紹介
私は泣きもせず騒ぎもせず、手切れ金を受け取って素直に彼の元を去った。
―――彼の弟が、私を連れて実家へ挨拶に行くまでは。
「この人と、生涯を共にすると誓います」
そう宣言する弟の隣で、増山は目を真っ赤にして、後悔していると呟いた。
チャプター 1
「別れよう」
神崎増山の声には何の起伏もなく、冷ややかな眼差しで私を見つめている。意見を求めているのではなく、ただ通告しているだけだった。
私は呆然とし、手にしたワイングラスを滑り落としそうになった。
その時、目の前に弾幕が浮かび上がった。
【ぐずぐずしないでよ。悪役令嬢はさっさと消えて、主人公カップルの邪魔しないでほしいんだけど】
【そうそう、ヒロインはこの二日間ずっと傷心なんだから。全部この悪役令嬢のせいよ】
私はちょうど感情を昂ぶらせて泣きわめこうとしていたが、その声は弾幕によって喉の奥に押し戻された。
悪役令嬢? 私のこと?
しばらく弾幕を真剣に眺めているうちに、私は自分たちがいる世界が一冊の本に過ぎず、そして私がその中で、主人公が真実の愛に気づくのを手助けする悪役令嬢なのだと理解した。
私がしばらく黙り込んでいるのを見て、神崎増山はわずかに眉をひそめた。
「どうした、嫌なのか?」
彼は高級マンションの革張りのソファに身を預け、修長の指でガラステーブルを軽く叩いている。私が贈った腕時計はいつの間にか外され、代わりにどこのものか分からない小さなブランドのものに変わっていた。
顔を上げ、三年間寄り添ってきたこの男を見つめる。彼の瞳にもう愛の色はなかった。
私に向けられる視線には嫌悪が満ち、まるで私が何かの汚点であるかのようだ。
その瞬間、弾幕の言うことが全て真実なのだと悟った。
だから私はもう泣きわめくのをやめ、ただ声を少し詰まらせながら彼に尋ねた。
「最後の援助金は? 神崎さん、それと口止め料も」
神崎増山は少し驚いたようだった。私が泣きも騒ぎもせず、あっさりと承諾するとは思ってもみなかったのだろう。
やがて彼は財布から数枚の高額紙幣を抜き出し、床にばら撒いた。
冷たい目で私を見下ろし、私の次の行動を待っているようだった。
【早く拾えよ。こんな楽に稼げるチャンス、逃したらもうないぞ】
【そこまでする必要ないでしょ。別れるのはいいけど、どうして悪役令嬢の尊厳を踏みにじるの。前はちゃんと恋愛してたんでしょ】
【金目当ての女に愛情を語る資格はない】
私はそれらの弾幕を無視し、冷静に金を拾い集めると、彼に贈られたLVのハンドバッグにしまった。
このバッグは去年の誕生日プレゼントで、かなりの価値がある。返すのは惜しかった。
神崎増山は立ち上がり、不機嫌そうな顔で玄関の方を向いた。
マンションの下で車に乗り込む前、彼は一度だけ私を振り返った。その表情は複雑だった。
彼が心変わりして援助金を返せと言い出すのではないかと心配になり、私は慌てて背を向けてその場を離れた。
急ぎすぎたせいで、うっかり水たまりを踏んでしまう。真っ白なコンバースのキャンバスシューズは瞬時に汚れた灰色に染まり、ひどくみすぼらしく見えた。
学生寮に戻ると、私はすぐにスマホの銀行アプリを開き、七百万円を自分の貯蓄口座に振り込んだ。
この「手切れ金」は、三年間で貯めた最後の一筆だ。これまでの貯金と合わせ、ようやく九州の田舎に帰って再出発するのに十分な資金ができた。
私はため息をつき、神崎増山との出会いを思い返した。
大学一年に入学したばかりの頃、私は不動産屋に保証金を騙し取られ、コンビニのバイトも理不尽にクビになった。
あの日、私はキャンパスのベンチで泣いていた。そこを通りかかった神崎増山が、ティッシュと札束を差し出してくれたのだ。
「月百万で、俺の彼女になれ」
彼は淡々と言った。
「俺が必要な時にだけ、現れてくれればいい」
当時の私は、田舎から東京へ出てきた奨学生だ。そんな大金、見たこともない。
だが、生きるために、私はその条件を受け入れた。
すぐに彼が用意した高級マンションに引っ越し、ブランド物のバッグや化粧品を手に入れた。
演技のレッスンにまで通い、彼の前でより可愛らしく、彼の期待に応える振る舞いを学んだ。
【主人公、正気かよ? 悪役令嬢を使ってヒロインを刺激するつもりだ!】
再び現れたコメントシステムが、私の思考を中断させた。
私は眉をひそめる。これらの文字が何を意味するのか理解できない。
突然スマホが震えた。神崎増山からのメッセージだった。
「今夜八時、大学の卒業パーティーだ」
私はどう返事をすべきか迷った。
別れたばかりなのに会うの?
「五十万」
またメッセージが届いた。
私は返信しなかった。
「百万」
それでも私は沈黙を続けた。
「三百万」
三百万円? それは私が三年間で貯めた全財産の半分近い!
私は唇を噛み締め、返信した。
「わかりました。時間通りに行きます」
コメントは私を金の亡者だと罵る言葉で埋め尽くされたが、もうそんなことは気にしていられない。なんたって三百万なのだ。
今となっては、神崎増山が私を、ヒロインを刺激するための道具くらいにしか思っていないことも分かっている。
私は簡単に身支度を整え、きちんとしたドレスに着替えると、自転車で大学へ向かった。
会場に着き、深呼吸をしてから講堂の扉を開ける。
しかし、講堂の中央にいる人物をはっきりと目にした時、私の血はほとんど凍りついた。
神崎増山の隣に座っている「ヒロイン」は、なんと佐藤真奈だったのだ。
かつて私を佐藤家から追い出した、偽のお嬢様だった。
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