうか?」
彼らが知らないこと。それは、私が同意したあの日、自分の診断書を受け取ったばかりだったということ。――末期癌、余命三ヶ月。
未知の液体が次々と私の血管に注入され、メスが何度も私の皮膚を切り裂く中、私が知りたいのはただ一つだけだった。
彼らがついに真実を知った時、果たして後悔するのだろうか
チャプター 1
両親はいつも、私よりも従姉妹の優奈を愛していた。子供の頃から、私はすべてを彼女に譲らなければならなかった。
婚約者の榛なら違う、そう思っていたけれど、私は間違っていた。優奈に会ってからというもの、彼もまた、私に彼女へ譲歩するよう圧力をかけてくるようになったのだ。今回のように、私に実験台になれと強要してくることさえある。彼は私を屈服させるためだけに、婚約破棄さえちらつかせた。
今日、私はついに抵抗をやめた。彼女にすべてをあげる。何もかも、全部。
……
今日、癌の告知を受けた。
「川澄さん、大変残念ですが……」
医師は努めて無表情を装いながら、そう告げた。
「胃癌のステージ4です。治療しなければ、余命はおよそ三ヶ月でしょう」
三ヶ月。
私はその場に座り込み、手の中にある検査結果を見つめた。紙の上の文字が滲んで混ざり合っていく。
「ご希望でしたら、すぐに化学療法を始めることも――」
「少し、考える時間をください」
私はそう答えた。
榛のマンションまで車を走らせた。車内は完全な静寂に包まれ、心は奇妙なほど空っぽだった。
部屋に入ると、榛はリビングで待っていた。私の姿を見た瞬間、彼は立ち上がった。
「沙菜、これで九十九回目だぞ」
彼の声は疲れ切っており、苛立ちさえ滲んでいた。
「もし優奈のためにあの薬の治験を受けると同意しないなら、婚姻届にはサインしない」
彼は私に見えるように届出用紙を掲げた。署名欄は空白のままだ。
私は自分の指にある婚約指輪を見つめた。急に、それがどうしようもなく重く感じられた。
「わかった」
私は静かに言った。
「やるわ」
榛が目を見開く。
「今、なんて言った?」
「彼女のために治験を受けるって言ったの」
彼は一瞬、信じられないという顔で私を見つめていた。
やがて、その顔が満面の笑みへと崩れた。
「本気か? 本当に言ってるのか?」
彼はコーヒーテーブルのペンをひったくり、私が気が変わるのを恐れるかのように、素早く自分の名前を署名した。そして、その用紙をテーブル越しに私の方へ押しやった。
「今すぐ書け。さあ、気が変わらないうちに」
その時、彼の携帯電話が鳴り始めた。画面を見た彼の笑みは、さらに深くなった。
「出なきゃ」
彼はバルコニーへと歩き出し、背後のガラス戸を閉めた。窓越しに、彼が興奮した様子で話しているのが見えた。
「彼女が同意したんだ!」
ガラス越しに彼の大きな声が響いてくる。
「沙菜がついにイエスと言った!」
私はテーブルの上の用紙に目を落とした。「妻の氏名」の隣にある空欄。私はペンを取り、その場所に名前を書き込んだ。
だが、私が書いたのは自分の名前ではなかった。『遠藤優奈』と書いたのだ。
私は自分が書いた文字を見つめ、口元に苦い笑みが浮かぶのを感じた。
これも、彼女にあげるわ。
……
半年前、優奈は自分の病気を治せる医者を見つけたと言い出した。
彼女は二十年前の交通事故以来、ずっと病弱だった。いつも弱々しく、壊れそうで、誰かから何かを必要としていた。
「今度こそ、本当に治してくれる人を見つけたの」
彼女は希望に目を輝かせて言った。
「腕の確かな先生よ」
「それはよかった」
と私は言った。
「どこの病院の先生?」
「個人の研究所を持ってるの。プライベートな施設よ」
彼女は私の手を握りしめた。
「でも一つだけ条件があって……最初に薬を試す人が必要なの。あなたがね」
部屋中が静まり返った。
「薬を試す?」
私は彼女の手を振り払った。
「優奈、それは危険すぎるわ。別の医者を探すのを手伝うから、そんな――」
「あの先生しか私を治せないの!」
彼女は金切り声を上げた。
「私のためにやってよ!」
榛が私たちの間に割って入った。
「沙菜、一度くらい聞き分け良くしたらどうだ」
「私はまともなことを言ってるわ。そんな話、全然安全そうに聞こえない――」
「彼女を助けることに同意しないなら」
榛はゆっくりと言った。
「俺たちは終わりだ。婚約は破棄する」
私は両親を見た。味方をしてくれると期待していたが、彼らは動かなかった。
「従姉妹を助けるのを拒むというなら」
父は言った。
「遺産はすべて優奈に残す。私たちが死んでも、お前には一銭もやらんぞ」
母も同意して頷いた。
「優奈にはあなたが必要なのよ、沙菜。家族は助け合うものでしょう」
それから数ヶ月、私は拒否し続けた。できる限り粘ったのだ。
今日までは。
私が署名した後、榛はすぐに私の実家へと車を走らせた。彼は運転席でじっとしていられない様子だった。
「二人に話したら、きっとすごく喜ぶぞ」
と、彼は何度も繰り返した。
実家に着くと、両親はリビングに座っていた。優奈はソファにいて、いつものように青白く繊細な様子を見せていた。
「沙菜が承諾したぞ!」
ドアを入るなり、榛が宣言した。
「彼女、やるってさ! 優奈のために治験を受けるって!」
母は息を呑んだ。父は立ち上がり、顔中に笑みを広げた。
「沙菜」
母は、ここ数年で初めて見る誇らしげな目で私を見た。
「やっと大人になったのね。自分のことばかりじゃなく、ようやく家族のことを考えられるようになった」
私は何も言い返さなかった。
父が歩み寄り、私の目の前に立った。
「優奈の両親が死んだのはお前のせいだ。あの子の体がボロボロになったのもな。お前が今やろうとしていることは、彼女への借りを返すことに過ぎん」
その言葉は傷つくはずのものだった。けれど、もう痛みはなかった。
「でも、お前もまだ私たちの娘だ」
母が早口で付け加えた。
「優奈が良くなったら、遺産の大半はお前に残すわ。この犠牲への埋め合わせとしてね。優奈には不自由しないだけのお金は残すけれど、大部分はあなたのものよ」
私はちらりと優奈を見た。ほんの一瞬、彼女の顔に怒りが走るのが見えた。だがそれはすぐに消え、彼女はまた愛らしく感謝に満ちた表情に戻った。
私はゆっくりと首を横に振った。
「お金なんていらない」
胸の内の苦味を飲み下して、私は言った。
部屋にいる全員が動きを止め、私を見つめた。
「もう、何もいらないから」
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偉大なるイグナス王国を形づくる七つの村では、毎年欠かさず「選定の儀」が執り行われていた。その儀で村の娘のひとりが選ばれ、恐るべき竜王の花嫁となるのだ。
なぜそんな儀を年ごとに続けるのか、誰にもわからない。これまで選ばれていった花嫁たちが、その後どうなったのかも――。
奴隷にされているのか?
竜の餌にされているのか?
それとも……竜王自身が、彼女たちを喰らっているのか?
それだって否定はできない。王は自分たちとは違う、人ではないのだという噂があるのだから。
それでも、その疑問は執念深く人々の胸を苛んだ。
いったい、花嫁を何に使っているのか――!?
だが、誰も王に問いただそうとはしなかった。逆らうなどという無謀が、どんな運命を呼び込むかが怖かったのだ。
もっとも、そんなことはベラドンナの知ったことではない。今年は彼女の村が花嫁を差し出す番だったが、自分が選ばれるはずがないと彼女は確信していた。
なぜかって?
もちろん、計画があるからだ。そして彼女は、その計画が自分を裏切るはずがないと信じ切っていた……いや、本当にそうだろうか。
私が去った日
けれど最後に彼が選んだのは、私ではなく、彼の初恋の女性だった。
夫は、私の心を深く傷つけただけではない。あの女が私の大切なジュエリーデザインを盗むことを許し、さらには実の息子までも操って、私を「怪物」だと思わせた。
嘘で塗り固められた結婚生活の中で、私は少しずつ自分を失っていった。
息が詰まるような日々。愛されていると思い込んでいた時間。すべてが偽りだった。
けれど、彼らはひとつだけ間違えた。
私を、もう戻れないところまで追い詰めたこと。
私が去ると決めたあの日。
私は、最低な夫も、母親への感謝を忘れた息子も、そして彼らによって壊された過去の自分も、すべて置き去りにした。
親友の支え。そして、私の本当の価値を見抜き、才能を認めてくれたある若き実業家との出会い。
その温かな手によって、私はもう一度、自分自身を取り戻した。
失った誇りを取り戻し、眠っていた才能を開花させ、世界へ羽ばたくデザイナーとして新たな人生を歩み始めた。
今、私の作品は世界の舞台で輝いている。
一方で、かつて私を捨てた男は、跪いて許しを乞う。
「戻ってきてくれ」と。
けれど、もう遅い。
私が去ったあの日こそが、私が本当の自分を取り戻した日。
もう二度と、過去には戻らない。
捨てられたルナの復讐
「ベラ」イーサンの声音が変わった。わたしが嫌というほど知っている、あの警告めいた刃が混じる。「いまのフェイは不安定なんだ。おまえが彼女を恨むんじゃないか、これで群れが割れるんじゃないかって、怯えてる。彼女がいちばん望んでないのは、この子が俺たちの間に入り込むことだ」
「だったら、そんなことしなければよかった」わたしは真正面から彼の目を捉え、こちらの瞳に張りついた氷を見せつけた。「息子のところへ戻って」
「いい加減にしろよ」彼は苛立ちまぎれに髪をかきむしった。「何度言えば――人工授精だ。俺の精子を使ったのはそうだが、フェイと俺は――」
ベラは冷えきった鼻笑いを漏らした。なんて厚かましい嘘。彼女の伴侶は、兄の番と関係を持ち、家族ぐるみで彼女を何も持たせず追い出した。愛人が「正しい」座に収まるために、道を空けるように。哀れな愚か者――彼は、彼女がただの厄介な養女で、簡単に切り捨てて支配できると思い込んでいた。自分が探し求めていた天才的な技術者が、まさか自分のルナだったとは、ついぞ知らずに。
彼が自らを汚した時点で、ベラの中ですべては終わった。彼女は彼を拒み、奪われたものを取り戻した。何年も密かに彼女を愛してきたヴィクターの助けを得て、頂点へと駆け上がっていく。
イーサンが彼女を取り戻そうとしたとき、こう言った。「俺たちの子どもを、父親なしで育てたいのか」
ベラは嘲るように微笑んだ。「その子の父親は、あなたじゃないわ」













