愛した令嬢は、もう他の男のものです

愛した令嬢は、もう他の男のものです

塩昆布 · 連載中 · 1.2m 文字

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紹介

彼の“日陰の恋人”として過ごした五年。
優しく、聞き分けの良い女でいれば、いつか彼の心を手に入れられると信じていた。

しかし、神様は残酷な悪戯を仕掛けた。
私に下された診断は、心不全。そして、余命数ヶ月という非情な宣告だった。

やがて、彼の“本命”が帰国する。
そして、私はあっけなく捨てられた。

騒ぎ立てることもなく、私は静かに彼の前から姿を消した。
彼から一銭たりとも、受け取らずに……。

チャプター 1

「桜井さん、検査結果が出ました。症状は悪化しています。前回もお伝えしましたが、服薬だけでは症状のコントロールができず、癌細胞はまだ広がり続けています。今から入院治療を受ければ、まだ完治の可能性はあるかもしれません」

「先生、お聞きしたいのですが、もし化学療法を受けなかったら、私はあと何ヶ月生きられますか?」

 医師は明らかに一瞬言葉を詰まらせた。「三ヶ月もたないでしょう」

「わかりました。ありがとうございます」

 電話を切り、桜井昭子は深く息を吸った。彼と一緒にいられる時間は、もう三ヶ月しか残されていないのだろうか?

 彼女が思考の海から戻らないうちに、バーの個室から突然話し声が聞こえてきた。

「司、佳乃さんがもうすぐ帰ってくるんだろ。なんでまだ桜井昭子とかいう女と別れてないんだ?」

「もうすぐだ」

 篠崎司の返事は気のないものだった。すらりとした指には煙草が一本挟まれ、眉をわずかにひそめ、何かを考えているようだった。

 個室の外に立つ桜井昭子は、彼らの会話をはっきりと耳にした。ぎゅっと手を握りしめると、瞳の奥に悲しみが広がっていく。

 彼女は篠崎司の愛人を五年も務めてきた。いつかこんな日が来ることはわかっていた。だが、それが他の女のためだとは思いもしなかった。

「こんなところで突っ立って何してる! さっさと酒を運んでこい!」マネージャーが彼女を睨みつけ、不快感を露わにした。

 桜井昭子は頷き、深く頭を下げた。しかし、部屋に入った途端、鋭い視線が彼女に突き刺さる。誰からのものかは、考えるまでもなかった。

 バーの営業が終わり、深夜になった頃、桜井昭子は疲れ切った体を引きずってアパートに戻った。リビングの暗闇の中で、赤い点が一つ明滅している。苦く淡い煙草の匂いに、彼女は眉をしかめた。

 桜井昭子は煙草の匂いが嫌いだと言ったことがある。だが、篠崎司にとって、彼女のことなど考慮の対象にすら入っていなかった。

「灯りはつけるな。こっちへ来い」男の声は氷水に浸したかのように透き通り、彼女の心を震わせた。

 わずかな月明かりを頼りに、桜井昭子は彼の前まで歩いていく。彼女が彼との距離を詰める前に男は彼女を懐に抱き寄せ、有無を言わさず唇を重ねてきた。片手が彼女の背中に探るように入り込み、襟元がはだけ、部屋中に艶めかしい空気が満ちる。

 こういうことは、いつも篠崎司の気分次第で決まるのだ。

 彼のキスは熱いが、視線が交わっても、桜井昭子には彼の冷たい瞳しか見えなかった。

 次に目覚めたときには篠崎司はすでに身支度を整えていた。彼は骨格が美しく、高い鼻梁に薄い唇をしており、漆黒のスーツがそのすらりとした体躯を際立たせている。しかし、どこか冷たく人を寄せ付けない印象を与えた。彼女が目を覚ましたことに気づくと、冷ややかに一瞥しただけだった。

「今後はもう来ない。あのバーも辞めろ」

 篠崎司の要求に、彼女はいつも文句一つ言わずに応じてきた。だが今回ばかりは、心にどこか割り切れないものが芽生えていた。

「どうして?」

 篠崎司の表情が一瞬止まり、彼女を値踏みするように横目で見る。その冷たい瞳が、寒々しい光を放った。

「俺がお前にやった金じゃ、まだ足りないのか?」

 桜井昭子は自嘲気味に笑った。指先が微かに震え、心の苦しみを隠しきれない。

 彼の心の中では、自分がしてきたこと全てが金のためだったのだ。

「佳乃って、誰?」

 その直後、篠崎司は手を伸ばして彼女の顎を持ち上げ、無理やり顔を上げさせて自分と向き合わせた。底冷えする双眸が細められ、その眼差しには探るような色が満ちていた。

「盗み聞きか?」

 桜井昭子は指先を掌に食い込ませ、苦々しく唇の端を吊り上げた。「たまたまよ。気になって聞くのもダメ?」

 篠崎司がこれほど大きな反応を示すからには、きっととても大切な人に違いない。

 その言葉を聞くと、篠崎司は彼女を数秒間じっと見つめ、ようやく手を離した。その眼差しは淡白で、余計な感情は一切含まれていない。「お前には関係ないことだ。気にするな、何も聞くな」

 桜井昭子は彼の反応を全て目に焼き付けた。どうやら、佳乃という名の女性だけが、彼の感情を左右できるらしい。

 五年だ。五年の付き合いがあれば、篠崎司の心に少しは自分の居場所が残るだろうと思っていた。だが事実は、全てが自分の甘い考えだったと証明している。

 誰かが帰ってきたから、自分は場所を空けなければならないのだ。

「安心しろ。金は一筆渡してやる。お前が来世まで暮らしていけるだけのな」

 心に何かが詰まったような気がして、彼女は俯いた。声には掠れが混じる。「いらないわ」

 篠崎司の眼差しが翳り、軽くため息をついた。「昭子、駄々をこねるな」

 桜井昭子、気にするな、何も聞くな、駄々をこねるな……。

 二人の関係において、桜井昭子は常に下の立場だった。

 他人に決められた人生は、この五年で十分だ……。

「篠崎司、あと三ヶ月だけ、時間をくれない?」

 心の奥底に隠していた言葉がようやく口から出ると、桜井昭子は全身から力が抜けるのを感じたが、それでも口元の弧は保ったままだった。

 最後の三ヶ月。篠崎司にそばにいてほしい。最後の美しい夢を見たい。たとえそれが偽りでも構わない。

「理由を言え」

 部屋の冷たい光が篠崎司の体に当たり、彼を一層冷淡に見せる。瞳にあるのはいつもの無関心だけで、彼女の行動に少しの波紋も起きていない。

「私たち、五年の契約だったじゃない? まだ三ヶ月残ってるわ。どうせ、ほんの少しの時間なんだし」彼女はわざと軽い口調で、必死に微笑みを保った。

「お前の理由に説得力はない。金のことなら心配するな。五年も俺に付き合ったんだ、当然お前をないがしろにはしない」篠崎司は習慣的に煙草を一本取り出し、火をつけた。

 彼にとって、桜井昭子の行動は少し駄々をこねているに過ぎない。たまになら構わない、戯れのようなものだ。だが、回数が重なると受け入れがたい。

 桜井昭子は手を強く握りしめ、指先が肉に食い込んだ。自尊心がこみ上げる感情を抑えつけ、髪を耳にかけると、穏やかな笑みを浮かべた。

「その佳乃って人、あなたにとって本当に大事なのね。実は私、ずっと前から結婚したかったの。私たち、終わるならちょうどいいわ。真剣に付き合える彼氏を探しに行けるもの」

 篠崎司が眉間を揉んだ。彼女は知っている。それが篠崎司が怒っているときの些細な仕草だということを。

 だが、彼女が佳乃の名を出したから怒っているのか、それとも彼女が彼氏を作ると言ったから怒っているのか?

「好きにしろ」

 彼は余計な言葉を費やさず、テーブルの上の腕時計を手に取り、背を向けて去っていく。その一歩一歩に、未練は微塵も感じられなかった。

 実際のところ、篠崎司の力をもってすれば、少し調べるだけで、他の男など存在しないことはすぐにわかるはずだ。ただ、彼が心を砕く相手は、決して桜井昭子ではなかった。

 桜井昭子は彼の決然とした背中を見つめる。どうやら、彼は本当にうんざりしてしまったようだ。

「桜井さん、どうしてこんなことを」

 入ってきたのは篠崎司の秘書、須田樹だった。

 彼の手には避妊薬と水が一杯。それは彼女と篠崎司が親密な行為をした後の、必須の儀式だった。

 桜井昭子はためらうことなくそれを飲み込み、須田樹が差し出す小切手を断って、コートのポケットに入っていたブラックカードをテーブルの上に置いた。

「私が受け取るべき分はいただきました。残りは、彼に返しておいてください」

「桜井さん、あなたが言ったことが嘘だとはわかっています。これはやはり……」

「もういいの」桜井昭子は手を振り、その目元には疲労が滲んでいた。

 仕方なく、須田樹も立ち去るしかなかった。

 がらんとした部屋で、桜井昭子は自分の体を少しずつ抱きしめ、ささやかな温もりを得ようとした。

 三ヶ月の時間さえ、くれないなんて。本当に、冷酷な人。

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