紹介
目が覚めた時、私はただ、何もなかったことにしようと心に決めていた。
ところが、私が実の妹のように可愛がって守ってきたあの子、保坂心月が、いつの間にか私の身分を乗っ取り、ネヴィルの婚約者として瀬戸家の邸宅に堂々と住み着いている。
彼女は私を嘲笑った――男に見向きもされない、年増の売れ残りだと。そして私の妊娠を知るや、今度はやけに優しく「海外製の妊婦用ビタミン剤」を届けてくれた。私は笑顔でそれを飲み干した。それが、命を奪うための堕胎薬だとも知らずに――。
チャプター 1
誰ひとり知らない。
彼女が、無数の女が一夜を夢見る男と寝てしまったことを。
立花柊は、見知らぬ男の腕の中で目を覚ました。
全身、何ひとつ身に着けていない。首筋にはキスマークがまだらに残っていて、昨夜がどれほど激しかったのかをいやでも物語っていた。
息が止まる。
ぎこちなく、首だけを横へ向けた。
広い肩。細い腰。
端正な横顔は冷たく硬質で、近寄りがたい気品をまとっている。
その「一夜の相手」は、手の届くはずもない大BOSS。
ユニバ・グループに君臨する絶対的支配者――瀬戸北斗だった。
昼間は社員総会の人混みに紛れ、淡々と低い声でグループ方針を読み上げる彼を見上げていた。
それなのに夜になれば、どういう因果か、そのベッドに自分が這い上がっていたなんて。
立花柊の血の気が引いた。
瀬戸北斗に取り入ろうとした女は、ほとんどが人前から消える。
そんな噂を、彼女は知っている。
まだ若い。
男ひとりのせいで人生を潰されるなんて、まっぴらだった。
立花柊は床に散らばった服を慌ててかき集める。
振り返る勇気もない。瀬戸北斗が起きているかどうかを確かめる勇気など、なおさら。
必死に服を身に着けると、そのまま逃げるように部屋を飛び出した。
出社まではあと20分。
立花柊はただのインターンだ。たとえ直属の上司と一夜の過ちを犯したとしても、遅刻だけはできない。
彼女は火がついたように賃貸の部屋へ駆け戻り、首の赤い痕を隠すため適当にハイネックのシャツを引っかけると、そのままオフィスへ飛び込んだ。
準備を一緒にしていた同僚の女性が、申し訳なさそうに声をかけてくる。
「柊、昨日は急に外せない用事ができちゃって……接待、ひとりで任せてごめんね。でも心月に頼んで、そばにいてもらったの。二人とも……ちゃんと無事に帰れた?」
冷たい大理石の床に、立花柊のさっと青ざめた顔が映る。
唇が勝手に震えた。
足元がふらつき、倒れそうになる。
保坂心月は知っていた?
それなのに、あえてホテルにひとり置き去りにした?
その先に何が起こるか、わからないはずがないのに?
全身から熱が失せ、頭の中が真っ白になる。
周囲の音はすべて遠のき、ぼんやりとした耳鳴りに変わった。
だから気づかなかった。
保坂心月が数人の同僚を引き連れ、堂々と目の前に立ちふさがっていたことに。
まるで、見世物でも待っているみたいな顔で。
「お姉ちゃん――」
保坂心月は甘えるように立花柊の腕へ絡みつく。
けれど、死角に隠れた手には容赦がなかった。手首をぎりっと握り込み、骨が軋むほどの力を込めてくる。
「朝、社員証持ってなかったんだって? 昨日の夜、よっぽど楽しかったのかな。どっかに落としちゃった?」
あからさまな挑発。
しかもわざと、周囲に聞こえるよう声まで張る。
オフィスは、水を打ったように静まり返った。
好奇の視線。探るような視線。
そして、あからさまな侮蔑。
幾十本もの針が、いっせいに立花柊の顔へ突き刺さる。
その場に立っているだけで、肌がひりついた。
重たい前髪がすとんと落ちて、目元を隠す。
感情まで覆い隠すように。
保坂心月は、血のつながらない妹だ。
立花柊は幼いころ、この子を一生守ると誓った。
心月の両親は、自分のせいで死んだ。
その罪悪感は重い鎖となって、十数年ものあいだ彼女を縛りつけている。
どれだけ理不尽な目に遭っても、二人の命の重さには到底かなわない。
立花柊は深く息を吸い、胸の内で荒れ狂う感情を押し殺した。
「ホテルでひとりで寝ただけよ。そういう冗談、やめて。不愉快だから」
「え、ありえない」
保坂心月は周囲に向かっておどけたように目配せし、立花柊の拒絶など最初から存在しないもののように受け流す。
「お姉ちゃんって、もうそんな歳なのに恋愛経験ないでしょ? 私、ほんと心配しちゃう」
「たとえ一晩だけでも、みんな喜んでくれるだけだよ? 笑ったりなんかしないって」
その瞬間。
心月の指先がひねられ、立花柊の腰の柔らかいところを正確につねり上げた。
強い力ではない。
なのにそこは、昨夜瀬戸北斗に散々触れられて、まだ鈍く痺れている場所だった。
「っ……」
立花柊は思わず息を呑む。
顔色が目に見えて不自然に変わり、立ち姿までどこかぎこちなくなる。
事情のわかる人間が見れば、一目だった。
「お姉ちゃん、彼氏いないって言ってたのに?」
保坂心月はにこにこと目を細める。
けれど、その一言一言は容赦なく胸をえぐった。
次の瞬間、侮蔑の気配がどっと押し寄せる。
親しくしていた同僚たちでさえ、微妙に表情を変えていた。
「心月!」
立花柊は低く叱りつけた。
それだけで、全身の力が抜けそうになる。
声を潜め、目の前まで顔を寄せてくる保坂心月をまっすぐ睨みつける。
「いい加減にして」
当然ながら、通じるはずもない。
保坂心月は口元を押さえて肩を震わせ、可憐ぶって笑う。
けれど手は容赦なく、いきなり立花柊の襟元を引き裂いた。
「――っ」
不意打ちだった。
隠す暇もない。
首筋の赤い痕が、白い肌の上にくっきりと浮かび上がる。
保坂心月の目に一瞬、やっぱり、という勝ち誇った光がよぎった。
次の瞬間には、驚きと怒りをない交ぜにした芝居がかった表情へ早変わりしている。
まるで、見てはいけないものを見つけたみたいに。
「お姉ちゃん、昨日の夜ってずいぶん激しかったんだね。せめて首くらい隠せばよかったのに」
「そういえば、部長って前からお姉ちゃんのこと狙ってたよね? 昨日、年会にも来てたし、一晩帰ってなかったって聞いたけど……まさか、その人がお姉ちゃんの彼氏?」
部長の坂東海峰。
40手前の脂ぎった男だ。禿げ上がった頭にビール腹、おまけに女癖も最悪。
部署に若い女性が入るたび下心を隠そうともせず、評判は地に落ちている。
あんな男と噂を立てられるくらいなら、汚水を浴びせられたほうがまだましだった。
立花柊は保坂心月を見た。
ほんの欠片でも、ためらいや罪悪感が見えはしないかと。
――ない。
ひとかけらも。
胸の奥に、骨の髄まで冷え切るような寒気が広がっていく。
それと同時に、どうしようもなくみじめな悲しさが滲んだ。
「お姉ちゃん」
保坂心月は、隠しきれない愉悦を目に滲ませたまま、ねっとりと囁く。
「玉の輿に乗れたら、私のこと忘れないでね」
内心では笑いが止まらないのだろう。
昨夜、泥酔した立花柊をわざとホテルのロビーに放り出し、時間を見計らって坂東海峰へ電話をかけた。
心配しているふりで、立花柊が困っていると教えたのだ。
あの女好きのジジイが、そんな“好機”を見逃すわけがない。
「冗談はやめてって、言ったはずだけど」
立花柊の我慢にも限界はある。
彼女は保坂心月の手を振り払った。
これ以上好き勝手に言わせれば、インターン生活そのものが終わる。
坂東海峰と関係がないことを証明するのは難しくない。ここで本人を突き合わせれば、噂なんてすぐ崩れる。
立花柊が口を開きかけた、そのとき。
背後のエレベーターが、不意にチン、と鳴った。
扉が開く。
灰色のオーダースーツをまとった若い男が、足早に出てくる。
瀬戸北斗の筆頭補佐、立花楓だ。
その後ろには坂東海峰が続いていた。
息も絶え絶えといった様子で。
普段なら部署で威張り散らしている男が、今はへこへこと頭を下げ、必死にこちらへ目配せを送っている。
立花柊は反射的に服の裾を握りしめた。
さっきまで言おうとしていた言葉を喉の奥へ押し込み、さらに深くうつむく。
視線は、ただ自分のつま先だけに落ちた。
忘れようと必死になっていた昨夜の光景が、潮のように押し寄せてくる。
熱を帯びた手。低く漏れる息。
ひとつひとつが、怖いほど鮮明だった。
――私が瀬戸北斗と寝たこと、ばれた……?
最新チャプター
#70 第70章 はぐれ老人
最終更新: 7/23/2026#69 第69章 家族がいない
最終更新: 7/23/2026#68 第68章 俺の名を呼んで
最終更新: 7/23/2026#67 第67章 婚約破棄
最終更新: 7/23/2026#66 第66章 録音暴露
最終更新: 7/23/2026#65 第65章 うまく付き合う
最終更新: 7/23/2026#64 第64章 保温ポット
最終更新: 7/23/2026#63 第63章 自分だけが頼りになる
最終更新: 7/23/2026#62 第62章 母さん、助けてください
最終更新: 7/23/2026#61 第61章 聖母
最終更新: 7/23/2026
おすすめ 😍
妻が去り、妊娠を知った俺は、ただ泣き崩れるしかなかった
しかし、結婚して5年後、彼は離婚を切り出した。その時初めて、彼の想い人が私の父の隠し子(私の異母兄弟)だと知った。
離婚を決意した七海だったが、その時にまさかの妊娠が判明した。
余命宣告された日、帰宅するとベッドに「引き裂かれた愛人の下着」があった
しかし、運命は残酷だ。
病院で「白血病」という絶望的な診断を受けたその日。
震える足で帰宅した私の目に飛び込んできたのは、夫の裏切りの証拠だった。
私たちの神聖な寝室。
そのベッドの上には、無惨に引き裂かれたレースの下着がわざとらしく残されていたのだ。
それは明らかに、夫の愛人からの宣戦布告。
「あなたはもういらない」と嘲笑うかのような、残酷なマウントだった。
命の期限を突きつけられた日に、愛まで失った私。
絶望の淵で、私はある決断を下す。
天才調香師の復讐
私は冷笑を浮かべ、そのクズへの復讐を誓いました。
私はある競合会社と契約を結びました。驚いたことに、その会社のCEOは異常な条件を出してきました——私と結婚しなければならないというのです!
それ以来、私はクズを打ち負かし、彼は私を愛おしく大切にしてくれました...実は彼は長年、密かに私のことを想い続けていたのでした。
地獄の淵で誓った「死」の宣告――裏切り者たちへのレクイエム
雪の中で凍え死にかけた私を救ったのは、復讐の代行者。
「選べ。彼らを許すか、地獄へ送るか」 私の答えは決まっている。
膝をついて泣き言を漏らす夫を見下ろしながら、私は冷たく微笑む。
罪を償う時間よ。地獄の火よりも熱い、復讐の始まりを教えるわ。
氷の君と太陽の私
運命が私を引き戻した——薬を盛られた結婚初夜、彼の腕の中で生まれ変わったのだ。これは私の二度目のチャンス。
かつて逃げ出した男こそが私の運命。彼の狂おしい愛こそが、私の最強の武器。世界が恐れる男を受け入れ、彼の姫となろう。共に、私たちを破滅させた裏切り者どもを灰燼に帰すのだ。
しかし私の突然の献身は、彼に疑念を抱かせる。心を砕いてしまった男に愛を証明するには、どうすればいいのだろう……彼の最も暗い欲望が、私を永遠に縛り付けることだと知りながら。
本物令嬢の正体がばれました
デザイン部のディレクターの席? 本当の娘へ。
何千万円もの価値がある婚約話? 本当の娘へ。
会社中の人間が、彼女という「野良扱いの娘」がどう転げ落ちていくか、笑いものにしようと様子をうかがっていた。
そんなある日、世界限定二十台の高級バイクが会社の前に止まる。降りてきた不良っぽいイケメンが言った。
「妹、兄貴と一緒に帰るぞ」
新谷家の人間「……は?」
そのあとで彼らはようやく知ることになる。
彼女こそ、国内外の美術館の館長たちが面会待ちの列を作る「南先生」と呼ばれるアーティストであり、
新谷グループの全受賞特許の名義人であり、
さらに、伝説の「国家並みの資産を持つ」と噂される周防家の、本当の長女だということを。
大手財閥の若き当主は、封印していた婚約書を取り出し、薄く唇を吊り上げる。
「なるほど。俺の本当の婚約者は、君だったわけか」
舐めるつもり?なら、思い知らせてあげる
ところが、その兄が乗ってきたのはトラクターだった。
ガタガタと揺れるトラクターがたどり着いた先は、まるで古城のような大邸宅。そこで私は思い知る。本当の家族のもとに引き取られた私は、貧しくなるどころか、前よりずっと裕福になっていたのだ。
……だが、ちょっと待ってほしい。なぜ私には突然、婚約者というものが存在するのか。しかもその相手は、私の大学の教授だという。誰か、説明してくれないだろうか。
追放された偽物の娘、その正体は最強でした
あの子が現れたその日、私は『偽物の娘』として家を追い出された。
渡されたのは、わずかな小銭と地方行きの片道切符だけ。
さらに婚約者は私をゴミのように捨て、その日のうちに『本物』であるあの子にプロポーズした。
……上等じゃない。せいぜい勝った気でいればいいわ。
だって彼らは、私の【本当の顔】を何一つ知らないのだから。
名門病院が見放した命を救う『天才外科医』。
オークションで数億円の値を叩き出す『伝説の画家』。
裏社会の闘技場で無敗を誇る『影の女王』。
そして――彼らの全財産すら小銭に思えるほどの『真の巨大財閥の後継者』であることを。
今さら元婚約者が土下座で許しを請おうと、本物の娘が嫉妬で狂いそうになろうと、もう遅い。
かつて私に婚約破棄の書類を叩きつけた冷酷で傲慢なCEOでさえ、今や何かに取り憑かれたように私を追い回し、「もう一度だけチャンスをくれ」とすがりついてくる始末。
私を捨てて、自分たちの人生を『アップグレード』したつもり?
笑わせないで。最初から、圧倒的に上の存在だったのは私のほうよ。
離婚後、ママと子供が世界中で大活躍
本来の花嫁である義理の妹の身代わりとして。
2年間、彼の人生で最も暗い時期に寄り添い続けた。
しかし――
妹の帰還により、彼らの結婚生活は揺らぎ始める。
共に過ごした日々は、妹の存在の前では何の意味も持たないのか。
すべてを奪われた令嬢は、やり直しの人生で微笑む
視界を染めるのは絶望の闇。そして、耳元に届くのは――従妹・原田紀奈の、歪んだ嘲笑。
「お姉ちゃん、恨むなら自分の甘さを恨みなさい」
父の薬をすり替え、母を死に追いやり、兄の事故さえ仕組んだ。すべては、目の前で笑うこの女の仕業だった。
さらに突きつけられる、あまりにも残酷な真実。
「あなたの婚約者はね、あなたが身を削って得たお金で、私への婚約指輪を買ったのよ?」
――すべてを奪われ、絶望の中で命を落とした、はずだった。
しかし、次に目を覚ますと、そこは見覚えのある「19歳の誕生日パーティー」の会場。
前世と同じように、婚約者の七瀬崚介が私に無実の罪を着せ、謝罪を迫っている。
(……でも、もう私は、あの頃の愚かな人形じゃない)
奪われた人生も、向けられた悪意も、そのすべてを覚えている。
今度は、私が奪い返す番。
裏切り者たちに、地獄以上の絶望を――たっぷり利子を付けて、返してあげる。













