紹介
二十歳の時、彼女はすんなりと、そして思いがけず「真田の奥様」になった。結婚を繋ぎ止めようと、魔が差したように彼の子を身ごもろうと必死になったことさえある。
だが、その代償として待っていたのは、彼の「浮気」だった。
愛が冷めた彼女は、離婚届を置いてきっぱりと背を向け、その場を去る。しかし、罠にかけられ、海へと落ちてしまう。
相馬蛍が「死んだ」後、彼女は別の顔を得て戻ってくる。
まさか自分が、彼の仕掛けた甘い罠へと一歩ずつ落ちていくことになるとは思わなかった。さらに、あの冷徹な彼が、こんな言葉を口にするとも――。
「蛍、もう俺のそばから離れないでくれないか」
やがて、業界ではこんな噂が広まっていく。
真田の奥様が海へ落ちたあの日、真田社長は妊娠検査の結果を握りしめたまま、泣き狂っていたと――。
――九十九日間、ただひたすらに跪き祈り続けた。もう一度、あなたに会いたいと願って。
チャプター 1
相馬蛍は、どうしても子どもが欲しかった。真田辰則との結婚を――この綱渡りみたいな関係を、なんとか繋ぎ止めるために。
床まで届く窓の向こうで、夜がしっとりと息をしている。
白いレースのネグリジェが小柄な身体の曲線をやわらかく包み、潤んだ杏色の瞳が伏せられた。白い指先が、湯気の立つ漢方薬の椀を持ち上げる。
そのとき、寝室の扉が押し開けられた。
背の高い男が入ってきて、空気に漂う甘苦い薬の匂いを嗅ぎ取る。
真田辰則が眉を寄せた。
夜に沈む細い背中を、冷えた視線がなぞる。声もまた、ひどく淡い。
「苦労して手に入れたものが、必ずしも思いどおりになるとは限らない」
相馬蛍が椀を置いた、その瞬間だった。
熱い腕に抱きすくめられ、息を奪われる。ふいに、雪松みたいな冷たい香りが覆いかぶさった。
びくり、と身体が震える。
次の瞬間、後頭部を片手で押さえられ、仰向けにされた顔が氷みたいな瞳とぶつかった。
真田辰則の薄い唇が、からかうように弧を描く。
「相変わらず、みっともないな」
温かな吐息が、少しずつ彼女の鼻先へ落ちてくる。
彼女が彼を愛していることは、隠しようもないほど周囲に知られていた。本人も、隠す気なんてなかった。
赤く滲んだ目尻のまま、男は真っ直ぐに相馬蛍を見つめる。傲慢で、乱暴で、好き勝手で――どこか愉しげに。
耳元には荒い息。
相馬蛍は視線を落とし、それでも自分から彼の首に腕を回した。甘えるような声が、喉からこぼれる。
「辰則兄さん……」
*
三週間後。
相馬蛍は検査結果の紙を握りしめ、医師の向かいに座っていた。
「とにかく無理はしないこと。定期的に検診に来てくださいね」
デスクの向こうの原田先生は眼鏡越しに彼女を見て、注意事項をさらさらと書き連ねる。
原田新は相馬蛍の母の親友で、昔から彼女を気にかけてくれていた。
相馬蛍は真面目に頷く。
「分かりました、原田おじさん。食べちゃいけないものも、全部教えてください」
神経質になるのも無理はない。
真田辰則の子を早く授かるために、民間療法だの怪しい偏方だの、ありとあらゆる手を試してきたのだから。
一週間前、妊娠が分かった。嬉しくて、気が狂いそうだった。
ようやく――二人の子どもができる。
真田辰則も、いつかは自分を愛してくれる。時間の問題だ。そう信じたかった。
「今日はありがとうございました。来週また来ます」
相馬蛍が立ち上がりかけたとき。
「蛍、ひとつ……」
原田先生が立ち上がり、言い淀んだ。迷いが顔に滲む。
相馬蛍は笑みを貼りつけたまま、その様子に胸がきゅっと縮んだ。
「原田おじさん……まさか、赤ちゃんに何か?」
指先が冷え、紙を握り締める。
「赤ちゃんのことじゃない」
原田新は眼鏡を外し、言葉を選ぶように続けた。
「昨日、君のご主人が病院に来ているのを見かけてね……」
相馬蛍は一瞬、呆けた。
「辰則が? 具合でも悪いんですか?」
原田新は憂いを湛えた目で彼女を見る。
「彼のそばに、女性がいた」
「君も知っているかもしれない。水原初歌だ」
「彼女も妊娠している。五か月だ」
水原初歌。
相馬蛍の顔から血の気が引いた。それでも口元には、薄い笑みが貼りついたままだ。
「原田おじさん、心配しないでください。二人は友だちです。私、帰りますね」
水原初歌――真田辰則が幼い頃から憧れていた相手。
結婚して間もなく、彼女がフランスへ行ったと聞いた。
外来棟を出た途端、胃がぐらりと反転した。
相馬蛍はよろめきながらゴミ箱へ駆け寄り、堪えきれず吐いた。
五か月前。真田辰則もフランスへ行き、二か月も戻らなかった。
頭上の太陽が、やけに冷たく感じる。
晩秋の風がざあっと吹き抜け、薄い上着を掻き寄せても震えが止まらない。
結局、情けなく目が熱くなった。
相馬蛍は平らな下腹にそっと手を当てる。
「大丈夫。パパは……私たちを裏切らない」
――その瞬間だった。
視界の先に、見覚えのある二つの影。
あの横顔は、相馬蛍が見たことのないほど柔らかかった。
病院の階段の下。
真田辰則が笑みを含んだ桃花眼で、隣の女を見下ろす。
「さっき医者が言っただろ。少しでも辛かったら、すぐ言え。俺に心配させるな。いいな」
水原初歌は彼の腕に縋り、甘えるように見上げた。
「大丈夫だって。そんなに緊張しないで」
真田辰則は眉を深く寄せ、声に心配を滲ませる。
「お腹にいるのは俺の子だ。心配しないわけがないだろ。言うこと聞け」
相馬蛍がどうやって病院を出て、どうやって家に帰ったのか。
覚えていない。頭の中が、ずっと白かった。
*
深夜、真田邸。
真田辰則が部屋に入ると、窓辺の灯りは一つだけだった。
ソファの女は、今日はいつもの『誘惑用』の寝間着を着ていない。
なぜか胸の奥がざわつく。喉が渇き、彼はネクタイを緩めた。
「半年前、フランスで……彼女に会ったの?」
相馬蛍の視線は冷たく鋭く、真田辰則には見知らぬものに思えた。
真田辰則は一瞬だけ目を瞬かせ、淡々と上着を脱ぎ、腕時計を外し、シャツのボタンを一つずつ外していく。
薄暗い部屋で、彼は笑っていた。昼間のそれとはまるで違う笑みで。
「相馬蛍」
声はいつもどおり冷たい。
「俺がどこへ行こうが、誰に会おうが、お前には関係ない。聞く権利もないし、今みたいに俺を責める権利もない。分かったか」
今日は機嫌がいいから、これだけ言ってやっている。
彼にとって相馬蛍は、最も嫌いな女だ。普段なら視界にも入れない。
夫婦として身体を重ねるときだけ、わずかに興が乗る。
相馬蛍の鼻の奥がつんとした。
ソファから立ち上がった細い身体が、黄色い灯りの下でふらつく。
「関係ない? 忘れたの? 私、相馬蛍があなたの妻よ! 正式に迎えた妻!」
真田辰則が小さく笑う。
「もう一度言わせたいのか?」
そして、氷の刃みたいな言葉を落とした。
「相馬蛍。お前が手を使わなきゃ、真田奥様はお前じゃなかった」
冷酷で、容赦がない。
なのに体温だけが、やけに熱い。
彼は数歩で距離を詰め、相馬蛍を抱き寄せる。大きな手が耳の後ろを撫で、声まで半分だけ柔らかくなった。慰めるように。
「真田奥様。俺の何が不満だ? どの夜も満足させてやっただろ。ん?」
その瞬間、知らない女物の香水が鼻を刺した。
胃がまた波立つ。
相馬蛍は彼を突き飛ばし、涙が勝手に滲むのを堪えきれない。
「真田辰則……一つだけ聞く。あなた、彼女と……本当に、関係があるの?」
真田辰則は女のヒステリックな姿を初めて見るように、ゆっくりソファの肘掛けに腰を下ろした。目には興味が浮かぶ。
「今日見たのか?」
声が急に冷える。
「見たなら隠さない。初歌が孕んでるのは真田家の子だ。賢いなら大人しくしてろ」
「そうじゃなきゃ――俺は絶対に許さない」
相馬蛍の中に残っていた最後の希望が、音もなく崩れた。
堪え切れず、ソファのバッグを掴んで投げつける。
「真田辰則! 出ていけ! 顔も見たくない!」
真田辰則は、彼女がここまで暴れるとは思っていなかった。
いつもは媚びることしかしない女だ。大声すら出せなかったはずなのに。
彼は軽々とバッグを受け止めた。
中身が床にばらばらと散る。
白い検査票が、ひらり――と舞い落ちた。
「……これは何だ」
真田辰則が素早く拾い上げる。
相馬蛍の顔色が変わり、奪い返そうと手を伸ばした。
「返して!」
「妊娠したのか?」
二つの声が、同時に重なった。
最新チャプター
#100 第100章 明日、私は帰らない
最終更新: 11/3/2026#99 第99章 必ず戻ってくる
最終更新: 11/3/2026#98 第98章 彼が嫉妬するのが怖いの?
最終更新: 11/3/2026#97 第97章 兄貴はこっそり彼女を作ったのか?
最終更新: 11/3/2026#96 第96章 クソ親父の懐はどんなもの?
最終更新: 11/3/2026#95 第95章 彼女は真田辰則を許すはずがない
最終更新: 11/3/2026#94 第94章 彼は私を始末して、お前を娶るつもりか?
最終更新: 11/3/2026#93 第93章 彼にもう少し優しく、ゆっくりしてと懇願する
最終更新: 11/3/2026#92 第92章 それは別料金です
最終更新: 11/3/2026#91 第91章 欲しいか?
最終更新: 11/3/2026
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彼女はもう、疲れた
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それは間違いじゃない。たしかに、金は必要だった。
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すると、あろうことかこの二人は、声を揃えてこう言ったのだ。
――本当に深く愛していたのは、私の方だった、と。
ふん、今さら一体、何の真似のつもりかしら。
人生を謳歌する
竜王の花嫁
偉大なるイグナス王国を形づくる七つの村では、毎年欠かさず「選定の儀」が執り行われていた。その儀で村の娘のひとりが選ばれ、恐るべき竜王の花嫁となるのだ。
なぜそんな儀を年ごとに続けるのか、誰にもわからない。これまで選ばれていった花嫁たちが、その後どうなったのかも――。
奴隷にされているのか?
竜の餌にされているのか?
それとも……竜王自身が、彼女たちを喰らっているのか?
それだって否定はできない。王は自分たちとは違う、人ではないのだという噂があるのだから。
それでも、その疑問は執念深く人々の胸を苛んだ。
いったい、花嫁を何に使っているのか――!?
だが、誰も王に問いただそうとはしなかった。逆らうなどという無謀が、どんな運命を呼び込むかが怖かったのだ。
もっとも、そんなことはベラドンナの知ったことではない。今年は彼女の村が花嫁を差し出す番だったが、自分が選ばれるはずがないと彼女は確信していた。
なぜかって?
もちろん、計画があるからだ。そして彼女は、その計画が自分を裏切るはずがないと信じ切っていた……いや、本当にそうだろうか。
偽りの仮面
彼は、私との間に子供を授かることさえ望んではいない。
そればかりか、外では他の女性と戯れ、私の心を深く傷つける。
逃げ出したい。強く、自立した女性になりたい。
そう願う私を、しかし、彼が手放すつもりは毛頭ないようだった……。













