紹介
ある日、隣の部屋から血の匂いが漂ってきた。おばあさんの身に何かあったのかもしれない、そう思った。
しかし、ドアを押し開けたその瞬間、私は悟った。もう終わりだ、と。
殺人現場に、足を踏み入れてしまったのだ。
犯人は、まだ部屋の中にいる。
賭けるしかない。
この灰白色の瞳が、血に飢えたあの目を欺けるかどうかに。
私は血の匂いが充満する部屋に足を踏み入れ、死体のある方へと笑いかけながら、声を張り上げた。
「おばあちゃん、スーパーでみかんが安かったから、少しお裾分けに来たよ……」
チャプター 1
血の匂いがした。
その匂いは細い赤い糸のように、隣の203号室のドアの隙間から這い出し、私の足首に絡みついてくるようだった。
私は買ってきたばかりのみかんを提げ、203号室の前で足を止めた。
203号室には、玉井というおばあちゃんが住んでいる。
七十代の独り暮らしで、信心深く、夫も子供もいない。だからこそ、隣に住む目の見えない私にとても優しく、日頃から何かと世話を焼いてくれていた。
「礼子ちゃんが私の孫だったらよかったのにねえ」
彼女はいつも、そう言って目を細めていた。
だから私も、彼女のことを気にかけていたのだ。
どうして血の匂いがするのだろう? 玉井さんに何かあったのだろうか。転んだのか、怪我をしたのか。
私は203号室のドアを軽く叩いた。
コン、コン、コン。
返事はない。
まさか、気絶しているのでは?
いけない!
私の手は自然と下へ滑り、冷たい球形のドアノブを握りしめ、そっと回した——。
堰を切ったように血の匂いが押し寄せ、その濃密な鉄錆の臭気の中に、別の匂いが混じっていることに気づいた。
それは、安物の煙草と古びた革、そして極度の緊張状態にある人間が分泌する、あの酸っぱい汗の臭いだ。
この部屋に、見知らぬ男がいる。
私は瞬時に理解した。殺人現場に迷い込んでしまったのだと。
逃げる?
だめだ。
今ここで背を向けて走ったり、少しでも恐怖の表情を見せたりすれば、背後の犯人は二秒で追いつくだろう。この狭い廊下で、盲人の私が死に物狂いの凶悪犯から逃げ切れるはずがない。
演じるしかない。
この見えない目で、あの見える目を騙し通すのだ。
その瞬間、私の右足はすでに玄関のタタキを踏んでいた。
私は努めて明るい声を出した。
「玉井さん、スーパーでみかんがセールだったの。たくさん買ったから、いくつかお裾分けしようと思って」
部屋の中に人の声はない。だが、衣擦れの極めて微かな音が聞こえた。
音はリビングの方角、私から五メートルも離れていない場所からだ。
そこに誰かがいる。
その人物は息を殺し、玄関に立つ私を死人のような目で見つめているはずだ。
自分が盲人であることを、これほど感謝したことはない。
私の瞳は灰白色に濁り、人の姿を映すことはないのだから。
「あれ? いないのかな?」
私は小首を傾げ、耳を澄ます仕草をした。
「おかしいな、鍵は開いてたのに……」
独り言のように呟く。
犯人の視線が、私の全身に張り付いているのを感じる。
私はさらに二歩、奥へと足を進め、みかんの入ったレジ袋を玄関の靴箱の上に置いた。
「玉井さん、公園に野良猫の餌やりに行ってるのかも。みかん、ここに置いておこう。帰ってきたら私が来たってわかるよね」
私は苦笑しながら首を振り、そして踵を返した。
背を向けた瞬間、背中の筋肉が痙攣しそうになる。
私は自分に言い聞かせた。
走るな。
絶対に走るな。
いつものペースで歩くんだ。
白杖で地面を二回突き、ドア枠を探るふりをして、一歩、二歩、203号室から出た。
背手でドアを閉めた瞬間、膝から力が抜けそうになった。
だが、立ち止まるわけにはいかない。
私は白杖を突き続け、調子外れな鼻歌を口ずさみながら、隣の202号室——つまり私の家の前まで歩いた。
鍵を取り出す。
手が激しく震えている。鍵先が鍵穴の縁を擦り、不快な金属音を立てた。
早く入れ! 早く!
心の中では絶叫していたが、手元だけは盲人特有の不器用さを装わなければならない。ようやく、鍵が穴に吸い込まれた。
回す、押す、入る。
閉める、ロックする。
カチャリ。
デッドボルトが飛び出す音と共に、私は全身の骨を抜かれたように、ドアに背中を預けて滑り落ちた。
震える指で、110番を押す。
通報を終え、電話を切った瞬間、背中の服が冷や汗でぐっしょりと濡れていることに気づいた。
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周囲から16年間ずっと忌み嫌われてきたこの肉体の中で、私はわずか3秒で状況を理解した――。
「死体への憑依、つまり――転生だ」
元の肉体の持ち主は、誰もが容赦なく踏みにじる、お人好しの「いじめられっ子」だった。
継母は慢性的な毒物で彼女の身体を破壊し、実の妹は彼女を裏切って罠に嵌め、クラスメイトは彼女を暗闇に閉じ込めて冷水を浴びせ、教師さえも一緒になって彼女を踏みつけにする。
だが、あいにく。
今この身体の中にいるのは、暗殺組織のトップだ。
地獄の底から這い上がってきた、一人の女だ。
私はまず、元の持ち主が昨夜味わった屈辱のツケをきっちりと払わせ、皮膚に残る毒素を洗い流した。
物理のテストでは満点をもぎ取り、超一流の弁護士を1分1秒の狂いもなく現場へ急行させて私の弁護に当たらせ、果ては市長自らに我が家の門を叩かせ、私の後ろ盾にならせた。
今世において、私に借りのある全ての奴らから、一筆一筆、その代償を血で購わせてやる。
全能令嬢の帰還、家族が倒産?
父は冤罪で獄中にあり、母は病に伏せっている。
六人の兄たちも、ある者は身体に障がいを負い、ある者は無気力に沈んでいた。
そんな折、家に潜り込んでいた偽令嬢は状況を見るや否や一家を見捨てて姿を消し、さらに屋敷までも奪い取ろうとしていた。
世間は夏川家を「落ち目の負け犬」と嘲笑い、皆がこぞって踏みにじる。
紅蓮が静かに一声を発すれば、暗部より無数の異能の士たちが姿を現し、形勢は一瞬にして逆転する。
父は無実のまま出所し、母は健康を取り戻し、廃人同然だった長兄は再び己の足で歩き出し、残る五人の兄たちもまた紅蓮の導きによって各々の才覚を花開かせ、やがて各界を牽引する大物へと成り上がっていく。
しかし、そんな彼女を指さして嘲る者がいる。
「夏川紅蓮は地味で野暮ったい田舎者だ」と。
何を隠そう、彼女は無数の隠された顔を持つ存在。
神医の令嬢も彼女なら、国画の大家も彼女。
伝説のハッカーも彼女なら、正体不明の謎の女優も彼女。
そして、暗部を統べる首領さえも——彼女なのだ。
そんな折、頂点に君臨する名門の若様が、彼女をそっと腕のなかに抱き寄せた。
「誰が彼女を田舎くさい地味女だと言った? 彼女こそ、俺・諏訪淳行の婚約者だ」
紅蓮が流し目をひとつ送る。
「婚約、破棄しなくていいの?」
「しない」
彼が長いあいだ追い求めてきた決して手の届かない高嶺の花こそが、いま腕のなかにいる婚約者なのだ。
解消などありえない——この婚約は、死んでも解消しない。













