離婚届か死亡診断書

離婚届か死亡診断書

大宮西幸 · 完結 · 20.5k 文字

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紹介

夫は私を屈服させたい時、いつも離婚届を机に叩きつける。両親は私を従わせたい時、いつも絶縁すると脅してくる。

彼らの要求は単純だ。すべてを双子の妹に譲れというのだ。

かつては私も抗った。泣いた。なぜ私なのかと問い詰めた。

だが医師が検査結果を私の前に差し出し、憐れみを込めた口調で「脳腫瘍の末期です。余命は長くて一ヶ月」と告げた時、突然すべてがどうでもよくなった。

どうせ私はもうすぐ死ぬ。彼らの好きにさせればいい。

チャプター 1

 医師から末期の脳腫瘍で、余命は長くてもあと一ヶ月だと告げられた時——私が抱いた感情は、驚くべきことに「安堵」だった。

 医師に礼を言い、病院の自動ドアを抜けた瞬間、バッグの中でスマホが震えだす。

 夫の夏目良浩からだ。

 通話ボタンを押すや否や、不機嫌さを隠そうともしない声が響く。「今どこだ? すぐに帰ってこい。楓恋がまた倒れた。医者が言うには、早急に手術が必要らしい。腎臓提供の同意書、今日中にサインしろ。聞こえてるのか?」

 こちらが口を開く隙も与えず、彼は畳みかける。「また小細工しようとするな。これ以上引き延ばすなら、弁護士を立てて離婚調停を申し立てる。自分の立場を考えろ」

 一方的に電話は切れた。

 暗転した画面を見つめながら、頭の中が白く霞んでいく。良浩が離婚をチラつかせて脅してくるのは、これが初めてではない。先々月は楓恋が私のネックレスを欲しがったから、先月は彼女が私の寝室を使いたいと言い出したからだ。

 腎臓提供の件に関しては、半年前に楓恋が入院して以来、三人がかりで私に圧力をかけ続けてきた。

 父は電話口で怒鳴り散らす。「お前、お姉ちゃんとしての自覚はないのか! あの子が生まれつき病弱なのは、お前が母親の腹の中で栄養を奪い取ったからだぞ! 今にも死にそうな妹に腎臓の一つくらいやれなくてどうする!」

 母はもっと悲痛に泣き叫ぶ。「あの子を助けないなら、この家にいる資格なんてないわ。あなたを育てたのは、妹を見殺しにするためじゃないのよ!」

 良浩の言い分は、さらに直接的だった。「俺を愛してるなら困らせるな。楓恋を救えるのはお前しかいないんだ。サインしないってことは、俺に二人の中から一人を選べと迫ってるのと同じだぞ」

 当時、私は拒絶した。

 その代償として、父はドアを叩きつけるようにして出て行き、母は私の鼻先に指を突きつけて「血も涙もない化け物」と罵り、良浩は離婚届を私の顔に投げつけた。

 だが今、それもすべて終わる。

 車に乗り込み、窓の外に広がる鉛色の空を見上げると、胸の奥に奇妙な軽やかさが満ちてきた。

 どうせ私の命はあと一ヶ月。なら、腎臓くらいくれてやればいい。持っていても、もう使い道はないのだから。

 車が豪邸の車庫に入った頃には、すでに夕闇が迫っていた。

 玄関のドアに手をかける前から、リビングから楽しげな笑い声が漏れ聞こえてくる。

 扉を開けると、そこには幸せな光景があった。両親がソファの両端に座り、真ん中に良浩、その腕の中には楓恋が抱かれていた。テーブルには綺麗に剥いたフルーツが並んでいた。父が何か冗談を言い、良浩は慈愛に満ちた眼差しで楓恋を見つめていた。

 楓恋は生成りのカシミヤワンピースを身に纏い、頬は血色良く薔薇色に染まり、目は三日月のように細められている。

 どこをどう見れば、腎臓移植が必要な重病人に見えるというのだろう。

 ドアの開く音に気づき、良浩が顔を上げる。私と目が合った瞬間、その表情は凍りついた。

 彼は立ち上がり、テーブルの引き出しから二種類の書類を取り出すと、乱暴に私の足元へ放り投げた。

「ドナー同意書と、離婚届だ」まるで面倒な事務処理でもするかのような口調だった。「今日中にどっちかにサインしろ。自分で選べ」

 両親も動きを止め、一斉に私を睨みつける。

 母が眉をひそめた。「こんな時間までどこほっつき歩いてたの? 午後また楓恋が熱を出して、どれだけ心配したと思ってるのよ」

 父も鼻を鳴らした。「どうせ外で遊び呆けてたんだろう。そんな暇があるなら、少しは妹の身を案じたらどうだ」

 私は屈み込み、散らばった書類を拾い上げた。

 ドナー同意書には、すでに手術日が記入されている。七日後だ。離婚協議書のヘッダーには法律事務所の名前が印刷されており、良浩が前々から周到に準備していたことが見て取れる。

 私はその場に立ち尽くし、四人の顔を順に見渡した。

 楓恋が唇を噛み、弱々しい声を出す。「お姉ちゃん、無理しないで……。嫌ならいいの、私、自分でなんとかするから……」

「なんとかするって、どうやってだ?」良浩が即座に言葉を遮り、私を睨みつける。「適合するのはこいつしかいないんだぞ。他にあてなんてあるわけないだろう」

 母も目元を赤くして加勢する。「そうよ、あなた、妹が死ぬのを黙って見ているつもり?」

 私は何も答えず、ただ同意書の文字を長く見つめた。

 そしてテーブルへと歩み寄り、ペンを手に取ると、同意書の署名欄に自分の名前を書き記した。

 リビングが一瞬の静寂に包まれ、直後に歓声が爆発した。

「あぁ、良かった!」母は涙を拭うのも忘れ、楓恋に抱きつく。「私の可愛い娘、これで助かるわ!」

 父は安堵の息を吐き、私の肩を叩いた。「もっと早くこうすべきだったんだ。お姉ちゃんなんだから、譲って当然だろう」

 良浩は数秒間私を凝視し、表情をわずかに緩めたものの、その瞳に温かさは戻らなかった。「……賢明な判断だ」

 そう言い捨てると、彼はソファに戻り、再び楓恋の相手をし始めた。

 私は目を伏せ、彼らが互いに喜び合っている隙に、もう一通の書類——離婚届を手に取った。素早く最後のページをめくり、自分の名前を走り書きする。

 そしてそれを、テーブルの隅にそっと置いた。

 誰にも気づかれることはなかった。

 喜びの時間は十分ほど続いた。母は上機嫌でスマホを取り出し、豪勢な出前を取ろうとしている。

 通話を終えると、母は思い出したように私を振り返った。「ああ、そうそう、悪いようにはしないわよ。楓恋の手術が成功したら、家の遺産はちゃんと二人で山分けにするから。あなたを冷遇したりしないわ」

 父も頷く。「そうだそうだ。お前は強情だが、腐っても俺たちの娘だからな」

 良浩がソファに背を預けたまま、ついでとばかりに口を挟む。「楓恋の病気が治ったら、俺たちは俺たちで静かに暮らすさ。お前も、これ以上彼女を目の敵にするなよ」

 彼がそう言った時、楓恋は彼の胸に顔を埋め、母は甲斐甲斐しく楓恋に水をやり、父はソファの後ろで目を細めていた。

 四人が円を描くように身を寄せ合い、まるで絵に描いたような温かい家族の団欒だ。

 そして私はテーブルの向こう側で、ただ一人の部外者として立ち尽くしている。

 その光景を見ていると、ふいに乾いた笑いが込み上げてきた。

 遺産? これからの暮らし?

 来月まで生きられない私が、そんなものを貰ってどうするというのか。

 私は小さく首を横に振り、誰に聞かせるでもなく呟いた。

「もういいの。私には、必要ないから」

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