紹介
愛する夫と子供たちにそう言われ、私は家庭内での居場所を失った。
六年間、身を粉にして尽くしてきた日々は、何の意味もなかったのだ。
絶望の中で目にしたのは、かつて母が手にした科学界の最高栄誉であるトロフィー。
その輝きが、私に本来の自分を思い出させた。
私はエプロンを脱ぎ捨て、白衣を纏う。
もう誰かの妻でも、母でもない。一人の科学者として、世界を驚かせるために。
数々の賞を総なめにし、頂点に立った私を見て、元夫は顔面蒼白で崩れ落ちた。
震える声で私の名前を呼び、足元に縋り付く彼。
「行かないでくれ……君がいないと、俺は……」
かつて私を見下していたその瞳が、今は絶望と後悔に染まっていた。
チャプター 1
「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません……」
携帯電話から流れる無機質なアナウンスを聞きながら、西園寺琴音は思わず下唇を噛みしめた。心臓が冷たく凍りついていくのを感じる。
さらりとした長い髪が頬にかかり、整った眉間には深い皺が刻まれている。その瞳には、溶けることのない焦燥が滲んでいた。
娘が嘔吐を繰り返している。食中毒の可能性は排除されたものの、あらゆる薬を試しても効果はなく、先ほどついに意識を失ってしまったのだ。
これが、彼女が陸奥司にかけた四回目の電話だった。
そのすべてが、着信拒否のように切られている。
「ケホッ、ケホッ……」
ベッドの上の真夏が突然咳き込んだ。
西園寺琴音はすぐに携帯を放り出し、駆け寄った。
「真夏!」
真夏の顔色は紙のように白く、ゆっくりと目を開けると、苦しげに口を開いた。
「瑠璃お姉ちゃんに会いたい……。今日はお姉ちゃんの受賞記念パーティーなんでしょ? デザイン賞のお祝いに行きたいの……」
西園寺琴音の瞳に驚愕の色が走った。
陸奥司が電話に出ない理由が、唐突に理解できた。今日は二階堂瑠璃の受賞祝賀パーティーだったのだ。
娘が嘔吐し続けているというメッセージを送ったにもかかわらず、彼が帰ってこないわけだ。
胸の奥に、得体の知れない苦味が広がる。
二階堂瑠璃。彼女は彼にとって、心に住み着く高嶺の花のような存在なのだ。
かつて二階堂家の両親が陸奥司を救って亡くなった際、陸奥家は当時十六歳だった二階堂瑠璃を引き取った。
もし西園寺琴音が陸奥司に嫁いでいなければ、今日の「陸奥夫人」の座にいたのは間違いなく二階堂瑠璃だっただろう。
その時、部屋の外から七海が飛び込んできて、西園寺琴音の足にしがみつき、甘えるように揺さぶった。
「ママ、僕も瑠璃お姉ちゃんのパーティーに行きたい! いつ連れてってくれるの?」
西園寺琴音は七海を見下ろし、努めて優しい声で言った。
「ママは今から真夏を病院に連れて行かなきゃいけないの。あなたは家でシッターさんと一緒にいて。絶対に勝手に出歩かないでね」
真夏の嘔吐は一刻を争う。
陸奥司が捕まらない以上、彼女が一人で連れて行くしかなかった。
西園寺琴音はクローゼットから上着を取り出し、真夏をしっかりと包み込むと、急いで抱きかかえて階下へと降りた。
去り際に、シッターへの注意も忘れない。
「七海はやんちゃだから、絶対に目を離さないで」
「かしこまりました、奥様」
後ろから七海が不満げに追いかけ、大声で叫んだ。
「家にいるなんてヤダ! 僕も瑠璃お姉ちゃんのところに行くんだ!」
「言うことを聞きなさい! ママは今、あなたにかまっている時間はないの!」
西園寺琴音は振り返ることなく、最速でタクシーを拾い病院へと向かった。
自宅から病院までは普段なら三十分ほどの距離だが、今日の道路は異常なほど混雑していた。
西園寺琴音は腕の中で再び気を失った真夏を見つめ、心を焼かれるような焦りを感じていた。
彼女は医学を学んでいた。
激しい嘔吐が続けば、身体に不可逆的なダメージを与える可能性があることを知っている。
渋滞を抜け、ようやく病院にたどり着いた西園寺琴音だったが、ロビーを埋め尽くす人だかりを見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。
視界に入るのは、嘔吐や発熱に苦しむ子供や大人たちばかり。虚弱な様子で寄りかかり合い、あちこちから咳き込む音が聞こえてくる。
医療スタッフの手は完全に足りておらず、大声で道を空けるよう叫ぶのが精一杯のようだ。
西園寺琴音の脳裏に、不吉な予感がよぎった。これは単なる食中毒や風邪ではない。ウイルスだ。
これほどの人数が同時に発症していることから見て、感染力が強く、拡散速度も速い新型のウイルスに違いない。
彼女は慌てて真夏のマスクをきつく締め直した。
人が多ければ多いほど、感染のリスクは高まる。
陸奥司はまだこの事態を知らないはずだ!
そう思い至った西園寺琴音は、片手で真夏を抱きしめながら、もう片方の手で陸奥司にメッセージを送った。これはウイルスであり、防護に注意するように、と。
しかし、送信されたメッセージは石沈大海のごとく、何の反応もなかった。
その間にも、病院の収容能力を遥かに超えた患者たちによって、現場は混乱を極め始めていた。
「医者はどこだ! 早く診てくれ! 妻が二日も吐き続けて、死にそうなんだぞ!」
「誰か何とかしてくれよ!」
「大変だ、娘が気絶した!」
誰かの叫び声を皮切りに、状況はさらに混沌としていく。
西園寺琴音は真夏を抱きかかえ、人波を避けるように隅へと縮こまった。
ふと見ると、わずかな時間の間に数人がその場で倒れていた。西園寺琴音は恐怖で心臓が早鐘を打つのを感じながら、腕の中の娘を必死に励ました。
「真夏、頑張って。もうすぐお医者さんが来るから!」
真夏は目を固く閉じたまま、何の反応も示さない。
「真夏、ママの声が聞こえる? 真夏!」
西園寺琴音の瞳孔が収縮し、声に悲痛な響きが混じる。震える手で娘の呼吸を確認した。
生きている。だが、呼吸はあまりにも微弱だ。このまま手遅れになれば……。
西園寺琴音は、それ以上悪い想像をするのを恐れた。
病院はパニック状態で、空きベッドなどあるはずもない。これほど強力なウイルスには、初期治療が不可欠だ。
今すぐに専属医を手配できるのは、陸奥司しかいない。
西園寺琴音は歯を食いしばり、彼に電話をかけ続けた。
耳元には患者たちの怒号と医師の叫び声、腕の中には消え入りそうな命。西園寺琴音の心は、焼けた鉄板の上に置かれたかのように焦げていた。
ようやく電話が繋がった瞬間、西園寺琴音は叫ぶように言った。
「あなた、今どこにいるの!?」
しかし、受話器の向こうから聞こえてきたのは、陸奥司の冷徹な声ではなく、二階堂瑠璃の声だった。
「琴音さん、私よ」
二階堂瑠璃の声は、ゆったりとしていた。
「司は今、席を外しているの。用件なら私が聞くわ」
西園寺琴音は焦燥に駆られた。「お願い、電話を陸奥司に代わって! すぐに専属医に連絡させてほしいの。真夏がウイルスに感染して嘔吐が止まらないのよ、一刻を争うの!」
「なんだって?」
電話の主がついに陸奥司に代わった。彼の声にもわずかな焦りが混じっている。
「真夏がどうして突然ウイルスになんか」
「説明している時間はないわ!」西園寺琴音は遮った。「私と真夏は今病院にいるけど、専属医を直接家に派遣して。症状が深刻なの、このままじゃ命に関わるわ」
陸奥司は即座に応じた。「わかった。すぐにアシスタントを向かわせる」
西園寺琴音は携帯を強く握りしめ、信じられないという表情を浮かべた。
「あなたは? あなたは来ないの?」
娘がこれほど重篤な状態なのだ。
それでも彼は、二階堂瑠璃とのパーティーを優先するというのか?
「俺は今、手が離せない。必要なものがあればアシスタントに言え」
陸奥司の冷淡な口調は、まるで氷水を頭から浴びせられたようだった。
ふと、彼女は思い出した。二階堂瑠璃が留学先から帰国したのは、西園寺琴音が妊娠した直後のことだった。
四年の結婚生活の間、二人のスキャンダルは絶えなかった。
子供たちのため、そして祖母のために、彼女はずっと耐え忍んできた。陸奥司は「あれはメディアが勝手に騒いでいるだけだ」と説明し、彼女はそれを信じた。
子供は彼にとっても一番大切な存在だと言っていた。
だが今、残酷な事実が目の前にある。
娘の命は、たかが祝賀パーティーにも劣るというのか?
なんと滑稽で、なんと皮肉なことだろう。
西園寺琴音はいつ電話が切れたのかも気づかないまま立ち尽くしていたが、すぐにシッターからの着信が入った。
「大変です、奥様! 若様がいなくなりました!」
最新チャプター
#291 第291章 彼女はもう一人ではない
最終更新: 7/8/2026#290 第290章 サプライズ
最終更新: 7/8/2026#289 第289章 あなたが楽しいことを願う
最終更新: 7/8/2026#288 第288章 告白
最終更新: 7/8/2026#287 第287章 艶めかしい
最終更新: 7/8/2026#286 第286章 無関係な元妻
最終更新: 7/8/2026#285 第285章 見つめ合う
最終更新: 7/8/2026#284 第284章 もう気にしない
最終更新: 7/8/2026#283 第283章 実の息子よりも大切?
最終更新: 7/8/2026#282 第282章 またしても稲崎秀信
最終更新: 7/8/2026
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あの女のために、何度も私を置き去りにした二人。そして今回の件で、私はようやく完全に目が覚めた。
彼らは、私の愛を受け取るに値しない。
だから私は、正式に離婚協議書を差し出した。
すると、あろうことかこの二人は、声を揃えてこう言ったのだ。
――本当に深く愛していたのは、私の方だった、と。
ふん、今さら一体、何の真似のつもりかしら。
私が去った日
けれど最後に彼が選んだのは、私ではなく、彼の初恋の女性だった。
夫は、私の心を深く傷つけただけではない。あの女が私の大切なジュエリーデザインを盗むことを許し、さらには実の息子までも操って、私を「怪物」だと思わせた。
嘘で塗り固められた結婚生活の中で、私は少しずつ自分を失っていった。
息が詰まるような日々。愛されていると思い込んでいた時間。すべてが偽りだった。
けれど、彼らはひとつだけ間違えた。
私を、もう戻れないところまで追い詰めたこと。
私が去ると決めたあの日。
私は、最低な夫も、母親への感謝を忘れた息子も、そして彼らによって壊された過去の自分も、すべて置き去りにした。
親友の支え。そして、私の本当の価値を見抜き、才能を認めてくれたある若き実業家との出会い。
その温かな手によって、私はもう一度、自分自身を取り戻した。
失った誇りを取り戻し、眠っていた才能を開花させ、世界へ羽ばたくデザイナーとして新たな人生を歩み始めた。
今、私の作品は世界の舞台で輝いている。
一方で、かつて私を捨てた男は、跪いて許しを乞う。
「戻ってきてくれ」と。
けれど、もう遅い。
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***
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私が囲っている億万長者
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お金で彼の付き添いを買い、すべてのルールを私が決め、すべてを完全に掌握しているつもりだった。
けれど、私の隣で横たわるこの男の正体は、彼が語ったものとはまるで違っていた。
魅惑的な笑顔と抗いがたい容姿の下に隠されていたのは、仇敵から身を隠す億万長者の素顔だった。
今や彼は、私の生活に、私のベッドに、そして私の心に――完全に絡みついている。
身を引くことは、彼のそばにいることよりも、もっと危険かもしれない。













