私のベッドにいる億万長者

私のベッドにいる億万長者

大宮西幸 · 完結 · 31.6k 文字

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紹介

母が最後の息を引き取ってから、わずか十七分後――。
病院の階段で、頭に血で染まった包帯を巻いた男とすれ違った。

高級なスーツはズタズタに裂け、彼は医者を呼ばないでくれと懇願し、低く囁いた。
「奴らが……俺を殺そうとしている」

涙で視界が滲む中、私は人生で最も無謀な決断を下した――。
母が息を引き取ったばかりの、もう空っぽになった病室に、この記憶を失った見知らぬ男を隠したのだ。

私はただ、必死で助けを求める哀れな人間を救ったつもりだった。
……あのニュースを見るまでは。

爆発事故で死んだと報じられたのは、億万長者でありエンターテインメント企業の後継者、椎名翔太。
そして画面に映った冷たく整った顔は、今まさに私のボロアパートのきしむベッドで横たわっている男と同じだった。

今、世界中が彼を死んだと思っている。
真実を知っているのは私だけ――盲目で記憶を失ったこの社長は、私の狭いシングルベッドで私の手を握りしめ、心から私を愛していると信じ込んでいる。

だが、もし彼が記憶と視力を取り戻し、再び黄金の世界へと戻ったら……私は彼にとって何になるのだろう。
借金しかない、ただのコーヒーショップの店員さんに過ぎない私が。

この恋は、彼を追い続ける陰謀よりも、ずっと危険な結末を迎えるのかもしれない。

チャプター 1

 お母さんが亡くなったのは、火曜日の午後十一時三十二分だった。その十七分後、私は病院の階段の曲がり角で、血を流している見知らぬ男を見つけた。

 私はお母さんの荷物――古いギターと、書きかけの曲で埋まったノート――を抱えて、自分の車へと運んでいた。涙で視界が滲み、足元もろくに見えない。階段の照明は薄暗く壊れかけていて、緑色の非常口のサインだけが闇の中で明滅していた。

 その時、息遣いが聞こえた。重く、苦しげで、まるで悲鳴を必死に押し殺しているような音。

 涙をぬぐって目を凝らすと、下の曲がり角の壁に背を預け、うずくまっている大柄な影が見えた。頭には血の滲んだ包帯が巻かれている。仕立ての良さそうなスーツはズタズタに裂け、胸のあちこちに切り傷が覗いていた。

「助けてくれ……」男の声は掠れ、必死だった。「頼む……誰にも言わないでくれ……ただ、隠してくれ……」

 逃げるべきだった。普通の人なら、そうしていただろう。

 でも、お母さんは上の病室でたった一人、息を引き取った。医者は言った。「もっと早く症状に気づいていれば、助かったかもしれません」と。もし、誰かがそばにいてあげられたら? そんな考えが頭を離れなかった。

 私は震える手で、彼のそばに膝をついた。「大丈夫ですか? お医者さんを呼びましょうか?」

「医者はだめだ」彼は痛いほど強く私の手首を掴んだ。「見つかってしまう……奴らに殺される……」

 包帯で目は隠れていたが、彼の恐怖が伝わってきた。それは骨の髄まで凍りつくような、本物の恐怖だった。

「『奴ら』って誰のこと?」私はささやいた。

「わからない……」彼の声が裏返る。「思い出せないんだ……何も……」

 その時、下の階からドタドタと階段を駆け上がってくる足音が聞こえ、「椎名」を探せと叫ぶ男たちの声が響いた。この男が誰であれ、追われているのは間違いない。

 私は、きっと後悔するであろう決断を下した。

「歩ける?」

 彼は頷いた。

 私は彼を立たせた――なんて重いんだろう――そして半ば引きずるようにして、五階にあるお母さんの病室へ戻った。看護師たちが遺体を運び出した直後で、部屋は空っぽのまま、清掃を待っていた。

 彼をベッドに押し倒し、検査着を投げつける。「着替えて。早く」

 彼が着替えに手こずっている間に、私は血まみれのスーツをお母さんの私物が入ったゴミ袋に突っ込んだ。手がひどく震えて、袋の結び目すらまともに作れない。

 彼に毛布を掛けた瞬間、看護師が入ってきた。

「面会時間は終わりですよ」彼女は疑わしげな目で私たちを見た。

「彼氏なんです」私はとっさに口走った。「今着いたばかりで。少しだけ、ここにいさせてもらえませんか? お願いします」

 看護師は疲れ切っているようだった。おそらく階下の騒ぎのせいだろう。『全国演劇大賞』の会場で爆発事故があり、救急外来には怪我人が殺到していた。「わかりました。静養中の方もいらっしゃいますので、お静かにお願いします」

 彼女が出ていくと同時に、私は椅子に崩れ落ちた。心臓が早鐘を打って、吐き気すら覚えるほどだった。

「ありがとう」彼が静かに言った。「君の名前は?」

「有希。小川有希」

「ユキ……」彼は記憶に刻み込むように、ゆっくりと繰り返した。「俺は……自分が誰なのかわからないんだ」

 私は手がかりを探すため、彼のボロボロになったスーツを調べた。高級ブランドのタグ――検索してみると、最低でも80万円はする代物だ。ポケットからは高そうなカフスボタンと、全国演劇大賞のバックステージパスが出てきた。

 スマホが震え、ニュース速報が表示された。「全国演劇大賞で爆発事故、数十名が負傷。照明設備の不具合か」

 画面をスクロールすると、目を疑うような見出しが目に飛び込んできた。「椎名エンターテインメントの御曹司、椎名翔太氏、事故により死亡か」

 写真に写っているのは、タキシードを着た、冷ややかで信じられないほどイケメンだった。私はベッドの上の見知らぬ男と、写真を見比べた。

 鋭い顎のライン。体格。同じだ。

「嘘でしょ……」私は呟いた。

「どうした?」

「ううん、なんでもない。……休んで」

 言えるわけがなかった。まだ、何が起きているのか私自身も理解できていないのだから。

 翌朝、病院の会計課に呼び止められた。お母さんの治療費として206万円を請求された。葬儀屋も、一番安いプランで104万円必要だと言う。

 私の銀行口座の残高は、7650円しかなかった。

 病室に戻り、私は……ただ、泣き崩れた。一晩中気を張っていたけれど、突然すべてがのしかかってきたのだ。お母さんはもういない。お金もない。死んだことになっているかもしれない億万長者を、病室に隠している。私はいったい何をしているんだろう?

「いくら必要なんだ?」

 顔を上げると、彼はベッドに上半身を起こしていた。目はまだ包帯で覆われていたが、その声は落ち着いていた。

「え?」

「自分が誰かはわからない」彼は言った。「だが、金持ちだということはわかる。感覚でな」彼はカフスボタンを差し出した。「これを持っていけ。売れば、必要な額にはなるはずだ」

「そんな、受け取れない――」

「君は俺の命を救ってくれた、ユキ。今度は俺に、君を救わせてくれ」

 私は繁華街の質屋で、それを400万円で売った。お母さんの葬儀代を払い、病院への支払いも済ませた。二ヶ月分の家賃を払えるだけのお金が手元に残った。

 その日の午後、病院側がその部屋を使うことになった。私は彼を裏口から連れ出し、タクシーに乗せた。

「どこへ行くんだ?」車が走り出すと、彼が尋ねた。

「下町にある私のアパート。狭いけど、安全だから」

「ありがとう」暗闇の中で、彼の手が私の手を探し当てた。「君には、返しきれないほどの恩がある」

「恩なんてないわ」私は言った。「ただ……一緒に生き延びましょう。ね?」

「ああ。一緒に」

 タクシーが橋を渡り、下町に入ったところで、スマホが再び光った。「速報 椎名翔太氏の死亡を確認。享年二十八。椎名エンターテインメントの御曹司、3200億円の帝国を残して去る」

 私は隣にいる男を横目で見て、記事の写真と見比べた。

 同一人物だ。間違いなく、彼だ。

 だが、誰かが彼の死を望んでいる。誰かが、世界中に彼が死んだと思わせようとしている。

 そして私は、そんな男を家に連れ帰ってしまった。

 私はいったい、とんでもないことに巻き込まれてしまったのか?

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