紹介
だが、部屋の前で立ち尽くした私の耳に届いたのは、夫の冷酷な声だった。
「あいつと比べるなんて、時間の無駄だ」
夫と友人たちは、献身的に尽くす「良き妻」であるはずの私を酒の肴に嘲笑い、一方で彼の元恋人である林谷由佳を心から称賛していた。
その瞬間、三年間抱き続けた淡い恋心は、跡形もなく消え去った。
私がどれだけ静かに尽くしても、夫にとって私は単なる「計算高い代用品」に過ぎなかったのだ。
その夜、私は夫に離婚届を突きつけた。
鼻で笑い、「嫉妬か? 俺の気を引きたいのか?」と嘲る夫。
だが、私が記入した離婚理由――『夫のインポテンツのため』という一文を見た瞬間、彼の表情が一変した。
夫は私を強引に壁へと追い詰め、冷酷な笑みを浮かべて囁く。
「俺が本当にそうなのか……。今ここで、身体で証明してやろうか?」
チャプター 1
芽衣は雨の中、髙野拓海に車の鍵を届けに来た。だが個室へ入る前に、扉の向こうから話し声が漏れてくる。
「拓海、由佳が帰国したぞ。芽衣とは、いつ離婚するつもりだ?」
芽衣の足が、ぴたりと止まった。
半開きの扉の隙間から見えたのは、ソファに腰を預けた男の姿。
髙野拓海は背もたれに身を沈め、シャツのボタンを二つ外している。覗く鎖骨。長い指先には煙草が一本。ゆらゆらと漂う煙の向こうで、彫りの深い整った横顔が、気怠げに笑っていた。
「だよな」
幼なじみの西田圭介が、からかうように口笛を吹く。
「お前と由佳って、こっちじゃ誰もが認める美男美女だっただろ。あのとき芽衣が横からかっさらわなきゃ、今ごろ子どもだっていたんじゃねえの?」
「ほんとそれ」
誰かが鼻で笑う。
「芽衣みたいな腹黒い女が、髙野夫人とか無理だろ。林谷由佳は今や有名なヴァイオリニストだぞ? 芽衣は? ただの専業主婦。何で張り合えるんだよ」
髙野拓海はゆっくり煙を吐き出した。切れ長の目に、どこか艶めいた色が差す。
「比べようがないな」
ふわりと落ちた一言が、刃みたいに芽衣の胸へ突き刺さった。
顔から血の気が引く。身体がぐらりと揺れる。
――ああ。彼も、そう思っていたんだ。
分かっていたはずなのに。
もっと早く気づくべきだったのに。
その瞬間、掌に鋭い痛みが走った。見れば、鍵を握り締めすぎて先端が皮膚を裂いている。
半時間前、髙野拓海から電話があった。
車の鍵を家に忘れた、と。
傘を取る暇もなく、芽衣は鍵を掴んで飛び出した。
タクシーは捕まらない。だから走った。
3km。20分。雨に打たれ、ずぶ濡れのまま。
……それで、これ。
ほんと、馬鹿みたい。
芽衣は鍵を個室前のシューズボックスの上に置き、赤く滲んだ目を伏せたまま踵を返した。
……
別荘に戻った時には、もう夜10時を回っていた。
灯りをつける。
壁に飾られた結婚写真が目に入る。
かつては甘く見えたその一枚が、今はただ眩しくて、痛かった。
髙野拓海は芽衣の幼なじみだった。
小さい頃からずっと好きだった。
高校を卒業したら想いを伝える――そう決めていたのに、その前に彼は林谷由佳と付き合い始めた。
二人は二年も交際し、結婚間近だった。
だが、その頃、髙野家に異変が起きた。
拓海の父親が投資に失敗し、一気に破産した。
そして、その夜のうちに林谷由佳は姿を消した。
よりにもよってその時期、芽衣は髙野爺さんの命を救った。
芽衣が拓海を想っていると知った爺さんは、独断で二人の結婚を決め、拓海にそれを強いた。
拓海が望んでいないことくらい、芽衣にも分かっていた。
それでも。
相手は、子どもの頃からずっと好きだった人だった。
だから芽衣は、恥知らずだと自分を責めながらも、爺さんの采配に従った。
拓海は芽衣を、隙につけ込んだ女だと思っていた。
恩を笠に着て結婚を迫った女だと思っていた。
結婚して三年、一度としてまともに触れてこなかった。
けれど芽衣は、それでもよかった。
同じ屋根の下で暮らしていれば、いつか情が生まれる。
そう信じていた。
だから仕事もやめた。
進んで専業主婦になった。
彼が忙しければ、静かに待った。
彼が冷たければ、黙って受け入れた。
自分は林谷由佳じゃない。
でも、林谷由佳の一万倍、尽くすことはできる。
林谷由佳は去った。けれど自分は去らない。
そう思っていたのに。
今日、彼の口からはっきり「比べようがない」と聞かされた瞬間、芽衣はふっと、何もかもが空しくなった。
結局、彼の目にも、自分は他の連中が言うのと同じ女でしかなかったのだ。
横から奪った女。
腹に一物ある女。
計算づくで高野家に入り込んだ、あざとい女。
三年間の気遣いも、三年間の我慢も、彼にとっては、地位にしがみつくための小細工にしか見えなかったのだろう。
林谷由佳が帰ってきた。
なら、自分は退くべきだ。
芽衣は潤んだ目を伏せ、シャワーを浴びて、清潔な服に着替えた。
それからパソコンを開き、離婚協議書を書き始める。
離婚理由の欄に差しかかった時、報復めいた感情が胸の奥からせり上がり、唇を噛みながら数文字を書き込んだ。
書き終えるとそれを手にリビングへ行き、髙野拓海の帰りを待った。
どれほど経っただろう。
やがて窓の外でエンジン音が鳴った。
まもなく、扉が開く。
髙野拓海が入ってくる。
広い肩、引き締まった腰。全身から漂う矜持と冷たさは、立っているだけで人を圧する。
ジャケットを脱ぎ、カフスを外す。
露わになった前腕は、無駄なく締まり、力強い。
髙野家は帝京市でも指折りの富豪だ。
髙野拓海はその一人息子。
幼い頃から叩き込まれたのは、将棋、騎射、経済、商才。18歳で博士課程を終え留学し、21歳で家業を継いだ。そして、わずか5年で髙野グループを華国の長者番付に押し上げた。
彼の人生は、凡人が一生かけても届かない高みにある。
芽衣はそんな彼を見つめ、ふいに思う。
目の前に立っているのに、どうしてこんなにも遠いのだろう、と。
髙野拓海が歩み寄り、艶を含んだ低い声で言った。
「どうして鍵を入口に置いて帰った」
芽衣は彼を見据える。
「中に入ってきてほしかったの?」
水を飲もうとした彼の手が、わずかに止まった。
細い目が芽衣を一瞥する。
きっと、答える価値もない問いだと思ったのだろう。
彼は何も言わなかった。
芽衣も追及しない。
ただ、テーブルの上の白い紙を見つめる。
「林谷由佳、帰ってきたのね」
その言葉に、拓海の淡々とした表情がわずかに揺れた。
彼は芽衣を見る。その目からは何の感情も読み取れない。
「君に関係あるか?」
芽衣は小さく笑った。
三年。
彼はいつも、この口調だった。
冷たすぎず、近すぎず。
同じ屋根の下にいるだけの赤の他人へ向ける声。
いや、他人以下かもしれない。
他人になら、彼だって少しくらいは愛想を見せる。
芽衣には、その手間すら惜しむのだ。
でも、もうどうでもいい。
「あるわよ」芽衣は言った。「だって、私はあなたの妻だもの」
テーブルの上の書類を手に取り、彼の視線をまっすぐ受け止める。
「自分の夫が元恋人とやり直そうとしてるなら、妻としては空気を読んで身を引くべきでしょう?」
髙野拓海が目を細めた。
芽衣は唇の端を少しだけ上げる。
「髙野拓海、離婚しましょう」
空気が一瞬、しんと静まる。
彼は、まさかそんな言葉が出るとは思っていなかったのだろう。
瞳の奥に淡い波紋が走った。
「……何だって?」
「離婚しましょう、って言ったの」芽衣は感情を失ったみたいに繰り返す。「どう? 嬉しい?」
「芽衣」
髙野拓海は彼女の名をフルネームで呼び、その目で逃がさぬように見据えた。
「あれだけ手を尽くしてでも俺と一緒になりたがったくせに、今さら離婚だと?」
過去に触れられ、芽衣の長い睫毛がかすかに震える。
「好きに思えばいいわ。ここ数年は、私があなたに迷惑をかけたってことにしておく。だから、今はきれいに別れましょう」
「きれいに、だと?」
髙野拓海は節だった指でネクタイをゆるく引いた。
次の瞬間、ぐっと身を屈め、芽衣へ迫る。逞しい腕が芽衣の横へ伸び、狭い空間へ閉じ込めた。
「嫉妬してるだけだろ。林谷由佳が戻ってきたから」
薄く笑う。
冷たい笑みだった。
「離婚だなんて言えば、俺の気を引けるとでも思ったか。そうして自分の立場を守るつもりか?」
芽衣は無意識に、手の中の離婚協議書を強く握り締めた。
「芽衣、言っておくが――無駄だ」
男の嘲るような声が、刃のように耳を貫く。
芽衣は喉を一度強く鳴らし、とうとう堪え切れず、離婚協議書を彼の胸に叩きつけた。
「髙野拓海、自惚れも大概にして」
胸の奥の酸っぱい痛みを押し殺し、言い放つ。
「私はもう署名したわ。問題ないなら、髙野社長もサインしてくださる?」
書類は彼の胸元からするりと滑り落ちた。
髙野拓海は冷笑し、それを拾い上げる。
視線を下へ走らせ――離婚理由の欄を見た瞬間、目の色が一気に沈んだ。
【離婚理由:夫のED】
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【転生】
再び目を開けると、婚約が公の場で発表されたあの瞬間に戻っていた。
周防文哉が愛おしそうに私を見つめ、優しく囁く。
「俺と結婚してくれ。」
次の瞬間――若きヤクザの組長が私の腕を掴み、力強く抱き寄せた。銃口は真っ直ぐ周防文哉に向けられている。
彼が、私の代わりに答えた。
「――断る」
今さら跪く元夫を置き去りに、大富豪の甘い執着愛が始まりました
あの男にとって、私は自分の出世や欲望のために利用する「モノ」でしかなかったのだ。
だが、あの男は夢にも思っていなかった。
自分がゴミのように投げ捨てた贈り物が、この国で最も恐れられ、最も力を持つ男の「かけがえのない愛する人」になるなんて。
やがて絶望を知り、私の前に跪いて許しを乞う元夫。
その惨めな姿を見下ろす私を、最高峰の男が背後から抱き寄せ、耳元で低く甘く唸った。
「俺の子供を身ごもっておきながら、一体どこへ行こうというんだ?」
――捨てられた妻の反撃と、逃げられない絶対的な愛が、ここから始まる。
隠された天才:裏の顔が多すぎて、気づけば世界のトップを震撼させていた件
育ての親の一家に家を追い出されたあの日、私は微笑みを浮かべながら、奴らが施しとしてよこした金をゴミ箱へと投げ捨てた。
誰も想像すらできないだろう。この私が、数々の名門貴族や権力者たちが大金を積んで列をなし、首を長くして診察を待つ伝説の名医——【暁】だなんて。
私が時価総額数十億ドルのファッション帝国を裏で支配していることも、ウォール街の株価をたった一回の取引で大暴落させられることも、誰も知らない。私はその正体を、この平凡で冴えない素顔の裏にすべて隠し持っていた。
さらに劇的なことに、私の実の親はこの街で頂点に君臨する最高峰の大富豪だった。
そして私の婚約者——すでに顔を合わせているにもかかわらず、その正体を知らなかったあの男こそ、この街の誰もが名前を聞くだけで震え上がる、ビジネス界の冷酷な死神:梅原晴琉だったのだ。
ある日、彼は私の手を執り、ゆっくりと距離を詰めると、耳元で低く囁いた。
「俺のこの鼓動、今なら感じられるか?」
私は至って真面目な顔で彼の胸に手を当て、大真面目にこう返した。
「心拍数は確かに少し高めですが、非常に健康的です。心配ありませんよ」
彼は一瞬呆気にとられ、それからふっと吹き出した。その瞬間の彼の笑顔に、私の心臓もなぜかドクンと跳ねた。それは、自分自身でも説明のつかない初めての衝動だった。
だが、彼が私の真実に一歩ずつ近づくにつれ……私の心は揺らぎ始めている。自分の最後の秘密を、あとどれくらい隠し通せるのだろうか。
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