紹介
彼は「結婚して一年経つのに跡継ぎも産めないのか」と私を蔑み、離婚届を私の顔に投げつけた。
それから5年後。
私は現在の夫であり、関東裏社会のドンである光原朋之と共に、N市へと舞い戻った。
埠頭で私を見かけた克裕は、一枚の名刺を差し出し、自分の愛人の息子のベビーシッターをやれと言い放った。
だが、彼は知る由もなかった。
今、彼が鼻で笑っているこの女こそが、関東の裏社会全体を震え上がらせる「ドンナ」であるということを――。
チャプター 1
プライベートクルーザーがゆっくりと岸に寄っていく。
埠頭には黒のSUVが数台停まっていた。その先頭には、シャンパングラスを片手に首を長くしてこちらを窺う、スーツ姿の男が立っている。
元夫の森田克裕だ。
トップデッキから降りてきた私の手には、メイドから受け取ったばかりの箒が握られていた。息子の進がクッキーの皿をひっくり返してしまい、つい自分で片付ける癖が出てしまったのだ。
「ボス、あれ美由早じゃないですか?」
背後にいた手下の一人が私を指差した。
克裕は私を見て一瞬呆然とした後、すぐに勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「やっぱりな。いずれ落ちぶれて、這いつくばって戻ってくると思ってたぜ」
「おいおい、マジでアイツじゃん」
取り巻きの一人が冷やかす。
「森田、お前の元妻、今はクルーザーの清掃員かよ?」
「玉の輿にでも乗ったのかと思えば! 結局ボスの施しを求めて帰ってきただけかよ」
克裕はシャンパンを吹き出しそうなくらい下品に笑った。そして私の行く手を遮る。五年ぶりに見る、その鼻持ちならない顔。
「美由早、ずいぶんと落ちぶれたな」
彼は私を上から下まで値踏みするように見回し、安っぽい優越感に満ちた視線を向けた。
「N市を出て行くなんて啖呵を切るから、どれほどのことをしでかすかと思えば。甲板の掃除とはな」
私は足を止め、滑稽なものを見るような目で彼を見つめ返した。
かつて彼のご機嫌を取るために、私はいつも息が詰まるようなタイトスカートを穿いていた。
だが今は妊娠中ということもあり、朋之は私の体を締め付けるような服を一切許してくれない。今羽織っている一見シンプルなカシミヤのコートも、ミラノの工房で仕立てられたフルオーダーメイドだ。
この馬鹿どもには到底理解できないだろう。真の権力というものは、わざわざブランドロゴをひけらかす必要などないということを。
「どいてちょうだい、克裕」
私は静かに告げた。
彼は退くどころか、さらに距離を詰めてきた。
「そう意地を張るなよ。生活が苦しいんだろ? ちょうどいい、村木の息子のベビーシッターを探してたんだ。住み込みで飯付きだ。昔のよしみで、お前に回してやるよ」
そう言ってポケットから名刺を取り出し、半ば強引に私の手へ押し付けてきた。
その時、耳障りなブレーキ音が鳴り響いた。ピンク色のマセラティが、乱暴なドリフトをかまして埠頭に停まったのだ。
赤いソールのハイヒールを履いた村木が、最新のエルメスのバーキンを腕に掛け、腰をくねらせながら歩いてきた。彼女の後ろには、泣き叫ぶ子供に手を焼いてノイローゼ気味のベビーシッターが続いている。
「克裕! 誰と話してるの?」
サングラスを外した彼女は、私を見るなり濃いアイラインで縁取られた目を輝かせた。まるで傷ついた獲物を見つけた猟犬のような興奮だ。
「あらやだ。美由早じゃない?」
彼女は口元を覆い、黒板を爪で引っ掻くような甲高い声でわざとらしく驚いてみせた。
「どうしてこんな所で掃除なんかしてるの? もしかして、帰りのチケットを買うお金もないわけ?」
「ハニー」
克裕は彼女の腰に手を回し、恩着せがましく言った。
「ちょうど助け舟を出してやったところさ。陽翔の世話をさせようと思ってね。知っての通り、こいつは昔から家事だけは得意だったからな」
村木は汚物でも見るような目で私を一瞥すると、声を潜めつつも周囲の全員に聞こえるような声で言った。
「この女が? 大丈夫なの? だってこの人、子供も産めない石女だって聞いたわよ。うちの息子に不幸がうつらなきゃいいけど」
周囲からドッと嘲笑が湧き起こった。
私は手の中の名刺と、目の前の反吐が出るような男女を交互に見つめた。五年前の屈辱が、今となってはたまらなく滑稽に思えてくる。
私はゆっくりと腕を上げ、全員の目の前で、その名刺を克裕の持つシャンパングラスの中へぽいっと落とした。
シュワシュワと泡が弾ける音とともに、紙片はみるみるうちにふやけていく。
「克裕」
私の声は静かだったが、その一言で周囲は水を打ったように静まり返った。
「この船の名前、知ってる?」
克裕の顔から笑みが消え、苛立ったように眉をひそめた。
「あぁ?」
私は急ぐことなく左手を上げ、船側にある巨大なエンブレムを指差した。夕日に照らされ、血のような赤い光を放つその紋章――茨に絡みつかれたアイリスの花を。
「あれは『スカーレット・アイリス号』。光原一族のプライベート空間よ」
私は背を向け、左手を甲板の手すりに添えた。
「さっき、私に仕事を紹介してくれるって言ったわよね?」
振り返ると、そこには血の気を失った克裕の顔があった。
「港の責任者に聞いてみることをお勧めするわ。今夜、彼らが港全体を貸し切りにしてまで出迎えた『清掃員』が、一体誰なのかをね」
言い終わるか終わらないかのうちに、銀髪に燕尾服姿の老執事が船室から小走りで現れた。
「奥様!」
彼は私のそばまで来ると声をかけた。
克裕と村木が驚愕のまなざしを向ける中、老執事は私の前で深く頭を下げ、恐縮しきった恭しい口調で告げた。
「車列が外でお待ちでございます。いつでもご出発いただけます」
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(この小説を軽い気持ちで開くなよ。三日三晩も読み続けちゃうから…)
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私は彼を許すのをやめ、自分自身を解放することにした。
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