紹介
長年、私は彼の「透明な妻」だった。
彼の不始末を片付け、冷徹さに耐え、他の女を愛する姿をただ見つめてきた。
命の期限を知った今、私が望むのは彼との未来ではなく、ただ自分を取り戻す自由だけ。
なのに突然、彼は私を離そうとしなくなった。私の好物を思い出し、まるで最後の宝物であるかのように必死に守り、低く掠れた声で「行かないでくれ」と乞う。
でも、もう遅すぎる。
壊れた心は二度と戻らないし、残されたわずかな時間、愛だけではもう私を救えない。
チャプター 1
「今すぐ入院して治療を始めなさい! これは胃癌の末期だ。このまま先延ばしにしたら、3か月も持たない! 仕事が命より大事なのか? その仕事がなくなったなら次を探せばいい。でも命をなくしたら、本当にそれで終わりなんだぞ!」
浅沢瑶は一瞬だけ呆然とし、目の前の医師――遠藤毅を見つめて、ゆっくりと首を横に振った。
できない。
遠藤毅にはわからない。彼女がこの仕事にしがみついているのは、すべて、あの人のためだった。
あの人のためなら、命だって惜しくない。
彼は彼女の直属の上司であり、そして夫でもある。長いあいだ胸の奥で想い続け、大切にしまいこんできた男――盛岡晃。
夫婦ではある。けれど彼は人前で一度たりとも彼女との関係を認めたことがなかった。会社では誰もが彼を華やかな独身貴族だと思っていて、自分という妻の存在など、誰ひとり知らない。
「遠藤先生」
浅沢瑶は顔色をなくし、ひどく弱々しい声で言った。
「今回の件が終わったら、もう来ません」
「何を言ってるんだ!」
遠藤毅は焦りと苛立ちをにじませたが、それでも自分の言葉では彼女を止められないとわかっていた。彼は携帯を取り出して浅沢瑶の連絡先を追加し、個人の電話番号も送る。
「助けが必要になったら、いつでも連絡してくれ。時間は気にしなくていい」
「はい」
浅沢瑶は感謝を込めてうなずき、逆に彼を安心させるように微笑んだ。
「ちゃんと自分で気をつけます。もし3か月後も私がまだ死んでいなかったら、そのときは先生と一緒に海外で治療を受けます」
そう言ってスマホをしまおうとした瞬間、着信音が鳴った。
表示された名前は――盛岡社長。
その文字を見た途端、浅沢瑶の死んだような目に、一瞬だけ光が差したのを、遠藤毅は見逃さなかった。
「盛岡社長、どうなさいましたか?」
彼女は慌てて電話に出る。動作はせかせかと、声には隠しきれない期待がにじんでいた。
『どこに行った?』
受話器の向こうから聞こえてきた男の声は、薄く冷たかった。感情のかけらもない。
その冷えきった声音に刺されるように、浅沢瑶は小さく息をのんだ。
「わ、私……少し用事があって、お休みをいただいていました」
『今すぐ取り消せ。1時間以内にヴァイスリゾートホテルへ来い』
事務的を通り越して無慈悲な口調だった。
『俺と宇佐美萌がパパラッチに囲まれている』
遠藤毅には、電話の相手が何を言ったのかまではわからなかった。ただひとつ、浅沢瑶の目の中の光が、完全に消えたのだけはわかった。
その直後、彼女は慌ただしく病衣を脱ぎ、病院を後にした。
ホテルへ向かう車中、浅沢瑶はまず会社へ電話を入れ、秘書に緊急危機対応の発動を指示した。PRチームを連れてホテルで待機するよう伝え、それから自分とつながりの深い提携メディアにも次々連絡を取る。いつでも動けるように、と。
45分もかからず、彼女はホテルへ到着した。盛岡晃の特別秘書が、1階ロビーでルームカードを手に待っている。
浅沢瑶は無表情のままカードを受け取ると、そのまま大股でエレベーターへ向かった。道中は慌ただしく、心はすでに痛みすぎて、とうに麻痺していた。
部屋番号は6908。
ハネムーン仕様のプレジデンシャルスイート。
彼女はルームカードを握ったまま、ドアの前で1分ほど心を整え、それから静かに、けれどきちんとノックした。
「盛岡社長、私です。PRチームの準備は整っています」
自分の声が聞こえる。落ち着いていて、いかにも仕事のできる部下の声だった。
痛みも、苦さも、全部心の底に押し込めて。
しばらくして、ドアが内側へ開いた。
現れたのは宇佐美萌だった。ベッドから起きたばかりなのだろう。ガウンは中途半端に羽織られていて、中のセクシーなキャミソール型のネグリジェが覗いている。
浅沢瑶の姿を見た宇佐美萌は、頬にかかった乱れた髪をかき上げ、はにかむように視線を落として笑った。
「ごめんなさいね。彼、まだシャワー中なの。先に入って」
胸の奥で渦巻く感情を無理やり押し込み、浅沢瑶は礼儀正しく尋ねる。
「よろしいんですか」
言い終えるか終えないかのうちに、部屋の奥から不機嫌そうなしゃがれた声が飛んできた。
「そこで突っ立ってる気か? パパラッチに中まで撮られたいのか」
盛岡晃の声だった。
浅沢瑶が視線を上げた、その瞬間――心臓が目の前の光景に、じわじわと切り刻まれていくようだった。
盛岡晃は下半身にタオルを巻いただけ。むき出しの上半身には、流れるような筋肉の線がくっきり浮かび、シャワー上がりの滑らかな肌には水滴が残っている。
そして――赤い爪痕も。
部屋中に満ちているのは、濃密すぎるほどの情事の気配だった。
ぼんやりと、浅沢瑶は思う。
抗癌剤治療が、いちばん痛いわけじゃなかったのだと。
彼女は無表情のまま部屋に入り、背後のドアに鍵をかける。そして視線を落とし、自分を窒息させる原因から目をそらしたまま、バッグから秘書に用意させておいた危機対応用の小道具を取り出した。
「宇佐美さん」
口を開くと、声は少しかすれていた。
「あなたは立場がデリケートですので、ネガティブなスキャンダルは避けられるなら避けるべきです。こちらの対応方針としては、盛岡エンターテインメントが今後、あなたと全面的な提携を開始すると対外的に発表します。盛岡社長とホテルで会っていたのは、映画について打ち合わせをするためだった、という形です。あなたのマネージャーと共同制作側のプロデューサー、監督はすでに到着していて、隣の部屋で待機中です。お二人の……ご準備が整い次第、隣の部屋へ移っていただき、そこで私が提携メディアを上げて撮影させます」
「問題ないわ。あなたの仕事ぶりは信用してるもの」
宇佐美萌は機嫌がいいのか、終始にこにこと笑っている。
「前から彼にあなたの話は聞いてたのよ。全部彼が悪いの。忙しすぎて、なかなか紹介してくれなかったんだから」
浅沢瑶が返事をするより早く、盛岡晃がふっと鼻で笑い、気のない声で言った。
「わざわざ会わせる必要はない。彼女は会社の公関部総部長だ。今後、顔を合わせる機会はいくらでもある」
その言葉に、浅沢瑶は寂しげにまぶたを伏せた。
たしかに、わざわざ会う必要なんてない。
盛岡晃にとって、自分はもう、特別な相手ではないのだから。
両親は彼女が3歳のとき、飛行機事故で揃って亡くなった。幼すぎた彼女は、親族たちに遺産目当てで引き取られ、ぞんざいに育てられた。遺産の信託手続きが終わると、幼い浅沢瑶はまるで厄介な荷物のように、親戚の家から家へとたらい回しにされた。
6歳の年、すべての財産を奪われた彼女は孤児院へ送られた。そこで受けたのは、人として扱われないような虐待だった。一度、ひどい怪我を負って病院へ運ばれたことがある。そのとき偶然、病院にいた盛岡晃と出会った。
その後、盛岡家の人々が彼女を引き取った。
彼女にとって盛岡晃は、絶望の淵に差し込んだ一筋の光だった。救いそのものだった。
最初は何も望んでいなかった。ただ平凡に生きて、命を救ってくれた盛岡家への恩を返したいと、それだけを思っていた。
けれどその後、盛岡晃は彼女を掌の上で包み込むように甘やかした。どんな願いも聞き入れ、どこまでも優しくしてくれた。愛されたことのなかった彼女は、気づく暇もなく、その深い愛情にすっぽりと包まれてしまったのだ。
だから浅沢瑶は、どうしてもこの光を掴みたくなった。盛岡晃の愛を、全部自分だけのものにしたくなった。
そうして彼女は、愛してはいけない人を愛してしまった。甘やかされるまま育った彼女は、何をしても罰なんて下らないと、どこかで思っていた。だから盛岡晃に告白した。
そして、人生で最も惨い教訓を与えられた。
盛岡晃は彼女と結婚こそしたが、かつて彼女に与えていたすべての特権を取り上げた。
「わかったわかった」
宇佐美萌が愛らしく笑う。
「あなた、早く着替えてきて。私も準備したら、すぐ行きましょ」
盛岡晃は彼女の言葉によく従うらしい。宇佐美萌が言い終えるや否や、すぐに更衣室へ入っていった。
浅沢瑶は少し黙ってから、宇佐美萌に言う。
「宇佐美さん。外にはパパラッチが大勢いますので、お二人が一緒に撮られないよう、盛岡社長とは別々にお帰りいただく必要があります。こちらの手配としては、まず先にあなたに部屋を出ていただきます。その15分後に、盛岡社長に出ていただく形で」
「問題ないわ」
宇佐美萌は笑ってうなずいたが、ふと思いついたように続けた。
「でも私、もう少しお化粧を直したいの。だったら晃を先に出して、15分後に私が出るっていう形でもいいかしら?」
理由としては筋が通っている。浅沢瑶はそう判断し、了承した。
1時間後、盛岡エンターテインメントは声明を発表した。声明には会合参加者の集合写真も添えられている。写真の両端に盛岡晃と宇佐美萌、その間に複数のスタッフ。続いて宇佐美萌の事務所も声明を転載し、危機対応は完璧な形で幕を閉じた。
疑いを避けるため、盛岡晃と宇佐美萌は別々に移動した。駐車場へ向かう途中、浅沢瑶は足早に歩いて彼に追いつく。
「盛岡……社長。今夜はお帰りになりますか」
小さな声で尋ねる。帰ってこないと言われるのが怖いかのように、慌てて付け加えた。
「今夜の件、祖母が知ってしまって……さっき私に電話があって、その……」
「自分のことだけ考えていろ」
盛岡晃は冷ややかに彼女を一瞥し、警告するように言った。
「祖母のほうには俺が話す」
盛岡キヨは宇佐美萌を好いていなかった。女優という身分を嫌い、盛岡晃には釣り合わないと考えていて、ことあるごとに浅沢瑶を通して言葉を伝えさせた。だが盛岡晃は、それを浅沢瑶が陰で宇佐美萌の悪口を吹き込んでいるのだと誤解していた。
「でも、今日は私の……」
彼女が言い終える前に、盛岡晃は無情に車のドアを閉め、そのまま走り去った。
誰もいない駐車場にひとり取り残され、浅沢瑶は寂しげに呟く。
「私の誕生日……」
かつては1か月も前から準備が始まるほど盛大な日だった。
なのに今では、彼はもう、すっかり忘れている。
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六兄:「なぜチームが負けた?」――彼女が脱退したからだ。
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だが、傷つけられた私の心はもう戻らない。私は彼の懇願を、冷徹に突き放した。
――もう遅いわ。あなたを一生、許すつもりはない。
そう誓ったはずの私だったが、予想だにしない誤算があった。
私たちが産んだ愛らしい三つ子たちが、今さら戻りたいと泣く父親の、まさかの最強の味方として動き出したのだから。













