彼らがケーキを切っているあいだ、私は死んでいた

彼らがケーキを切っているあいだ、私は死んでいた

渡り雨 · 完結 · 20.1k 文字

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紹介

私が物置に閉じ込められ、血を流して死んでいく間、婚約者の池谷平良(いけや たいら)は私の妹の手を握り、彼女を慰めていた。

彼は、私の最後の助けを求める電話を一方的に切り、留守電にこう残した。「もし優樹(ゆうき)に何かあったら、婚約は破棄だ」と。

妹はかつて、自分の誕生日の願いはずっと「お姉ちゃんが消えること」だと言っていた。

その夜、彼女の願いは少し早く叶えられた。

けれど、私の魂は決してこの場を離れなかった。

私は、皆が妹を囲んでバースデーソングを歌うのを眺めていた。

そして、彼女が蝋燭の火を吹き消した、その瞬間。私は彼女の耳元で囁いた。

「せいぜい楽しむといいわ。それが、あなたの最後の誕生日になるのだから」

チャプター 1

 深夜23時、家族の笑い声で私の魂は呼び覚まされた。

 彼らはようやく、妹の誕生日パーティーから帰ってきたのだ。

 兄の直人が階段を駆け上がり、私の寝室のドアを激しく叩く。

「友佳! 寝たふりはやめろ! 早く出てこい。優樹が蝋燭を吹き消すのを待ってるんだぞ」

 しばらく待っても返事がないと悟ると、直人は強引にドアを押し開けて踏み込んできた。オーダーメイドのスーツに身を包み、ネクタイも完璧に結んでいるが、その顔には隠しきれない苛立ちが張り付いている。

 返事をしたかった。ここにいると、部屋の隅にいると伝えたかった。けれど、声が出ない。私はただ宙に浮き、彼が入ってくるのを無力に見つめることしかできなかった。

「まだ寝たふりを続ける気か?」

 直人は大股でベッドに近づく。

「今夜は優樹の成人祝いだぞ。明日まで寝て過ごすつもりなんて言うなよ」

 彼が勢いよく布団を捲り上げる。ベッドの上は、もぬけの殻だった。

 そこにあるのは、枕元に置かれた古びたぬいぐるみと、一冊のノートだけ。ノートの表紙には、黒いインクで数字が書かれている。『88』と。

 直人は一瞬動きを止め、ノートを手に取り、適当に数ページめくった。

 眉間に皺が寄るのが見えた。だが、それはほんの一瞬のこと。次の瞬間、彼はノートをベッドに放り投げた。

「また訳のわからない儀式か?」

 彼は舌打ち交じりに呟くと、スマートフォンを取り出し、私の番号に発信した。

 どこかで着信音が鳴っている。だが、誰も出ない。

 直人は留守番電話に向かって声を荒らげた。

「パーティーに来なかったのは百歩譲って許す。だがな、今は家族全員で優樹の誕生日を祝おうって、ケーキ入刀を待ってるんだぞ。この期に及んで失踪ごっこか?」

「癇癪を起こすなら時と場合を選べ。1時間だけ待ってやる。それまでに戻らなければ、二度と敷居を跨ぐな!」

 彼は通話を切り、踵を返して部屋を出て行った。

 私はその場に漂いながら、廊下の突き当たりに消えていく彼の背中を見送った。

 もし彼があのノートにもう少し目を向けていたら。あの『88回』の記録を真剣に読んでくれていたら、何か違っていたのだろうか。

 けれど、彼はそうしなかった。彼が私という人間を、一度も真に直視しなかったのと同じように。

 階下から楽しげな笑い声が響いてくる。

 私の魂は吸い寄せられるように広間へと漂っていった。そこは煌びやかな照明に照らされ、ピンクとゴールドのバルーンで華やかに飾り付けられている。

 江村家の広間がこれほど賑わったことはかつてなかった。

「部屋にはいないし、電話にも出ねえ」

 直人は広間に戻るなり、忌々しげに言った。

「またどっかに隠れてやがるんだろ」

 父の宗一郎が手にしたワイングラスを置く。あつらえたスーツを着こなし、髪を完璧に撫でつけた彼は、いつもの冷徹な表情を崩さない。

「放っておけ」

 父は冷たく言い放つ。

「あいつを甘やかしすぎたんだ。先に優樹のケーキを切ろう。頭を冷やさせればいい」

 母の美紀子も頷いたが、優樹――私の妹――が突然、母の手を握りしめた。

「ママ」

 優樹の瞳が涙で潤む。

「お姉ちゃんをもう少し待ってあげられないかな?」

 その声は柔らかく、優しさに満ち、顔には姉を案じる表情が浮かんでいる。

 もし私が彼女の本性を知らなければ、本当に心配してくれているのだと信じてしまったかもしれない。

 美紀子は優樹の肩を抱き寄せ、その手を優しく叩いた。

「あなたは本当に優しすぎるわ」

 母は慈しむように言う。

「友佳のくだらない癇癪なんて、あなたには関係ないのよ。あの子はただ、あなたが幸せになるのが面白くないだけなんだから」

 私は天井の下を漂いながら、この“温かい”家族の団欒を見下ろしていた。

 口元に、自然と皮肉な笑みが浮かぶ。

 悲しみでも、怒りでもない。ただ純粋な皮肉。

「お姉ちゃんにメールしてみる」

 優樹がスマートフォンに視線を落とすのが見えた。彼女の指が画面の上を高速で滑る。

『あのクズどものサービスはどうだった? またどっかの男のベッドに潜り込んでるんでしょ? パーティーは最高よ、空気を読んで欠席してくれて感謝してるわ。そのまま消えて』

 だが、優樹はすぐにそれを削除した。

 彼女は打ち直す。今度の内容は、まったく別のものだ。

『お姉ちゃん、どこにいるの? みんな心配して死にそうだよ。私、何か怒らせちゃったかな? 謝るから、早く戻ってきて』

 彼女はスマートフォンを掲げ、両親に見せた。

「見て」

 優樹の声が泣き声に変わる。

「お姉ちゃんに何回もメッセージ送ってるのに、全然返事がなくて……」

 美紀子は画面を一瞥すると、より一層愛おしそうに娘を抱きしめた。

 宗一郎は鼻を鳴らすだけだ。

「わざとだろう。構うな」

 私は半空に浮かび、冷めた目でそのすべてを眺めていた。

 今日は、私が『家族栄誉章』を受け取るはずの日だった。その賞は毎年ただ一人、一族の中で最も優秀な功績を挙げた者に授与される。

 私は三年の歳月を費やし、数え切れないほどの徹夜を重ね、審査委員会に完璧な事業計画書を提出した。

 授賞式の日程を知らされた時、私は自ら「式への出席は不要だ」と告げた。

 あいにく、その日は優樹の成人式と重なっていたからだ。

 けれど、いざその時が近づくと、やはり期待してしまっていた。

 数時間前、私は寝室の鏡の前に立ち、授賞式のために用意したロングドレスに袖を通した。

 鏡の中の私は落ち着いて見えたが、手は震えていた。

 あの瞬間を夢見ていたのだ。壇上に立ち、あのずっしりと重い勲章を受け取る瞬間を。たとえ家族がそこにいなくても、少なくともその瞬間だけは、私の努力が認められるはずだった。

 私はスマートフォンを手に取り、最後に家族のグループチャットを確認した。

 そこは、優樹の成人式の話題で埋め尽くされていた。

『ホテルの宴会場、準備完了よ。ピンクがテーマ、きっと優樹も気に入るわ』

『花の手配も済んだ。直人、仕事が終わったら早く帰ってきなさい』

『了解。早めに戻って手伝うよ』

 誰も、私のことには触れていない。

 誰も、今日私がどうしているかなど聞きもしない。

 私は画面を消し、深く息を吸って、部屋を出ようとした。

 裏庭へ出た瞬間、倉庫のドアが乱暴に開かれた。

 そこから三人の見知らぬ男たちが飛び出してきたのだ。

 反応する暇もなく、私は倉庫の中へと引きずり込まれた。

「あなたたち――」

 私は必死に抵抗した。

「どうしてこの屋敷のセキュリティキーを持ってるの!?」

 リーダー格の男が、私の目の前でキーホルダーをぶら下げて見せた。

 それは優樹専用のキーホルダーだった。ピンク色で、彼女のイニシャルのチャームが付いている。

「無駄な抵抗はやめな」

 男が下卑た笑みを浮かべる。

「たっぷり楽しませてもらうぜ」

 私は叫び、暴れ、必死で逃げようとした。

「やめて……」声が震える。

「お願い、死にたくない……」

 返ってきたのは、暴力だけだった。

 地面に押し付けられ、ドレスが引き裂かれる音がし、首筋に激痛が走る。フラッシュが絶え間なく焚かれ、彼らの汚らわしい哄笑が耳元で反響する。

 必死の抵抗の中、指先がポケットの中のボイスレコーダーに触れた。重要な瞬間を記録するのが、私の長年の癖だった。

 私はボタンを押し込んだ。せめて、証拠だけは残さなければ。

 最後の一撃を加えようと身を捩った時、私の後頭部が金属製の棚の角に激しく打ち付けられた。

 生温かい液体が、頭から流れ落ちていく。

 痛みで視界が歪み、急速に暗転していく。

 男たちが狼狽する声が聞こえた。

「おい、血が出てんぞ!」

「やべえ、ずらかるぞ!」

「優樹は殺すなと言ってただろ!」

 彼らは逃げ去った。

 血の海に沈む私を一人残して。

 私は最後の力を振り絞り、床に落ちたスマートフォンへと這っていった。

 震える指で電源ボタンを5回連打する。緊急SOSが起動した。

 スマートフォンが自動的に緊急連絡先へ救難信号と位置情報を送信し始める。

 最初に鳴ったのは、母の携帯だった。

 母の反応が手に取るようにわかる。彼女は着信画面を見て、眉をひそめたはずだ。

「また友佳の狂言よ」

 彼女は宗一郎にそう言って、通話を切った。

 そして、一通のメッセージが届く。

『また優樹の邪魔をする気? もううんざりよ!』

『今日は妹の大切な日なんだから、水を差さないで! 今すぐ緊急連絡先からあなたを削除するわ!』

 スマートフォンは次の番号にかけ続ける。

 父だ。彼もすぐに切った。

 次は直人。

 彼は電話に出たが、一言だけ告げた。

「その手口は見飽きたんだよ。いい加減にしろ」

 最後に、スマートフォンは英介の番号を呼び出した。

 私の婚約者。

「英介……」

 私は消え入りそうな声で訴えた。

「助けて……私は……倉庫に……」

「いい加減にしろ、友佳」

 英介の声は氷のように冷たく、不機嫌だった。

「その手はもう古いんだよ。今夜は優樹が主役だ。安い芝居はやめてくれ! 埋め合わせのプレゼントはするって約束しただろ!」

 彼は電話を切り、私が送った位置情報を無造作に削除した。

 スマートフォンの画面が暗転する。

 冷たい床の上、体から溢れ出した血液が広がり、暗赤色の湖を作っていく。

 意識が霧散していく。

 一日も経てば、あの倉庫から腐敗臭が漏れ出してくるだろう。

 優樹はかつて誕生日に、自分の願いを教えてくれたことがある。私がこの世から消えてほしい、と。

 そうすれば、両親の愛をすべて独り占めできるから。

 今夜、彼女の願いは予定より早く叶ったのだ。

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