籠の鳥は、命乞いをしない

籠の鳥は、命乞いをしない

渡り雨 · 完結 · 21.2k 文字

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紹介

界隈の誰もが知っている。私が下北洋介に飼われる籠の中の金糸雀であり、彼の息子である陽翔の目に最も嫌われている「悪い女」だということを。

陽翔のために、私はチューリッヒへ留学する機会を諦め、七年間も彼の傍(かたわ)らで尽くすことに甘んじた。

しかし、その見返りは、結婚記念日に夫が井藤勝美(いとうかつみ)と美術展へ行くことであり、陽翔が皆の前でケーキを私の顔に叩きつけ、「クソババア」と罵(ののし)ることだった。

下北は、私が彼と息子から離れられないと確信していた。

彼は離婚届をテーブルに投げつけ、冷笑しながら言った。「サインすれば、お前は陽翔を含め、すべてを失う」と。

彼は私がひざまずいて許しを乞うとでも思ったのだろう。

だが、私はそうしなかった。

ただ静かにペンを拾い、流れるような筆遣(ふでづか)いで自分の名前を書き記しただけ。

「ええ、いいわよ、下北さん。息子はあなたに。私は、私自身に還(かえ)るわ」

その瞬間、彼の目に一瞬の愕然(がくぜん)がよぎるのを見た。

後日談(ごじつだん)だが、下北は狂ったように世界中を捜し回り、彼が手の中の宝物のように可愛がっていた息子は、泣き叫びながら母親を求めたそうだ。

残念だけど、もう遅い。

「家」という名のその危楼(きろう)は、この私が自らの手で、もう壊してしまったのだから。

チャプター 1

 下北と離婚したのは、もう三ヶ月前のことだ。

 今の私は、チューリッヒのアトリエに座っている。窓の外にはアルプスの雪嶺が広がり、手元には『光の回廊』のデザイン画が置かれている。

 罵声も、子供の泣き声もない。ただ、鉛筆が紙を擦るサラサラという音だけが響いている。

 この久方ぶりの静寂の中にいると、過去の七年間がまるで滑稽な悪夢であったかのように思えてくる。

 いやでも思考は三ヶ月前へと引き戻される。私の最後の幻想を木端微塵に打ち砕いた、あのチャリティーパーティーの夜へと。

 それは、下北グループのイメージアップのために、私が一ヶ月かけて準備したパーティーだった。

 私は古いドレスを身に纏い、ホールの片隅に立っていた。専業主婦にオートクチュールなど必要ない――それが下北の口癖だったから。

 突如としてスポットライトが集まり、下北が井藤勝美をエスコートしながら入場してきた。

 夜空の星々を散りばめたようなドレスを身に纏う井藤勝美の首元には、私がかつてショーケース越しに見つめていたブルーダイヤのネックレスが輝いていた。光の中心に立つ二人は、まるで絵に描いたような美男美女だった。

 そして私の夫は、片隅にいる私に一瞥もくれなかった。

「ママ! こんなところで何隠れてるの!」

 空気を裂くような甲高い子供の声。

 陽翔だ。

 歩み寄って乱れた蝶ネクタイを直してやろうとした私から、彼は汚いものでも見るかのように嫌悪感を露わにして後ずさった。

 七歳になる陽翔の目鼻立ちは下北に瓜二つで、その見下すような表情までもがそっくりだった。

 彼の手には、先ほど井藤勝美から手渡されたばかりのショートケーキが握られていた。

「陽翔、甘いものは控えなさい。虫歯になっちゃうわよ」

 私は無意識にそう注意した。

「うるさい!」

 陽翔が突然金切り声を上げた。その声は、静まり返った宴会場にひどく刺々しく響き渡った。

「勝美は食べていいって言ったもん! 勝美の方がママより一万倍も優しいよ! 毎日毎日口うるさく怒ってばっかり、ママなんて最低の悪い女だ!」

 周囲の招待客たちが、次々とこちらへ嘲笑の目を向けてきた。

 ひそひそとした囁き声が耳に飛び込んでくる――

『あれが下北さんの、あの見窄らしい奥さん? どうせもうすぐ捨てられるんでしょうけど』

『実の息子にまで嫌われるなんて、よっぽど酷い母親なのね』

『井藤さんを見てごらんなさいよ、あんなに優しそうで。下北さんが惹かれるのも無理ないわ』

 私はその場に立ち尽くしたまま、なんとか陽翔の手を引こうとした。

「陽翔、ワガママはそこまでにして。ママと一緒にお家に帰りましょう」

「帰らない! あんな冷たい家、大嫌いだ! ママなんかもっと大嫌い!」

 陽翔が突然腕を振り上げ、手にしていたクリームケーキを私の顔面に思い切り叩きつけた。

 べちゃっ。

 世界が、静止したように感じられた。

 頬を伝って滑り落ちる生クリームが、私の視界を塞ぎ、同時に穴だらけになった私の心をも塞いでいった。

 井藤勝美がわざとらしく小さな悲鳴を上げ、慌ててハンカチを取り出して陽翔の汚れを拭き始めた。

「あらあら陽翔くん、ママにそんなことしちゃダメよ? ゆきさんが普段厳しいのは、全部陽翔くんのことを思ってのことなんだから」

 その猫を被ったような白々しい言葉は、鋭い刃となって私の心を一言一言抉っていく。

 ようやく下北がこちらへ歩み寄ってきた。

 クリームまみれで無様な私を見下ろす彼の眉間には深いシワが刻まれ、その瞳には嫌悪と苛立ちしか浮かんでいなかった。

「ゆき、自分のその惨めな姿を見てみろ。恥ずかしくないのか」

 彼は声を押し殺して吐き捨てた。

「子供の躾すらまともにできないとはな。さっさと連れて帰れ。これ以上、俺の顔に泥を塗るな」

 私は顔のクリームを無造作に拭い、滲む視界でこの父子を見つめた。

 陽翔は下北の背後に隠れ、私に向かってあっかんべーをした。

「べーっ、ブス!」

 その瞬間、私の中で何かが、プツンと音を立てて切れ落ちた。

 私は泣き叫ぶことも、取り乱すこともしなかった。

 ただ静かに陽翔を見つめていた。十ヶ月お腹に宿し、難産で手術台の上で死にかけながら産み落としたこの子を。高熱を出した彼を看病するため、三日三晩一睡もせずに寄り添ったこの子を。

 私を見るその目は、まるで親の仇でも見るかのようだった。

「わかったわ」

 自分でも不気味なほど、ひどく落ち着いた声が出た。

「私、出て行く」

 私は背を向け、宴会場をあとにした。背後からはグラスの触れ合う音と歓談の声が聞こえてくる。まるで私の退場など、取るに足らないゴミが片付けられた程度の出来事であるかのように。

 でも、わかっている。これは決して逃避ではない。

 これは私が瓦礫の山の上で下した、最初の決断だった。

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