紹介
そして五年後。私はN市最強のマフィアのボスである夫と共に、A市へと帰ってきた。高級オーダーメイドの店で、かつての親友えなは、私のために作られたドレスの周りをうろつきながら、伝説の「安野夫人」に一目会えないかと店員に媚びを売っている。
彼女は知る由もない。自分が惨めな負け犬だと見下していた女が、今、必死で取り入ろうとしているその相手だということを。
チャプター 1
彩未視点
「安野奥様の車、あと十分で到着するそうよ」
「まぁ、待ちきれないわ! 公の場には滅多に姿を現さない方だものね」
「えな、シャンパンの用意は? 粗相のないようにしないと!」
高級オートクチュールの店の前。興奮に浮き足立つ声が、私の耳にも届いていた。
ガラス扉越しに、着飾った有閑マダムたちの姿が見える。ショーウィンドウの前に陣取り、リーダー格の女が店員にシャンパンや花の配置を指図していた。
尾谷えな。
かつての親友。私の結婚式でブライズメイドを務め、あまつさえ私の婚約者と寝たクズ女。
扉を押し開ける。カラン、とベルが鳴り、一斉に視線が集まった。
「申し訳ございません。本日は貸切となっておりまして」
店員は慇懃にそう告げたが、その視線はすでに私の服装を値踏みしていた。
私は構わず、ショーウィンドウの横にあるラックへと歩み寄る。
そこには、照明を浴びて柔らかな光沢を放つ銀色のドレスが掛けられていた。スワロフスキーのクリスタルが、シルクの上を流れる天の川のように煌めいている。
あれは智哉が私のためにあつらえてくれたものだ。三日後の五大名家晩餐会のために。
手を伸ばした瞬間、横から伸びてきた別の手とぶつかった。
えなは一瞬きょとんとして、こちらを向く。その表情は困惑から驚愕へ、そして急速に軽蔑へと変わっていった。
「嘘……彩未?」
ハンガーから手を離し、まるで汚いゴミでも見るかのように後ずさる。
「木葉彩未なの?」
彼女の視線が、頭のてっぺんから爪先まで私を舐めるように動く。ロゴの一切ない濃紺のウールコート。シンプルなフラットシューズ。黒のクラッチバッグ。
無理もない。彼女がそんな顔をするのも。
周囲のマダムたちも会話を止め、こちらを振り返った。私の質素な身なりを目にした途端、彼女たちの顔にも同様の表情が浮かぶ。侮蔑、好奇心、そして他人の不幸を喜ぶ下卑た笑み。
「どうしてここにいるの?」
えなは声を張り上げ、あからさまな嘲笑を浮かべた。
「清掃員の面接にでも来たわけ?」
「三年ぶりだけど、随分落ちぶれたのね」
別の女が口元を押さえて忍び笑いを漏らす。
「まともなバッグ一つ持ってないじゃない」
「警備員は何をしているのかしら。大切なゲストをお待ちしているのに、こんな貧乏人に雰囲気を壊されたら堪らないわ」
愚かな人たち。私が身につけているのはN市でも最高級のプライベートブランドによる特注品だ。けれど、ロゴまみれのブランド品しか知らない彼女たちには、その価値など理解できるはずもない。
相手にするのも馬鹿馬鹿しい。私は銀色のドレスに視線を戻し、店員に告げた。
「そのドレスを下ろしてちょうだい」
その場が、一瞬にして凍りついた。
直後、耳障りな哄笑が爆発する。
「はぁ?」
えなは涙が出るほど笑い転げている。
「彩未、頭がおかしくなったの?」
彼女は私とドレスの間に立ちはだかり、金切り声を上げた。
「それは安野奥様のための特注品なのよ! いくらするか分かってるの? あんたが一生かかっても買えない値段よ!」
私は静かに彼女を見据える。
「誰のためのものかは知っているわ。だから、下ろしてと言っているの」
えなは呆気に取られた顔をしたが、すぐにさらに大袈裟に笑い出した。彼女は取り巻きのマダムたちに向き直る。
「聞いた? 知ってるんですって! 一体何様のつもりかしら」
マダムたちが一団となって笑う。
「彩未さん、現実を見なさいよ」
一人の女が言う。
「結婚式で良知さんに捨てられて、A市中の笑い者になったじゃない。ウェディングドレス姿でウォルドルフ・アストリアから飛び出して行ったこと、みんなまだ覚えてるわよ」
「そうよ。今の生活、相当惨めなんでしょう? じゃなきゃそんな格好できないものね」
えなが近づいてくる。その目には、恵まれない者に施しを与えるような憐れみが浮かんでいた。
「彩未、昔のよしみで助け舟を出してあげる」
口調こそ優しいが、その居丈高な態度は吐き気を催すほどだ。
「良知の実家で、ちょうど人手を欲しがっているの」
「うちは重要なパーティーをいくつも控えているから。息子の面倒を見てくれる、信頼できるベビーシッターが必要なのよ」
彼女は言葉を切り、一層軽蔑の色を濃くした。
「昔から人の機嫌を取るのは得意だったじゃない? 良知の肩を揉んだり、お茶を淹れたり。子供の世話くらい、あなたならお手の物でしょう」
「住み込みで食事付き、制服も支給されるわ。路頭に迷うよりはマシでしょう?」
周囲から再び笑いが起こる。
「シッターですって? 彼女が尾谷家の敷居を跨げるわけないじゃない」
「制服? それって使用人の服でしょう。よく考えなさいよ彩未さん、そんなものを着たら二度と顔を上げて歩けないわよ」
「もっとも、元々上げる顔なんて持ち合わせてないでしょうけど」
「えなさんって本当に慈悲深いのね。私なら、こんな女が野垂れ死のうが知ったことじゃないわ」
智哉の言葉が脳裏をよぎる。
『もし誰かが君を不快にさせるようなら、教えてくれ。俺が処理する』
彼は拳銃の手入れをしながらそう言った。冷徹な瞳の奥に、一瞬だけ殺意が閃いたのを覚えている。
智哉の独占欲は恐ろしいほどに強い。もし私がここで、こんなゴミごときから侮辱を受けていると知れば、彼は彼女たちを殺すだろう。それも、じっくりと時間をかけて。
だが、彼の手を煩わせるまでもない。
私はクラッチバッグから、一枚のブラックカードを取り出した。
艶消しの黒い表面。中央には紋章がエンボス加工されている。血のように赤い薔薇を鷲掴みにする、黒き鷹の爪。
安野家の家紋だ。
その下には数字が刻まれている。『1108』。
えなの目の色が変わった。彼女はいきなり手を伸ばし、カードを奪い取ろうとする。
「どこから盗んできたのよ!」
彼女の爪が私の手の甲を掠め、赤い筋を残した。
私は眉をひそめて一歩下がり、冷静に店員へとカードを差し出した。
「偽物よ! 間違いなく偽物だわ!」
えなは金切り声を上げる。
「彩未、いい度胸ね! 安野家の証を偽造するなんて!」
彼女はマダムたちに向き直った。
「見て! 金持ちのフリをするために、こんなことまでやるなんて!」
「なんなのこれ」
一人の女が覗き込む。
「露店で十円くらいで売ってるプラスチックのカードじゃない?」
「彩未さん、ご苦労なことね。偽造カードで安野奥様になりすませるとでも思った?」
「安野家の証がどんなものか、私たちが知らないとでも? 本物の家紋は純金で作られているのよ!」
えなは勝ち誇ったように笑った。
「あんたみたいな人間が、あの方々の世界に触れられるわけないのよ」
「警備員!」
彼女は大声で叫ぶ。
「この女を叩き出して! ついでに警察も呼んで! 家紋の偽造は重罪よ!」
だが、店員はすでにカードを受け取っていた。
彼女はカードを凝視し、その目を限界まで見開いている。
そして私を見た瞬間、その顔色がさっと青ざめた。
手が激しく震え出す。指先で揺れるカードは、今にも床に落ちそうだ。
「おく……奥様……」
喉から絞り出すような声には、恐怖と畏敬が滲んでいた。
彼女は深々と、腰が直角になるほどに頭を下げる。
「少々お待ちくださいませ。た、ただいまドレスをお持ちいたします!」
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