社長の狂おしいほどの愛

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渡り雨 · 完結 · 21.3k 文字

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紹介

結婚7周年の記念日、心臓外科医の雪音は、夫である直樹と彼の秘書の不倫現場を目撃してしまう。さらに、亡き両親の交通事故が、実は直樹によって仕組まれた陰謀であったことを知る。

血の滲むような復讐心と裏切りの痛みに苛まれながら、彼女は白川家の力を借りて自らの死を偽装。冷酷な復讐者へと生まれ変わり、医療詐欺を暴き、一族の事業を奪い返すことで、直樹にその罪の代償を払わせる。

最終的に、過去の愛憎から解き放たれた雪音は、新たな人生へと歩み出すのであった。

チャプター 1

 私たちの七回目の結婚記念日のディナーの席で、彼の個人秘書である麗華が身を乗り出し、スペイン語で囁いた。

「妊娠したわ」

 直樹もスペイン語で応じる。

「本当か? 愛しい人よ」

「もちろん本当よ」

 麗華は声に滲む優越感を隠そうともしなかった。テーブルクロスの下で、彼女の指が直樹の太ももの内側をなぞる。

「ジュネーブでの雨の夜を覚えてる? 私にサプライズがあるって言ったじゃない……」

 直樹の瞳が熱を帯びる。

「覚えているよ。あの夜、君が身につけていた黒いレース……」

「やめて、悪い人ね」

 麗華はくすりと笑い、彼の言葉を遮った。

「奥様がすぐそこにいらっしゃるのよ」

「彼女はスペイン語なんて解さないさ」

 直樹は麗華に語り続ける。

「今夜十時、いつもの場所で。この吉報を盛大に祝わないとな」

 手からカトラリーが滑り落ちた。

 突然、胃の底から吐き気がこみ上げてきた。ここ数日続いていた症状――つわり、倦怠感、そして見て見ぬふりをしてきた兆候の数々。

 直樹は即座に意識を引き戻し、その表情を一瞬にして「献身的な夫」のモードへと切り替える。

 彼は身を屈めて私の食器を拾い上げた。

「ハニー、どうしたんだい?」

 ついさっきまで愛人と子供の話をしていたくせに、今は優しく私の手を握っている。この継ぎ目のない変貌ぶりに、反吐が出そうだった。

 私は手を振り払った。

「二人で何を話していたの?」

「スペインでの治験のトラブルだよ」

 彼の視線が揺らいだ。

「些細なことさ。君に心配をかけたくなくてね」

 直樹は知らない。私が幼い頃からスペイン語を学んでいたことを。私の祖父、白川源次郎はヨーロッパ最大の医療帝国を支配しており、一族の子女には幼少期から少なくとも五ヶ国語の習得を義務付けていたのだ。

 スペイン語――すべて、一言一句理解できていた。

『面と向かって言われる言葉より、陰で言われる言葉の方が重要であることが多い』

 祖父の言葉が脳裏に響く。

『その言葉を理解できるようになりなさい。そうすれば、己の身を守ることができる』

 私はナイフとフォークを置いた。

「お二人で続けて。バルコニーで少し風に当たってくるわ」

 直樹は反射的に立ち上がろうとしたが、麗華が突然小さく咳き込み、胸に手を当てて呼吸が苦しいふりをした。

「少し気分が優れないの……」

 彼女はスペイン語で言った。

 直樹の動きがぴたりと止まり、心配そうに彼女を見やる。

「一緒に行こうか?」

 彼は私に尋ねたが、その視線はすでに麗華の方へと流れていた。

「いいえ、結構よ」

 私は踵を返し、人混みの中を歩き出した。黒木メディカルグループのCEOである直樹は今夜の注目の的だが、心臓外科医長である私は、誰の目にも永遠にただの「黒木夫人」としてしか映らない。

 道すがら、人々が次々とグラスを掲げてくる。

「黒木夫人は本当にお幸せですね」

「直樹さんのような旦那様は稀有ですよ。黒木メディカルの成功したCEOであり、有能で、献身的だ」

 その一言一言が、ナイフのように私の心を抉った。

 この「献身的な」夫が、私の目の前で愛人との子供の名付けについて話し合っていたと知っても、彼らは同じことを言えるのだろうか?

 先月、私が直樹の書斎で予備のスマートフォンを見つけたことなど、誰も知らない。パスワードは私の両親の命日だった――かつて彼は私を抱きしめ、こう言ったものだ。

『雪音、これからは僕が彼らの代わりに君を守るよ。僕の命が尽きるまで』

 そのスマホの中の動画は、日付順に几帳面に整理されていた。

 映っていたのは、オフィスのソファに半裸で横たわる麗華の姿。情事の余韻で頬を紅潮させ、彼女はカメラに向かって微笑んでいた。

「奥様、愛妻弁当を持って下であなたを待っていたわよ。まるでご主人様の帰りを待つ子犬みたいにね。可哀想に、私たちが上で何をしているかも知らないで」

 最も心を打ち砕いたのは、最後の動画だった。

 直樹が後ろから彼女を抱きしめ、肩に顎を乗せていた。

「彼女の話はやめよう。彼女はただの……完璧なカモフラージュさ。僕を善人だと思わせるための道具に過ぎない」

 つまり、彼のためにシャツにアイロンをかけ、すべての記念日を覚え、深夜の帰宅を灯りを点けて待っていたあの日々は――彼にとって、私はただの道具だったのだ。

 彼を立派に見せるための、ただの装飾品。

 怒りで手が震え、胸が強打されたように痛んだ。

 その夜、私はスマホを元の場所へ正確に戻し、白川家のネットワークに接触を開始した。

 祖父が私に残してくれたのは富だけではない。世界中に広がる防護ネットワークをも残してくれていたのだ。

 バルコニーのガラス戸を押し開ける。バッグの中で携帯電話が震えた。

 暗号化されたメッセージだ。

『新しい身分の準備完了。フライトは明日の午後三時。完全なる失踪を実行しますか?』

『実行する。痕跡は残さないで』

『実行後、黒木雪音は法的に存在しなくなります。もし黒木氏が調査を行った場合――』

『彼は調べないわ』

 私は素早く返信した。

『パパになる準備で忙しいもの。それに、道具なんて失くしても代わりがきくでしょう?』

 送信完了の表示が点滅し、消えた。

 その時、背後から聞き覚えのある足音が近づいてきた。

「誰にメールしてるんだ?」

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震える声で私の名前を呼び、足元に縋り付く彼。

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