私があなたの「昨日」になった時

私があなたの「昨日」になった時

渡り雨 · 完結 · 21.9k 文字

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紹介

『私があなたの過去になったとき』

付き合って三年の彼氏が生徒会長に当選したとき、私はお祝いにバーを貸し切りにした。けれど、ケーキを持って戻ってきた私が耳にしたのは、個室から響く耳をつんざくような嘲笑だった。

「一万賭けてもいいぜ。卒業までにあの家の決めた婚約を破棄させて、俺と駆け落ちさせてみせる」

「あの堅物のガリ勉女か? ちょっと甘い言葉を囁けば、イチコロだろ」

「もしバレたらどうなるかな? 俺と愛理の学外アパートの資金まで、あいつのバイト代から出てるなんて知ったら。発狂するんじゃねえか?」

手からケーキの箱が滑り落ちた。クリームが白いスニーカーに飛び散る――バイトを三つ掛け持ちしてようやく買った靴。君が履くと清楚に見えるから好きだ、と彼が言った靴。

結局のところ、彼が愛したのは私の「清楚さ」なんかじゃなかった。私が安上がりで、御しやすい女だったからだ。

私は部屋に怒鳴り込んだりしなかった。ただ踵を返し、散乱した惨状を跨いで、その場を立ち去っただけ。

みんな忘れているようだけど――千明と私は、最初から対等なんかじゃなかったのよ。

私の名は北条詩織。ヨーロッパの旧家、その唯一の継承者。

ただの学生を演じる三年間の茶番劇は、もう終わりにする。

チャプター 1

 真実はまるでハンマーで胸を殴打されたかのような衝撃で、肋骨の奥で心臓が早鐘を打っていた。

 三年間、私は千明のことを何もかも知っているつもりだった。生徒会長であり、私の恋人。「詩織、君は特別だ」と言われるたび、その言葉を信じて疑わなかった。

 彼の当選祝いに、初デートの場所でもある『トワイライト・バー』を貸し切りにした。彼の大好物のバニラケーキを受け取りに行き、戻ってきたところだった。

 バーへと戻る道すがら、ケーキを見た彼の顔を想像していた。いつものように私の髪をくしゃっと撫でて、「わざわざこんなことしなくていいのに」と笑ってくれるかもしれないと。

 だが、馬鹿を見ていたのは私だけだった。

 個室に辿り着くより先に、中から爆笑が聞こえてきた。私はドアの前で凍りつき、ドアノブを握った手が止まる。

 そして聞こえてきた千明の声。あんなにも聞き慣れていたはずの声が、恐ろしいほど他人のものに聞こえた。

「ほら、こういう女はチョロいんだよ」と、彼は得意げに言った。

 ドアの隙間から、彼がスマホを掲げているのが見えた。誰かが口笛を吹く。

「うわ、鎖骨のホクロまで写る距離かよ。やるねえ」

 その写真は私の誕生日の夜のものだ。まどろみの中で肩にキスされるのを感じ、「やめてよ」と呟いたのを覚えている。親愛の情だと思っていたのに。

 結局、私は彼のコレクションボードにピンで留められた蝶に過ぎなかったのだ。美しく、動けず、決して飛び立てない蝶に。

「一万賭けるぜ。卒業までに、あいつが実家の決めた婚約を自分から破棄して、俺と駆け落ちするように仕向けてやるよ」。

 千明の言葉が針のように耳に突き刺さる。

「千明、お前も悪よのう」

 男の声が野次を飛ばす。

「けどマジな話、ロンドンにいるお前の叔父さんは、お前がこんな遊びしてるって知ってんのか? 前回言ってたろ、コネがあるから卒業後は面倒見てくれるって」

 千明は鼻で笑った。軽い口調だ。

「叔父貴か? あの人はどこにでも顔が利く。あの一声があれば十分さ。詩織に関しては、まあ、俺のための踏み台ってとこだな」

 部屋中がどっと沸いた。

「千明ぅ~」

 甘ったるい女の声が割り込む。愛理だ。彼女は千明にべったりと寄りかかり、指先で彼の胸に円を描いていた。

「で、いつ詩織に本当のこと言うつもり? もしバレちゃったら……毎晩私ん家に泊まってることとか。怒っちゃうんじゃない?」

「怒る?」

 千明は鼻を鳴らし、愛理の腰を引き寄せた。

「あのガリ勉が? ちょっと甘い顔すりゃイチコロだよ。たとえバレたとしても――」

 彼は身を乗り出し、皆の目の前で愛理にキスをした。

「お前が俺に迫ってきたことにすりゃいい。あいつは『優しい』からな、絶対許してくれるさ」

 愛理はわざとらしく恥じらうふりをして、彼の胸をぽかっと叩いた。

「ひどぉい。詩織は堅物でお堅いから、私みたいに……楽しくないって言ったのは千明じゃない」

 彼女は言葉を切り、その声色に悪意を滲ませた。

「でもさ、正直な話、私たちが使ってるアパートの家賃があいつのバイト代から出てるって知ったら、さすがに発狂するんじゃない?」

 アパート。

 胃がせり上がるような吐き気を感じた。

 三ヶ月前、千明は勉強のためにアパートを借りたいと言い出した。私はちょうどバイト代が入ったばかりで、ずっと欲しかった靴を買うために貯めていたお金だった。けれど、彼の期待に満ちた顔を見て、そのお金を振り込んでしまったのだ。

「二人の将来への投資だと思って」と私は言った。

 彼は私を抱きしめた。

「詩織、君は本当にいい子だね」

 私たちの「将来」には、最初から愛理がいたのだ。

「怒らせときゃいいさ」

 千明はグラスを揺らす。

「最悪、別れるだけだ。どのみちあいつにはうんざりしてたんだよ。いい子ぶって、毎日図書館に付き合わされてさ。疲れるんだよ」

『演じる』。

 その言葉がナイフのように心臓を抉った。

 図書館で過ごした午後も、微積分を教えてくれた夜も、「朝まで一緒に勉強しよう」という約束も――すべて演技だったというのか。

 私はこの三年間、そんな茶番に涙ぐむほど感動していたのだ。

 急に指から力が抜けた。ケーキの箱が手から滑り落ち、床に激突する。

――バンッ。

 クリームが四方八方に飛び散った。白いフロスティングが私の白いスニーカーにかかり、醜い染みを作っていく。

 バイトを三つ掛け持ちして、ようやく手に入れた靴。初めて彼のために履いていったとき、彼は言った。

「そういう清楚な格好、似合うよ。好きだな」

 今ようやくわかった。彼が好きだったのは「清楚」なんかじゃない。安上がりで、思い通りになる女が好きだっただけだ。

 中が一瞬静まり返り、誰かが「店員だろ」と言うと、再び笑い声が戻った。

 私はドアを押し開けなかった。説明も求めなかった。無残に潰れたケーキを拾い上げることさえしなかった。『会長就任おめでとう』と砂糖菓子で書かれたプレートが、クリームの海に沈んでいく。

 私は踵を返し、甘ったるくベタつく残骸を跨いで、振り返ることなくその場を後にした。

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