紹介
緒方廷治は、私の中で果てながら、うっとりと姉の名を口にした。
あの日から三年。私はずっと、姉・希実の哀れな影として生きてきた。
廷治は私の大学合格通知を破り捨て、希実が死の間際に着ていたシルクのドレスを無理やり着せつけ、避妊薬を喉の奥に押し込んだ。涙にむせび、息もできない私をよそに。
周囲は口を揃えて言った。「霞澄、お前が希実を殺したんだ。お前は彼女に命を借りている」と。
実の両親でさえ、私に唾を吐きかけて罵った。「なぜお前が死ななかったのか」と。
それでも私は、あらゆる屈辱を呑み込んだ。耐え続ければいつか真実が明らかになり、この借りを返せる——そう信じて、ただひたすらに耐え抜いた。
だが、あの雨の夜、私はついにその声を耳にした。姉・希実の声を。一本の電話越しに、無邪気で退屈そうな愉悦を滲ませて、彼女はこう言っていた。
「ああ、あれね、ただの冗談だったのよ。まさか本気にするなんて思わなくて。霞澄が犬みたいに廷治の足元を這いずり回って、私の服を着て、私の代役をやってるのを見るのが……正直、ここ数年で一番おもしろい暇つぶしだったわ」
その瞬間、私の世界は音を立てて崩れ去った。
私の苦しみのすべては、彼女の歪んだ遊びにすぎなかった。愛した男も、血を分けた家族でさえも——皆が結託して私を壊し、ただ彼女の笑顔のために動いていたのだ。
私は勢いよく個室のドアを開け放ち、全員の目の前で、希実の頬を思い切り張り飛ばした。
「ゲームがしたいなら、そう、受けて立ってあげる」
その後、妊娠検査の結果を緒方廷治に叩きつけると、彼は半狂乱になり、必死に私を引き止めようとした。
「緒方廷治、あなたにこの子の父親になる資格はない。代わりの人形でも探しなさい——私は、もう行くから」
チャプター 1
「希実……」
情が昂りきったその瞬間、緒方廷治は――松本霞澄を抱きながら、姉の名を呼んだ。
屈辱の涙が霞澄の目尻からつうっと落ちる。けれど彼女は、しばらくしてから従順に腕を回し、彼の身体をきつく抱き返した。
三年前。松本希実は海に身を投げた。
死の間際、最後にかけた電話は霞澄宛てだった。だがあのとき霞澄は研究室にいて、着信に気づかなかった。
希実を心の底から愛していた緒方廷治は、その責任を霞澄に押しつけた。
退学を強要し、希実の真似をさせ、陽の当たらない愛人にした。
霞澄は泣きも喚きもしない。ただ彼の怒りを受け止め続けた。
自分自身もまた、あの電話に出られなかったことを悔いていたから。
熱が冷めると、廷治は冷淡に身を起こし、避妊薬を霞澄の身体に放った。
疲れきった身体を支えながら、錠剤を無理やり飲み込む。喉の奥がむかむかして、吐きそうになる。
最近、胃の具合が悪いのか――とにかく吐き気がひどい。
十分以上も手間取っていると、緒方家の執事が迎えに来て促した。
緒方廷治は決して、霞澄を自分の家に泊めない。どれだけ遅くなろうと、どれだけ疲れていようと、彼女は出ていかなければならなかった。
彼にとって霞澄は、呼べば来て、用が済めば捨てる玩具。
胸に刻んだ初恋を弔うための代用品にすぎない。
霞澄は黙々と支度を早めた。
緒方家の門を出て、癖のように振り返る。
二階の窓辺に、すらりとした影が見えた気がした。
目の奥の痛みをこすり、もう一度見る。そこには誰もいない。
霞澄は自嘲気味に笑った。
――幻だ。あの人は私を憎むことで手一杯だ。見送るはずがない。
一時間後、霞澄は松本家に戻った。
玄関を入った瞬間、茶碗が飛んできて、額にどん、と当たる。
鮮血が白い額を伝い、あっという間に整った顔を汚した。
だが松本奥さんは微塵も痛まなかった。指を突きつけ、怒鳴り散らす。
「役立たず! 男ひとり繋ぎ止められないなんて。あのとき死んだのが、どうしてあんたじゃないの!」
胸がぎゅっと痛んだ。
姉の死は、もともと温厚だった緒方廷治を偏執と暴虐に変えた。
それだけじゃない。実の両親までも、苛立ちをぶつける存在に変えてしまった。
そして霞澄は、罪の元凶として黙って受け続ける。
奥さんは新聞を霞澄に叩きつけた。大見出しが目に刺さる。
【緒方・新谷両家、近く婚姻へ。帝都資本、勢力図激変か】
その瞬間、息が止まった。
緒方廷治が……結婚?
一生憎む、死ぬまで苦しめると言い捨てた男が、別の女を娶る?
――それはつまり。ようやく憎しみを手放し、私を解放してくれるということ?
虚しさ、軽さ、そして胸の奥に隠れていた、ほんのわずかな悔しさが一気に押し寄せる。
「パァン!」
呆然としていた霞澄の頬を、奥さんの平手が打った。
「聞いてるの? 黙って何よ! 希実が死ぬ前だって、あんたなんかに助けは求められなかった。彼氏ひとりも守れないなら、生きてる価値ある?」
愛娘を失った母は、狂ったみたいだった。
泣き叫び、霞澄を家から叩き出し、緒方廷治に頭を下げて翻意させて来いと命じる。
「できないなら、二度と帰ってくるな!」
追い出された霞澄は、月光を見上げた。
額の傷はじくじく痛むのに、胸の痛みのほうがずっと重い。
――こんな贖罪の日々が、まだ続くのだろうか。
霞澄は緒方廷治に電話をかけた。繋がらない。
いつだって彼から呼ばれるだけで、彼女から連絡を取る術はない。
最後に、彼の助手へ伝言を残した。
三十分後、親友の羽田絵亜が霞澄を拾い、家に連れ帰った。
傷口を丁寧に処置し終えたところで、絵亜は堪えきれず爆発する。
「ほんっとムカつく! あんたのお姉さんがいなくなって何年よ。まだそんな扱い? あれは自殺でしょ。責任って言うなら、みんなにある。なんであんただけ!」
霞澄は絵亜の手を握り、静かに首を振った。
表向きは明るく派手だった姉が、裏で重度のうつだった。
それに気づけなかった自分は、妹として失格だと思っている。
そして、出られなかったあの電話。あれもまた、喉に刺さった棘だ。
この罪は、自分で背負いたい。
説得できなかった絵亜は、はぁっと大きくため息をつく。
少し考え、霞澄の手首をぐっと掴んだ。
「もう、今夜は全部忘れよ。連れ出してやる。騒ぐ!」
絵亜は有無を言わさず霞澄を帝都最大のバーへ連れて行き、若いホストを四人も呼んだ。
霞澄は慣れない空気に落ち着かず、すぐ「トイレ」と席を外した。
鏡の前で髪を整えていると、緒方廷治から電話が鳴った。
「俺に何の用だ」
相変わらず氷みたいに硬い声。
霞澄は思わず背筋を伸ばす。
「あの……新谷明珠さんと、結婚するんですか」
沈黙のあと、嘲るような笑いが返ってきた。
「それを聞いてどうする」
どうする――。
母の望むみたいに、尊厳を捨てて「結婚しないで」と泣きつく?
できない。
結局、震える声で言った。
「……あなたが結婚するなら。私たち、終わりにできますか」
当たり前のはずなのに、廷治は大笑いでも聞いたかのようだった。
「終わり? 松本霞澄、どんな夢見てる」
身体が固まった。
結婚しても終わらせない?
私を、浮気相手のまま飼うつもり?
屈辱は底だと思っていた。けれど彼は、さらに深い穴を掘る。
「……どうしたら、放してくれるんですか」
廷治は冷笑した。
「希実を生き返らせたらな」
通話が切れる。
霞澄は鏡に映る憔悴した自分を見つめ、底なしの絶望に沈んだ。
――死にたい。
そのとき、外から聞き覚えのある声がした。
「いやぁ、ほんと冗談のつもりだったのにさ。まさかみんな本気にするなんて」
「このままだと緒方廷治が別の女と結婚しちゃうじゃん。そしたら私、完全にやらかしたことになるし」
「三年もチャンス与えたのに、あの妹ほんと使えない。男の心ひとつ掴めないんだもん」
「パパもママも最初から知ってたよ。うまく丸めてくれるって。緒方廷治? あんなに私のこと好きなんだから、ちょっと甘えればいいだけ」
「じゃ、トイレ行くから切るね」
全身が氷水に沈んだみたいに震えた。
松本希実――生きている?
最新チャプター
#60 第60章 俺の女に近づくな
最終更新: 6/25/2026#59 第59章 引っ越してきて、俺と一緒に住んで
最終更新: 6/25/2026#58 第58章 代わりのないものなどない
最終更新: 6/25/2026#57 第57章 本当に?
最終更新: 6/25/2026#56 第56章 世界で最も幸せな女性
最終更新: 6/25/2026#55 第55章 身の程知らず
最終更新: 6/25/2026#54 第54章 松本家の姉妹は一人もまともな奴じゃない
最終更新: 6/25/2026#53 第53章 この若い女を侮った
最終更新: 6/25/2026#52 第52章 少女時代はすでに過去となった
最終更新: 6/25/2026#51 第51章 帝都を離れ、二度と戻らない
最終更新: 6/25/2026
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最強ベビーと難攻不落のママ
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しかし、ある事故をきっかけに、あのときの男性が彼であったことを知るのだった。
裏切られた後に億万長者に甘やかされて
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不倫夫を捨てた夜、私は新しい彼に抱かれる
しかし結婚7年目、夫は秘書との不倫に溺れた。
私の誕生日に愛人と旅行に行き、結婚記念日にはあろうことか、私たちの寝室で彼女を抱いた夫。
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「どうせ俺から離れられないだろう」
そう高をくくっていた夫の顔に、受理された離婚届を叩きつける。
「今この瞬間から、私の人生から消え失せて!」
初めて焦燥に駆られ、すがりついてくる夫。
その夜、鳴り止まない私のスマホに出たのは、新しい恋人の彼だった。
「知らないのか?」
受話器の向こうで、彼は低く笑った。
「良き元カレというのは、死人のように静かなものだよ?」
「彼女を出せ!」と激昂する元夫に、彼は冷たく言い放つ。
「それは無理だね」
私の寝顔に優しくキスを落としながら、彼は勝ち誇ったように告げた。
「彼女はクタクタになって、さっき眠ってしまったから」
離婚カウントダウン ~クズ夫の世話なんて、誰がするか!
奇跡的に視力を取り戻した私が最初に目にしたもの。それは、愛人と絡み合う『献身的な夫』の姿だった。彼の『揺るぎない愛』など真っ赤な嘘。すべては私の莫大な財産を奪うための策略に過ぎなかったのだ。
今度は私が騙す番だ。証拠を徹底的に集め、彼からすべてを奪い取ってやる。
だが、私の復讐劇は予期せぬ展開を迎える。街で最も強大な権力を持ち、冷徹と噂される大富豪が現れたのだ。彼は私の秘密――目が見えていること――を知っていた。そして、悪魔のような取引を持ちかける。
『俺の個人秘書になって借金を返せ。あの夫への制裁……俺も手を貸してやろう』
愚かな夫は、盲目の私を弱者だと信じ込んでいる。だが彼は間もなく思い知ることになるだろう。
視力を取り戻した資産家の妻ほど、危険な存在はないということを。













