彼は私の救いを切り捨て、死の知らせを繋いだ

彼は私の救いを切り捨て、死の知らせを繋いだ

渡り雨 · 完結 · 17.2k 文字

237
トレンド
287
閲覧数
0
追加済み
本棚に追加
読み始める
共有:facebooktwitterpinterestwhatsappreddit

紹介

土砂降りの夜、高架橋で凄惨な交通事故が発生し、遺体は市警の法医学センターに搬送された。

夫の夏川圭一郎は手袋をはめ、手慣れた様子で私の砕け散った体を検分しながら、淡々とした口調で告げる。
「記録。死亡者は女性、推定年齢25歳。死の直前、激しい衝撃を受けたとみられる」

隣にいた助手が溜め息をついた。
「お気の毒に。身寄りすらいないなんて」

その言葉が終わるか終わらないかのうちに、助手は泥まみれの私の指骨から、歪んだシルバーリングを一つ取り外した。

「先生、この指輪……先生の引き出しに放り込んであったものと、瓜二つじゃありませんか?」

夏川圭一郎の手からメスが滑り落ち、「カラン」と音を立てて床に転がった。

チャプター 1

 私の亡骸は、ストレッチャーに乗せられ、市警の冷え切った解剖室へと運び込まれた。

 実習生の林原透哉は、こみ上げる吐き気を必死に堪えながら、マスクを二重に装着する。

 私の夫、夏川圭一郎が病院から急いで戻ってきた。つい先ほどまで、彼はそこで胃を患った江原夜子に付き添っていたのだ。

 この街の筆頭監察医である夏川圭一郎は、眉間に皺を寄せ、林原透哉に無影灯を点けるよう合図を送る。

 人の生死には慣れっこなはずの彼だが、無残に損壊した私の遺体に視線を落とした瞬間、その瞳には痛ましげな光が走った。

 激しい雨に打たれ、大型トラックに轢断された私の体は、見る影もなく膨れ上がっている。

 顔面は押し潰されて原形を留めず、ただの血と肉の塊と化し、目鼻立ちなど判別しようもなかった。

 全身至る所が傷口で覆われ、泥にまみれた長い髪の数房だけが、かろうじて引き裂かれた頭皮に繋がっている。

 辺りの空気には、鼻を突く強烈な血の匂いと腐臭が充満していた。

 夏川圭一郎は目を閉じ、一つ大きく息を吐き出すと、ゴム手袋を装着して予備検視に取り掛かった。

 私の体を見つめる彼の眼差しには、彼にしては珍しい、憐憫と沈痛の色が浮かんでいる。

 生前、私が彼からこれほど優しい眼差しを向けられたことなど、一度たりともなかったというのに。

 彼は綿球を手に取ると、私の耳の後ろにこびりついた血汚れをそっと拭い取る。その手つきは、すでに感覚を失ったこの肉体を痛がらせまいと気遣うかのように、あまりにも丁寧だった。

「被害者は、さぞ苦しかっただろう」

 夏川圭一郎は低い声で呟く。その響きには、死者への敬意と悼みが込められていた。

「まだ若い。こんな無残な逝き方をして……彼女の夫や家族は、どれほど胸を痛めることか」

 彼は小さく嘆息し、顔を寄せると、私の頸部にある損傷を丹念に観察し始めた。

 私は夏川圭一郎の瞳を食い入るように見つめた。心のどこかで、まだ縋るような淡い期待を抱いていたのだ。

 夏川圭一郎、私たちは三年もの間、同じベッドで眠ってきたのよ。

 たとえ顔が潰れていても、耳たぶにある小さな黒子、鎖骨に残る火傷の痕、それくらいは覚えているでしょう?

 夏川圭一郎が顔を近づける。

 彼の視線が、遺体の側頸部と鎖骨の上を滑り――そこで二秒、止まった。

 そこに疑念の色など微塵もない。彼はただ顔を上げ、事務的な口調で林原透哉に告げた。

「記録してくれ。左耳垂下部に色素沈着、鎖骨部に陳旧性瘢痕あり。これらは後々、身元特定のための重要な所見となる」

 そう言うと、彼は乱れた私の髪を優しく撫でつけ、同情に満ちた眼差しを向けた。

「不憫な娘だ」

 その瞬間、私の瞳から光が完全に消え失せた。

 かつて彼が口づけを落とした黒子も、指先で愛撫した傷痕も、今の彼にとっては、この「哀れな身元不明遺体」を識別するための、冷ややかな記号に過ぎなかったのだ。

 傍らで林原透哉が小声で囁く。

「先生、あまりに惨すぎますね。ご家族とは連絡が?」

 夏川圭一郎は首を横に振り、憂いを帯びた表情を見せた。

「まだだ。早く遺族が見つかればいいのだが。そうすれば、彼女も早く安らかになれるだろう」

 死してなお、私は彼を煩わせている。

 ただ今回ばかりは、赤の他人に対する彼の善意ゆえだった。

 その時、優雅な『エリーゼのために』の旋律が静寂を破った。

 それは夏川圭一郎のプライベート携帯であり、江原夜子のためだけに設定された着信音だった。

 通話ボタンを押した瞬間、彼の声色は甘く蕩けるようなものへと一変する。

「夜子、大丈夫だ。僕がついている」

 電話の向こうから、涙声の江原夜子が私の名前を口にするのが微かに聞こえた。

 夏川圭一郎の表情が瞬時に凍りつく。先ほどまで死者に向けられていた温情は、跡形もなく消え去っていた。

「五百川瑞穂? その名を出すな、胸糞悪い」

「昨日は夜子の誕生日だというのに、嫌がらせの電話をかけてきやがって。今度は気を引くために失踪ごっこか」

「夜子、君は優しすぎるんだ。あんな女、ゴキブリみたいにしぶといさ」

「五百川瑞穂は数日帰ってきていない。どうせ、どこぞの路地裏でくたばってるんじゃないか。恩知らずな女だ、外で死んでくれたほうが、顔を見なくて済む分せいせいする」

 夫の吐き捨てた呪詛を耳にして、私は骨の髄まで凍りつくような寒さを感じた。

 夏川圭一郎。帰りたくないわけじゃないの。

 私は本当に……もう二度と、帰ることができないのよ。

 あなたが疎んじているその妻は、あなたが江原夜子の誕生日を祝っていたあの日、息を引き取ったの。

 ほら、私の体は今――あなたの目の前にあるじゃない。

最新チャプター

おすすめ 😍

偽物令嬢のはずが、実家はまさかの兆円財閥!

偽物令嬢のはずが、実家はまさかの兆円財閥!

156.7k 閲覧数 · 連載中 · 蛙坂下道
中島夏美は中島家で十八年間お嬢様として過ごしてきた。聡明で向学心に富み、W市の令嬢の鑑として、中島家の名声を大いに高めた。
しかし、成人を迎える矢先に、自分が両親の実の娘ではないと告げられた。
生まれた時に、取り違えられていたのだ!
中島家はすぐに実の娘、中島結子を探し出した。
中島結子は表向きはか弱く善良だが、裏ではことあるごとに彼女を陥れた。
 例えば今回、中島夏美が水に落ちたのも中島結子が仕組んだことだった。
前の人生では、彼女は本当に中島結子が過失でやったのだと信じ、あっさりと許してしまった。
まさか、中島結子がその後、ますますエスカレートしていくとは。
中島夏美が持っていたすべて――家族、友人、仕事、チャンス。
彼女はそれを破壊し、奪い取ろうとした!
不倫夫を捨てた夜、私は新しい彼に抱かれる

不倫夫を捨てた夜、私は新しい彼に抱かれる

165.9k 閲覧数 · 連載中 · 七海
初恋から結婚まで、片時も離れなかった私たち。
しかし結婚7年目、夫は秘書との不倫に溺れた。

私の誕生日に愛人と旅行に行き、結婚記念日にはあろうことか、私たちの寝室で彼女を抱いた夫。
心が壊れた私は、彼を騙して離婚届にサインをさせた。

「どうせ俺から離れられないだろう」
そう高をくくっていた夫の顔に、受理された離婚届を叩きつける。

「今この瞬間から、私の人生から消え失せて!」

初めて焦燥に駆られ、すがりついてくる夫。
その夜、鳴り止まない私のスマホに出たのは、新しい恋人の彼だった。

「知らないのか?」
受話器の向こうで、彼は低く笑った。
「良き元カレというのは、死人のように静かなものだよ?」

「彼女を出せ!」と激昂する元夫に、彼は冷たく言い放つ。

「それは無理だね」
私の寝顔に優しくキスを落としながら、彼は勝ち誇ったように告げた。
「彼女はクタクタになって、さっき眠ってしまったから」
山奥に置き去りにされたので、夫も息子も捨てて「天才科学者」に戻る

山奥に置き去りにされたので、夫も息子も捨てて「天才科学者」に戻る

111.7k 閲覧数 · 連載中 · 68拓海
家族でのキャンプ中、彼女は山奥に一人、置き去りにされた。
夫と息子が、怪我をした「あの女」を病院へ運ぶために、彼女を見捨てて車を出したからだ。

命からがら自力で帰宅した彼女を待っていたのは、同じく家で放置され、怯えていた幼い娘の姿だった。
その瞬間、彼女の中で何かが壊れ、そして決意が固まる。

「あなたたちには失望しました。離婚させていただきます」

夫と、彼に懐く息子に別れを告げ、彼女は家庭という檻を出た。
世間は彼女を「哀れなバツイチ」と笑うかもしれない。
だが、誰も知らなかった。彼女がかつて、科学界で名を馳せた稀代の天才研究者であることを。

あるベンチャー企業の社長にその才能を見出された彼女は、夢の技術「空飛ぶ車」の開発プロジェクトを主導することに。
かつての夫が復縁を迫り、愛人が卑劣な罠を仕掛けてきても、もう彼女は止まらない。

愛する娘を守るため、そして自分自身の輝きを取り戻すため。
捨てられた妻の、華麗なる逆転劇が今、始まる!
社長、奥様が亡くなりました。ご愁傷様です

社長、奥様が亡くなりました。ご愁傷様です

156.6k 閲覧数 · 連載中 · 青凪
お金と特権に囲まれて育った私。完璧な人生に疑問を持つことすらなかった。

そんな私の前に彼が現れた―
聡明で、私を守ってくれる、献身的な男性として。

しかし、私は知らなかった。
私たちの出会いは決して偶然ではなかったことを。
彼の笑顔も、仕草も、共に過ごした一瞬一瞬が、
全て父への復讐のために緻密に計画されていたことを。

「こんな結末になるはずじゃなかった。お前が諦めたんだ。
離婚は法的な別れに過ぎない。この先、他の男と生きることは許さない」

あの夜のことを思い出す。
冷水を浴びせられた後、彼は私に去りたいかと尋ねた。
「覚えているか?お前は言ったんだ―『死以外に、私たちを引き離せるものはない』とね」

薄暗い光の中、影を落とした彼の顔を見つめながら、
私は現実感を失いかけていた。
「もし...私が本当に死んでしまったら?」
溺愛令嬢の正体は、まさかの霊能界トップ!?

溺愛令嬢の正体は、まさかの霊能界トップ!?

205.6k 閲覧数 · 連載中 · 朝霧祈
原口家に取り違えられた本物のお嬢様・原田麻友は、ようやく本家の原田家に戻された。
──が、彼女は社交界に背を向け、「配信者」として自由気ままに活動を始める。
江城市の上流社会はこぞって彼女の失敗を待ち構えていた。
だが、待てど暮らせど笑い話は聞こえてこない。
代わりに、次々と大物たちが彼女の配信に押しかけてくるのだった。
「マスター、俺の命を救ってくれ!」──某財閥の若社長
「マスター、厄介な女運を断ち切って!」──人気俳優
「マスター、研究所の風水を見てほしい!」──天才科学者
そして、ひときわ怪しい声が囁く。
「……まゆ、俺の嫁だろ? ギュってさせろ。」
視聴者たち:「なんであの人だけ扱いが違うの!?」
原田麻友:「……私も知りたいわ。」
転生して、家族全員に跪いて懺悔させる

転生して、家族全員に跪いて懺悔させる

247k 閲覧数 · 連載中 · 青凪
婚約者が浮気していたなんて、しかもその相手が私の実の妹だったなんて!
婚約者にも妹にも裏切られた私。
さらに悲惨なことに、二人は私の手足を切り落とし、舌を抜き、目の前で体を重ね、そして私を残酷に殺したのです!
骨の髄まで憎い...
しかし幸いなことに、運命の糸が絡み合い、私は蘇ったのです!
二度目の人生、今度は自分のために生き、芸能界の女王になってみせる!
復讐を果たす!
かつて私をいじめ、傷つけた者たちには、十倍の報いを受けさせてやる...
出所したら、植物状態の大富豪と電撃結婚しました。

出所したら、植物状態の大富豪と電撃結婚しました。

169.4k 閲覧数 · 連載中 · 青凪
5年前、私は誰かの身代わりとなり、無実の罪で投獄された。
出所すると、母親は私が獄中で産んだ二人の子供を盾に、植物状態にある億万長者との結婚を強いる。
時を同じくして、その悲劇の大富豪もまた、家族内での権力闘争の渦中にいた。

街では植物状態の男が若い花嫁とどう初夜を過ごすのかと噂される中、この元囚人が並外れた医療技術を秘めていることなど、誰も予想だにしなかった。
夜が更け、無数の銀鍼(ぎんしん)が打たれた男の腕が、静かに震え始める…

こうして、元囚人の彼女と植物状態の夫との、予期せぬ愛の物語が幕を開ける。
さようなら、愛してくれない家族たち。地味な専業主婦は研究界の女王へと覚醒する

さようなら、愛してくれない家族たち。地味な専業主婦は研究界の女王へと覚醒する

141.1k 閲覧数 · 連載中 · 86拓海
「君よりも、彼女のほうが母親にふさわしい」
愛する夫と子供たちにそう言われ、私は家庭内での居場所を失った。
六年間、身を粉にして尽くしてきた日々は、何の意味もなかったのだ。

絶望の中で目にしたのは、かつて母が手にした科学界の最高栄誉であるトロフィー。
その輝きが、私に本来の自分を思い出させた。

私はエプロンを脱ぎ捨て、白衣を纏う。
もう誰かの妻でも、母でもない。一人の科学者として、世界を驚かせるために。

数々の賞を総なめにし、頂点に立った私を見て、元夫は顔面蒼白で崩れ落ちた。
震える声で私の名前を呼び、足元に縋り付く彼。

「行かないでくれ……君がいないと、俺は……」

かつて私を見下していたその瞳が、今は絶望と後悔に染まっていた。
社長、突然の三つ子ができました!

社長、突然の三つ子ができました!

73.8k 閲覧数 · 連載中 · キノコ屋
五年前、私は継姉に薬を盛られた。学費に迫られ、私は全てを飲み込んだ。彼の熱い息が耳元に触れ、荒い指先が腿を撫でるたび、震えるような快感が走った。

あの忌まわしい夜から逃げるように去った私だったが、ほどなくして三つ子を妊娠していることに気付く。

五年後、医療界の新星として戻ってきた私は、継母、継姉、実の父へ全ての仕返しを誓う。

その時、彼が現れた。三人の小さな自分そっくりの顔をじっと見つめながら、優しく「パパ」と呼ぶよう子供たちを誘う彼。

ふとシャツのボタンを外し、悪戯っぽく笑って言った――

「どうだい、あの夜の熱をもう一度味わってみないか?」
不倫夫を捨て、私は大富豪の妻になる

不倫夫を捨て、私は大富豪の妻になる

91.8k 閲覧数 · 連載中 · 七海
人生最良の日になるはずだった、結婚式当日。
新郎の車から出てきたのは、見知らぬ女の派手なレースの下着だった。

しかも、その布切れにはまだ。生々しい情事の痕跡が残されていた。

吐き気がするほどの裏切り。
幸せの絶頂から地獄へと突き落とされた私。

けれど、泣き寝入りなんてしてやらない。
私はその場でウェディングドレスの裾を翻し、決意した。

「こんな汚らわしい男は捨ててやる」

私が選んだ次の相手は、彼など足元にも及ばない世界的な億万長者で?
逃げる秘書の資産は三千億!?急げ、社長!

逃げる秘書の資産は三千億!?急げ、社長!

73.1k 閲覧数 · 連載中 · 神楽坂奏
十年前、中林真由の母親が腎臓移植を必要としたが、家には手術費を工面する金がなく、挙句の果てに家まで叔父一家に乗っ取られた。
少しでも多くのお金を稼ぐため、彼女は高級クラブでウェイトレスとして働き始めた。
女があまりに美しく、誰も守ってくれる者がいない時、その美しさは原罪となる。
初出勤の日、彼女は危うく猥褻行為の被害に遭いかけた。
男たちが彼女を取り囲み、卑猥な視線をその身に注ぐ。
クラブの金持ちたちは、彼女のような世間知らずの子羊を見つけ出すのが実にうまかった。
彼女が最も惨めなその時、今野敦史が現れた。
この十年、彼女はずっと今野敦史の傍にいた。
友人たちも、家族も、皆が今野敦史を知っていて、二人が付き合っていると思い込んでいる。
でも、今まで彼の周りには女が絶えなかったじゃない。それが今、「ついに運命の相手を見つけた」なんて言ってるの。
今、ようやく彼から離れる機会を得たというのに、どうして手放せようか。
天使な双子の恋のキューピッド

天使な双子の恋のキューピッド

87.3k 閲覧数 · 連載中 · 鯨井
妊娠中の私を裏切った夫。不倫相手の策略に陥れられ、夫からの信頼も失い、耐え難い屈辱を味わった日々...。

しかし、私は決して諦めなかった。離婚を決意し、シングルマザーとして懸命に子育てをしながら、自分の道を切り開いていった。そして今や、誰もが認める成功者となった。

そんな時、かつての夫が後悔の涙とともに現れ、復縁を懇願してきた。

私の答えはただ一言。
「消えなさい」