彼は私の救いを切り捨て、死の知らせを繋いだ

彼は私の救いを切り捨て、死の知らせを繋いだ

渡り雨 · 完結 · 17.2k 文字

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紹介

土砂降りの夜、高架橋で凄惨な交通事故が発生し、遺体は市警の法医学センターに搬送された。

夫の夏川圭一郎は手袋をはめ、手慣れた様子で私の砕け散った体を検分しながら、淡々とした口調で告げる。
「記録。死亡者は女性、推定年齢25歳。死の直前、激しい衝撃を受けたとみられる」

隣にいた助手が溜め息をついた。
「お気の毒に。身寄りすらいないなんて」

その言葉が終わるか終わらないかのうちに、助手は泥まみれの私の指骨から、歪んだシルバーリングを一つ取り外した。

「先生、この指輪……先生の引き出しに放り込んであったものと、瓜二つじゃありませんか?」

夏川圭一郎の手からメスが滑り落ち、「カラン」と音を立てて床に転がった。

チャプター 1

 私の亡骸は、ストレッチャーに乗せられ、市警の冷え切った解剖室へと運び込まれた。

 実習生の林原透哉は、こみ上げる吐き気を必死に堪えながら、マスクを二重に装着する。

 私の夫、夏川圭一郎が病院から急いで戻ってきた。つい先ほどまで、彼はそこで胃を患った江原夜子に付き添っていたのだ。

 この街の筆頭監察医である夏川圭一郎は、眉間に皺を寄せ、林原透哉に無影灯を点けるよう合図を送る。

 人の生死には慣れっこなはずの彼だが、無残に損壊した私の遺体に視線を落とした瞬間、その瞳には痛ましげな光が走った。

 激しい雨に打たれ、大型トラックに轢断された私の体は、見る影もなく膨れ上がっている。

 顔面は押し潰されて原形を留めず、ただの血と肉の塊と化し、目鼻立ちなど判別しようもなかった。

 全身至る所が傷口で覆われ、泥にまみれた長い髪の数房だけが、かろうじて引き裂かれた頭皮に繋がっている。

 辺りの空気には、鼻を突く強烈な血の匂いと腐臭が充満していた。

 夏川圭一郎は目を閉じ、一つ大きく息を吐き出すと、ゴム手袋を装着して予備検視に取り掛かった。

 私の体を見つめる彼の眼差しには、彼にしては珍しい、憐憫と沈痛の色が浮かんでいる。

 生前、私が彼からこれほど優しい眼差しを向けられたことなど、一度たりともなかったというのに。

 彼は綿球を手に取ると、私の耳の後ろにこびりついた血汚れをそっと拭い取る。その手つきは、すでに感覚を失ったこの肉体を痛がらせまいと気遣うかのように、あまりにも丁寧だった。

「被害者は、さぞ苦しかっただろう」

 夏川圭一郎は低い声で呟く。その響きには、死者への敬意と悼みが込められていた。

「まだ若い。こんな無残な逝き方をして……彼女の夫や家族は、どれほど胸を痛めることか」

 彼は小さく嘆息し、顔を寄せると、私の頸部にある損傷を丹念に観察し始めた。

 私は夏川圭一郎の瞳を食い入るように見つめた。心のどこかで、まだ縋るような淡い期待を抱いていたのだ。

 夏川圭一郎、私たちは三年もの間、同じベッドで眠ってきたのよ。

 たとえ顔が潰れていても、耳たぶにある小さな黒子、鎖骨に残る火傷の痕、それくらいは覚えているでしょう?

 夏川圭一郎が顔を近づける。

 彼の視線が、遺体の側頸部と鎖骨の上を滑り――そこで二秒、止まった。

 そこに疑念の色など微塵もない。彼はただ顔を上げ、事務的な口調で林原透哉に告げた。

「記録してくれ。左耳垂下部に色素沈着、鎖骨部に陳旧性瘢痕あり。これらは後々、身元特定のための重要な所見となる」

 そう言うと、彼は乱れた私の髪を優しく撫でつけ、同情に満ちた眼差しを向けた。

「不憫な娘だ」

 その瞬間、私の瞳から光が完全に消え失せた。

 かつて彼が口づけを落とした黒子も、指先で愛撫した傷痕も、今の彼にとっては、この「哀れな身元不明遺体」を識別するための、冷ややかな記号に過ぎなかったのだ。

 傍らで林原透哉が小声で囁く。

「先生、あまりに惨すぎますね。ご家族とは連絡が?」

 夏川圭一郎は首を横に振り、憂いを帯びた表情を見せた。

「まだだ。早く遺族が見つかればいいのだが。そうすれば、彼女も早く安らかになれるだろう」

 死してなお、私は彼を煩わせている。

 ただ今回ばかりは、赤の他人に対する彼の善意ゆえだった。

 その時、優雅な『エリーゼのために』の旋律が静寂を破った。

 それは夏川圭一郎のプライベート携帯であり、江原夜子のためだけに設定された着信音だった。

 通話ボタンを押した瞬間、彼の声色は甘く蕩けるようなものへと一変する。

「夜子、大丈夫だ。僕がついている」

 電話の向こうから、涙声の江原夜子が私の名前を口にするのが微かに聞こえた。

 夏川圭一郎の表情が瞬時に凍りつく。先ほどまで死者に向けられていた温情は、跡形もなく消え去っていた。

「五百川瑞穂? その名を出すな、胸糞悪い」

「昨日は夜子の誕生日だというのに、嫌がらせの電話をかけてきやがって。今度は気を引くために失踪ごっこか」

「夜子、君は優しすぎるんだ。あんな女、ゴキブリみたいにしぶといさ」

「五百川瑞穂は数日帰ってきていない。どうせ、どこぞの路地裏でくたばってるんじゃないか。恩知らずな女だ、外で死んでくれたほうが、顔を見なくて済む分せいせいする」

 夫の吐き捨てた呪詛を耳にして、私は骨の髄まで凍りつくような寒さを感じた。

 夏川圭一郎。帰りたくないわけじゃないの。

 私は本当に……もう二度と、帰ることができないのよ。

 あなたが疎んじているその妻は、あなたが江原夜子の誕生日を祝っていたあの日、息を引き取ったの。

 ほら、私の体は今――あなたの目の前にあるじゃない。

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(この小説を軽い気持ちで開くなよ。三日三晩も読み続けちゃうから…)