紹介
「やっぱりな、あいつは俺から離れられないんだ」
彼は得意満面で立ち去り、私がその直後に続けた言葉を聞かなかった。
「実は、来週婚約することになったんです」
彼が再び私のことを知った時、私は既に彼の宿敵と婚約し、黒沢の妻になっていた。
チャプター 1
一ノ瀬蓮は個室の外、通路の壁に背を預けていた。
扉の向こうから、談笑する声が漏れ聞こえてくる。
「ねえ夏海、まだ独身なんだし、この人と会ってみない?」
「うちの会社の後輩なんだけど、真面目だし、夏海とは気が合うと思うのよ」
「そうだよ夏海、いつまでも手の届かない人ばかり見てないでさ」
蓮の隣に立つ幼馴染が、中の冷やかしを聞いて顔を向けた。
「止めに入らなくていいのか? 林夏海に見合い話を勧めてるみたいだが」
蓮は口の端を歪めただけで、扉の隙間に一瞥もくれようとしない。
「その必要はない」
彼は手遊びにライターを弄びながら、気のない声で言った。
「あいつが受けるわけないだろ」
幼馴染が眉を上げる。
「随分と自信満々だな」
蓮は鼻で笑った。
「俺がそう言ってるんだ。間違いはない」
長年、林夏海は彼の影のように寄り添ってきた。あんな平凡な男を受け入れるはずがない。
その時、扉の向こうから林夏海のはっきりとした声が響いた。
「遠慮しとくわ。みんな、気遣ってくれてありがとう」
それを聞いた蓮は幼馴染に視線を戻し、片眉を上げて「ほら見ろ」と言わんばかりの表情を浮かべる。
予想通りだった以上、中のくだらない話に耳を傾ける興味は失せた。
彼はライターをしまうと、幼馴染の肩を軽く叩き、踵を返して廊下の向こうへと歩き出した。
その足取りはあまりに速く、自信に満ちていた。
ゆえに彼は聞き逃したのだ。個室の中、林夏海が続けて口にした言葉を。
「実はね、私、来週婚約することになったの」
蓮を一番愛していた数年間は、私の人生で最も色褪せた、暗い時期でもあった。
大学二年の、サークルの忘年会でのことだ。
蓮が来ると聞いて、私は午後を丸々費やして精一杯のお洒落をした。
扉を開けると、長テーブルの中央に蓮がいて、その隣にはあの「文学部のマドンナ」が座っていた。
私の姿を見つけると、蓮はちょうど彼女に席を譲ろうと立ち上がったところだった。彼は私を一瞥し、眉を寄せる。
「林夏海、何だその格好。随分老け込んだな」
ごく普通の、冗談めかした口調だった。
どっと笑いが起きる。
私は反射的に愛想笑いを浮かべたが、頬は引きつり、必死で惨めさを隠すしかなかった。
お開きになり、店の前で解散する際、誰かが冷やかし半分に尋ねた。
「一ノ瀬、夏海ちゃんはお前の幼馴染だろ? 昔っから後ろをついて回ってたから、てっきり付き合ってんのかと思ってたぜ」
すでに運転席に座っていた蓮は、片手でハンドルを支えながら平坦な口調で言った。
「適当なこと言うなよ。俺たちはただの友達だ」
後部座席で私が固く握りしめていた拳に、気づく者は誰もいない。
そう、ただの友達。それだけ。
車を降りる直前、彼の彼女が小声で尋ねるのが聞こえた。
「今夜も、あなたのマンションに行っていい?」
東京の夜空に墨を流したような闇。吹き込む冷たい風。その言葉は微かながらも、鋭利な刃物のように私の心を掠めた。
彼の車はそのまま走り去っていった。
私はその場に立ち尽くし、高一の夜を思い出していた。
私の家のマンションの下で、自転車に跨って待っていてくれた蓮の姿を。
あの頃、私は思ったものだ。いつか彼が車の免許を取って、その助手席に乗せてもらう時はどんな気持ちだろう、と。
今、その答えを知ってしまった。
聞くところによると、蓮はその彼女と半月もしないうちに別れたらしい。
それ以来、彼とは連絡を絶っていた。
私は仕事に没頭し、「一ノ瀬蓮」という名の毒を必死に抜こうとしていた。
数ヶ月後、あるプロジェクトの接待の席でのことだ。
蓮はクライアント企業の社長として上座に座っていた。対する私は、酒を注ぐ係の下請けの一社員に過ぎない。
「林さんだったかな? 一ノ瀬社長と同郷だそうじゃないか」
先方の幹部が酒を勧めてくる。
「この一杯は飲んでもらわないとな」
私は酒に弱い。その男のいやらしい手が私の肩に触れようとした瞬間、一本の腕が割り込み、男の手首を掴んだ。
「鈴木さん、彼女は酔いすぎだ」
蓮の声は冷え切っていた。彼は立ち上がると、そのまま私の手首を掴んで強引に個室の外へと連れ出した。
彼は私を助手席に押し込んだ。
「数ヶ月ぶりに会ったと思えば、酒の席で男に媚びる真似を覚えたのか?」
シートベルトを締めながら、彼は嘲るように言い放つ。
彼の表情は見えない。ただ、懐かしい香りが鼻をくすぐるだけだ。
「ごめんなさい……」
「黙れ」
車は彼のマンションの下に停まった。
部屋に入ると、私はソファに放り出された。彼は背を向けて水を汲みに行く。
アルコールが私の理性を焼き切っていた。
渡された水を受け取る際、私は彼の手を掴んだ。
「蓮、私と……する?」
声が震えていた。
彼は動きを止め、私をじっと見下ろした。
「嫌なら、いい」
私は手を離し、よろめきながら立ち上がろうとした。
「別に……他の人でもいいから」
手首を荒々しく掴まれた。
私は乱暴にソファへ押し戻される。
「他の奴でもいい、だと?」
彼は歯を食いしばっていた。
「林夏海、随分といい度胸がついたな」
こうして、私たちの誰にも言えない関係が始まった。
本当はただ知りたかっただけなのだ。私になど関心もなさそうなあの顔が、情欲に溺れたらどんな顔をするのかを。
それは、こんな表情だった。
眉間に深く皺を寄せ、瞳は暗く濁る。けれど肝心なところで、彼は私を問い詰めるのだ。
「言え。他の男でもいいのか?」
「だめ……」
私は顔を背け、泣き出さないように必死だった。
そんな関係が数ヶ月続いた。
彼も少しは私のことが好きなんじゃないか──そんな錯覚さえ抱いていた。
昨日の夜までは。
蓮はドライヤーで私の髪を乾かしてくれていた。
鏡越しの光景を見つめながら、私はありったけの勇気を振り絞って切り出した。
「私たち、こんな関係もう終わりにしよう──」
この関係を清算するにせよ、本当の恋人になるにせよ、はっきりさせたかった。
しかし、蓮の指が止まる。
彼はドライヤーのスイッチを切ると、洗面台に放り出した。
鏡越しに私を見つめ、ポケットから煙草を取り出して弄びながら、鼻で笑った。
「ああ、早めに終わらせるのもいいな。正直、飽きてたし」
意味が分からず、私は彼を見上げた。
彼は私の耳元に顔を寄せ、優しく、けれど心臓を凍らせるような声で囁いた。
「俺たちのこれ、元々ただの遊びだろ? 別れるもクソも、最初から始まってすらいない。……分かってるよな?」
その瞬間、心の中で何かがプツリと完全に断ち切れる音がした。
平凡な自分を、これ以上惨めな目に遭わせたくない。
私は、身を引くことを決めた。
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四兄:「どうしてこんなにつまらない脚本しか上がってこない?」――彼女がもう執筆しないからだ。
五兄:「この義肢は、なぜこんなに出来が悪いんだ?」――彼女が製作をやめたからだ。
六兄:「なぜチームが負けた?」――彼女が脱退したからだ。
兄たちは地に膝をついて許しを請うた。「戻ってきてくれ。俺たちこそが、血を分けた本当の家族じゃないか」
彼女は絶縁状を兄たちの顔に叩きつけ、冷ややかに笑った。
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いつからか、私は彼の後を追いかけるようになっていた。
大学の卒業式で、山本宏樹は奨学金を得た優秀な卒業生だった。
彼は卒業生代表の挨拶の場で、私が彼の恋人だと公言し、全校生徒数万人の前でプロポーズしてくれた。
あの頃、彼は前途有望な若き社長で、卒業前からすでに自分の会社を立ち上げていた。
一方の私は、骨肉腫だと診断されたばかりで、明日の太陽を見ることさえ贅沢な望みだった。
私は彼のプロポーズを断り、それから治療のために海外へ渡った。
しかし誰もが、私が貧乏な若者である彼を見下し、金持ちの御曹司に乗り換えて海外へ行ったのだと思っていた。
帰国後、彼は私に五百万円を投げつけ、彼と結婚するように言った。













