紹介
マンハッタンの最上階ペントハウス。あの男は、十八ヶ月もの間、私を夜の闇に隠し続けた。
「君は特別だ」
そう囁かれても、私は知っていた。都合のいい玩具。いつでも捨てられる影の存在。決して陽の当たる場所には立てない女。
元妻の帰還。その瞬間、全てが崩れ落ちた。
真実は残酷だった。私はただ、寂しい夜を慰める「お手伝いさん」でしかなかったのだ。
だから逃げた。パリの街へ。彼の子供と共に。
しかし、逃げ切れるはずもなく......
「息子を返せ。そして君も、俺の元に戻れ」
三年ぶりに現れた彼は、全てを取り戻そうとする。償いの言葉と共に。
でも、もう騙されない。
おこぼれで満足していた、あの哀れな少女はもういない。
今度こそ証明してもらう。私が「真夜中だけの女」以上の価値を持つことを~
チャプター 1
時計が午後十一時半を回った頃、いつものエレベーターの到着音が響いた。
さくらのフランス語の宿題から顔を上げると、ソファの上で身じろぎすると絹の浴衣が革に擦れて微かな音を立てた。私はエレベーターの扉が静かに開くのをじっと見つめていた。
和也が書斎に足を踏み入れた。ネクタイは緩められ、ジャケットは片腕にかけられている。疲れ切っているはずなのに、彼の佇まいには私の心を躍らせる何かがあった。まるで、足を踏み入れた部屋すべてを支配するような威圧感があった。
彼のシャツはしわくちゃで、黒い髪は何度も手ぐしを通したせいで乱れていた。だが、それがかえって彼を魅力的に見せていた。生々しくて、人間味があって。
その淡い青色の瞳と目が合うと、私の胸がいつものようにきゅっと締め付けられた。十八か月たっても、まだ彼に慣れることができずにいた。
「さくらは寝たか?」彼はそう尋ねながら、私が片付けることを当然のようにジャケットを放り投げた。
「ぐっすりよ。明日はチュロスの作り方を教えてほしいんだって」彼の視線が私の顔から、はだけたローブから覗く鎖骨に移ったのを見つめた。
「あの子の相手が本当にうまいな」近づきながら、彼の声が低くなる。「俺にも優しくしてくれないか?」
いつものゲーム。彼の指が私のローブの帯に触れる。私はそれを解かれるままにした。だって、これが私たちのやり方なのだから。
彼の指先は自信に満ち、貪欲だった。まるで私の身体をもう一度記憶し直すかのように、全ての曲線を丁寧になぞっていく。私たちは絹と上質なコットンにくるまれて、革のソファに倒れ込んだ。彼の激しいキスに私は目が回り、夢中になった。ああ、私はこの男に中毒なんだ。まるで満たされないとでもいうように私を求める。
情熱に包まれる中で、いつの間にか私は寝室に運ばれていた。
和也の欲望は強烈だった。昔からずっと。そして私は、彼のその食欲に応える術を学んでいた。
けれど、慣れた手つきで体を重ね、彼がいつものように激しく求めてくるとき、苦い考えを振り払うことができなかった。彼にとって、これもただの取引の一つに過ぎないのだろうか?
午前七時、和也の携帯が鳴って、私たちは二人ともはっと目を覚ました。
隣で彼の体が強張らせるのを感じた。私の腰から腕を抜き、携帯に手を伸ばす。
「あと一時間で市場が開く」彼はそう呟き、すでにメールをスクロールしていた。
彼の気を引きたくて、私は体を彼に寄せた。「もう少し、ここにいてくれない?」
「無理だ。重要な日なんだ」彼はすでに起き上がり、振り返りもせずにバスルームへ向かう。「また今夜」
その冷たい態度が胸に刺さったが、私はそれを表に出さない方法を身につけていた。代わりに、私はベッドから滑り出し、いつもの作業を始めた。シーツを伸ばし、枕を整え、二人の痕跡をすべて消していく。まるで最初から何もなかったかのように。
「絵里!」廊下からさくらの声がした。
しまった。和也のクローゼットからローブを掴み、深呼吸をして気持ちを切り替え、家庭教師としての顔を作る。そんな使い分けにもう疲れ始めていた。
「ええ、入っていいわよ」
さくらが寝癖のついたブロンドの髪で、ぴょんぴょんと跳ねるように入ってきた。「よく眠れた? 髪、変だよ」
頬に熱が集中した。「おはよう。さあ、歯を磨いてきて。今日はフランス語の授業よ」
「チュロスのレシピ、フランス語でやってもいい?」彼女は興奮で体を震わせていた。
「もちろんよ。さあ、行って」
彼女がスキップして去っていく中、和也の鏡に映る自分の姿が目に入った。乱れた髪、腫れぼったい唇、後ろめたさを秘めた瞳。私はまさしく、自分が何者であるかを体現していた。雇い主のベッドで夜を過ごした使用人に。
書斎は朝の光で明るく、壁はさくらの描いた絵で埋め尽くされていた。彼女は机に向かい、フランス語のワークブックの上で鉛筆を握り、完全に集中していた。
「トレビアン、さくら。『famille』ってどういう意味?」
「家族!」彼女はにこっと笑い、それから真剣な顔になった。「絵里は、ずっと私たちと一緒にいてくれる? 本当のママみたいに」
その言葉に胸を強く打たれた。私はコーヒーカップを置き、必死で適切な答えを探した。「さくらが必要としてくれる限り、私はここにいるわ」
「でも、それじ同じじゃない」その青い瞳――和也の瞳――が、落ち着かないほど真剣に私を見つめていた。
私が答える前に、書斎のドアが開いた。家政婦長の渡辺さんが、いつもの効率的な身のこなしで、銀のティーセットを持ってきた。
「水原さん」彼女が呼んだ私の姓は、冷たく響いた。「藤原様が今夜のゲストリストを確認するようおっしゃっています。すべてが適切に行われるように」
そつまり、身の程をわきまえろということだった。
「承知いたしました。ありがとうございます、渡辺さん」
さくらは私たちの間を行き来する視線に、よくわからないながらも緊張を感じていた。「ディナーパーティーって何?」
「大人の用事よ。さあ、フランス語に戻りましょう」
だが、その瞬間の空気が重くなった。渡辺さんのヒールの音が遠ざかるにつれて、見えない鎖が再び私を縛りつけるのを感じた。
午後八時までには、最上階のマンションはM市のエリートたちの社交場へと姿に変わっていた。クリスタルのシャンデリアが、金融界のエリートたちの上に温かい光を投げかけ、彼らは用意された料理と高級ワインを片手に談笑している。
私は家庭教師という立場で、幽霊のように人混みをすり抜け、グラスを満たしていった。
和也は自然に場を仕切っていたが、私の胸を締め付けたのはヴィクトリアとのやり取りだった。彼女は私がにないものをすべて持っていた。長身でブロンド、上流階級の優雅さ。彼女は和也の注意を完全に引きつけ、身を寄せて何かを囁くと、彼は微笑んだ。
「和也のお嬢さんは本当に素晴らしいわ」私が彼女のワインを注ぎに近づいたとき、ヴィクトリアが言った。「きっと素晴らしい方が面倒を見ていらっしゃるのね」
私は凍りついた。手が止まった。
和也の視線が、一瞬だけ私に向けられた。「さくらの家庭教師は非常にプロフェッショナルでね。絵里、前菜を手伝ってくれるか?」
「かしこまりました」その言葉は苦々しかった。
ヴィクトリアは私を一瞥すらしなかった。彼女にとって、私は透明人間だった。そこにいても気づかれない存在。
キッチンに引き下がると、彼らの会話は名門校や別荘での休暇といった、私には縁のない富裕層の話題へと続いていた。
「私はただの使用人」私は苦々しく自分に言い聞かせた。「それ以上じゃない」
最後の客が帰る頃には、私は和也のクローゼットで、彼が椅子に無造作にかけたグレーのスーツをハンガーにかけていた。
それはいつの間にか身についてしまった習慣だった。まるで本当の妻であるかのように、彼の後を片付ける。ハンガーに手を伸ばしたとき、私は無意識にポケットを確認した。
指が搭乗券に触れた。
L市からN市まで、。先週の火曜日。
心臓が止まった。ロサンゼルス。美咲が住んでいる場所。
紙が手の中で震えた。私がここでさくらにフランス語を教え、チュロスを作っている間に、彼は遠く離れた場所で元妻と一緒にいたのだ。
「絵里?」
振り返ると、和也が戸口に立っていた。腰にはタオルを巻き、胸に水滴を光らせて。彼の視線はすぐに搭乗券を見つけた。
「先週、ロサンゼルスに行ってたの?」声がほとんど出なかった。
彼の表情が驚きから、何かを隠すようなものへと変わった。「絵里……」
「彼女に会いに行ったのね。美咲に」
私たちはクローゼット越しに見つめ合った――半裸で捕らえられた彼と、服は着ているのに生身を晒しているような気分でいる私。
「これは俺たちの約束とは関係ない」彼は冷たく言った。「俺は自分の行動を誰かに報告する義務はない」
私たちの関係。まるで私が、彼が金で買うものであるかのように。
「そうね」私は慎重に搭乗券を彼のポケットに戻した。「もちろん、そんな必要はありませんわ、藤原様」
そんな呼び方に内心うんざりしていたが、私はすでに彼の横を通り過ぎていた。裸足が大理石の床の上を音もなく進む。
機械的に寝室に戻り、客への給仕で着ていた黒いドレスを脱いだ。彼が買ってくれたシルクのナイトガウンが肌に冷たく触れた――この美しい牢獄のように。
背後で和也がベッドに入る気配がした。彼の呼吸はもう落ち着いている。何事もなかったかのように。私の世界が音を立てて崩れ落ちたというのに。
鏡の中の自分と目が合った――高価なシルクのガウン、何億円もする最上階のマンション。どう見てもここに相応しい女性に見える。でもそれは幻想だった。
「十八か月」鏡の中の自分に向かって呟いた。「私は何をしていたんだろう」
答えはもうわかっていた。だからこそ恐ろしかった。私はきれいな鳥籠で夢を見て、体だけの関係を愛と、束の間の親密さを絆と勘違いしていたのだ。
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