紹介
羽澄(はすみ) 真琴(まこと) は二つの知らせを受けた。
一つは妊娠五週目、もう一つは末期の膵臓がん。
それは運命が仕掛けた最も残酷な冗談だと思った。
しかし、産科クリニックの外で、恋人の 黒瀬(くろせ) 剛臣(たけおみ) が、
自分には一度も言ったことのない甘い言葉を、別の若い女性 烏丸(からすま) 美雪(みゆき) にささやくのを聞いてしまう。
彼女もまた妊娠五週目、そして剛臣の子を宿していた。
その瞬間、真琴は悟った。裏切りはがんよりも致命的だ、と。
剛臣は彼女を「役立たず」と呼び、
真琴が運営する 羽澄動物保護センター を、
氷室(ひむろ) 大悟が率いる犯罪組織の資金洗浄の隠れ蓑として利用していた。
しかし、死刑宣告を受けた女は失うものが何もない。
真琴はその自由を使い、真に守るべき命を救うことを決意する。
その中には、彼らに監禁されていた17人の子どもたちも含まれていた――。
チャプター 1
午前三時。手術台の上の土佐犬は、虫の息だった。その体は傷だらけで――鞭の跡、噛み傷、電気ショックによる火傷が痛々しく刻まれている。その瞳には、人間に完全に裏切られた者だけが持つ、深い絶望が宿っていた。
「よしよし、大丈夫だよ、いい子だ」
私はゴム手袋をはめ、優しくその頭を撫でた。
「私が治してあげるからね」
入り口から、聞き覚えのある足音が響いた。剛臣(たけおみ)だ。黒いレザージャケットを羽織ったままの姿で、その拳には血が滲んでいる。彼が入ってきた瞬間、鼻をつく臭いが漂ってきた――汗と血、そして裏社会の賭博場特有の、腐敗した金の臭い。
「またゴミ拾いか?」
彼はドア枠に寄りかかり、軽蔑しきった声で言った。
私は顔を上げることなく、犬の傷の洗浄を続けた。
「命に値札なんてないわ、剛臣」
数秒の沈黙。やがて彼が歩み寄ってくると、その声色は不意に優しさを帯びた。
「わかってる。だからお前を愛してるんだ」
またこれだ。一秒前まで金勘定をしていたかと思えば、次の瞬間には私の優しさを愛していると言う。
「帰りが遅かったのね」
縫合を続けながら、私は言った。
「仕事のトラブルだ。大悟(だいご)さんの件で、ちょっと揉め事があってな」
大悟。剛臣のボスであり、霧崎(きりさき)の地下格闘技を仕切る元締めだ。
「午前三時までかかるトラブルって、一体何?」
剛臣は答えず、私の隣に移動して犬を見下ろした。
「こいつ、助かるのか?」
「ええ」思いのほか、強い声が出た。「生き延びるわ。そして、また人間を信じることを学ぶの」
剛臣は笑ったが、その目は全く笑っていなかった。
「お前はいつだって楽観的だな」
「信じなきゃいけないからよ。命は救えるって」私は手袋を外し、ようやく彼と目を合わせた。「そうじゃなきゃ、この世界はあまりに救いがないもの」
***
十二時間後、霧崎市立病院。
何週間も先延ばしにしていた受診だったが、しつこい倦怠感と背中にまとわりつくような痛みに耐えかね、ついにここへ足を運んだのだ。
三十二歳という年齢もあり、保護施設の運営によるストレスだろうと自分に言い聞かせていた。だが、疲労感は悪化する一方で、肩甲骨の間の鈍痛はいつまで経っても消えようとしなかった。
「最近、妙に疲れやすくて……」初診の際、私は真田(さなだ)先生に説明した。「それに、背中の痛みがずっと続いているんです。休んでも治まらなくて」
彼女は頷きながらメモを取った。
「その症状はいつからですか?」
「六週間ほど前からです。大型犬を持ち上げたり、長時間労働が続いたせいだと思っていたんですが……」私は肩をすくめた。「何か、おかしいんです」
触診と初期の血液検査の後、真田先生の表情が曇った。
「症状と血液検査の結果を総合すると、より詳細な検査が必要です。超音波検査と、念のためにCTスキャンを行いましょう」
「どこか悪いんでしょうか?」
「結論を急ぐ前に、まずは結果を見ましょう」
二時間後、戻ってきた彼女は穏やかな笑みを浮かべていたが、その目は笑っていなかった。
「ええと、まずは良い知らせです。妊娠されていますよ。五週目です」
私の手は、無意識にお腹へと伸びていた。
「ですが……」彼女の表情が真剣なものに変わる。「スキャンの結果、あなたの症状の原因が判明しました。膵臓に腫瘍があります。進行した膵臓癌で、他の臓器への転移も確認されます」
先生の声は優しかったが、その一語一語がハンマーで殴られたような衝撃をもたらした。
「早急に妊娠を中絶し、化学療法を開始することを強くお勧めします」
「もし……この子を産むことを選んだら?」
「その場合、余命は半年程度と考えられます」
半年。あの数週間の倦怠感、無視し続けた背中の痛み――私の体はずっと訴え続けていたのだ。人生というものは、なぜこれほど皮肉なのだろう。最大の希望を与えられたその時、体はすでに裏切りを告げているなんて。
***
その日の夕方。私はリビングに座り、二枚の報告書を見つめていた。
一枚は、私が妊娠しているという知らせ。もう一枚は、私が死ぬという宣告。
帰宅した剛臣は疲れ切った様子で、拳には擦り傷があり、いつもの「仕事」の余韻を漂わせていた。
彼が座った瞬間、携帯電話が震えた。画面には「美雪(みゆき)」と表示されている。彼は素早く着信を拒否したが、すぐにまた鳴り出した。
「美雪って誰?」私は尋ねた。
「ビジネスパートナーだ」早口すぎる。「新しい出資者だよ」
私は癌の診断書をソファのクッションの下に隠し、妊娠の報告書だけを手元に残した。
「剛臣、驚かないでね。赤ちゃんができたの」
彼の表情が一瞬にして変わった――衝撃、困惑、そして……あれは、迷惑そうな顔?
「本当か? このタイミングで?」
……なによ、その反応。
「ええ、今よ。私たち、一緒になって二年になるじゃない」
剛臣はこめかみを揉んだ。
「急だな……」
また電話が鳴った。まだ美雪からだ。今度は彼も拒否しなかった。
「出なきゃ」彼はバルコニーへと出て行った。
言葉の内容までは聞こえなかったが、その声は優しく、さっき私に話しかけた時とは全く違っていた。
五分後、彼は戻ってきた。
「子供のことだが……話し合う必要がある。タイミングが悪いんだ。今、仕事が複雑な状況で……」
「剛臣、あなたの子供の話をしているのよ。私たちの子供よ」
「わかってる。だが、俺の仕事がどういうものか知ってるだろ。今は子供を作るのにいい時期じゃない」
私は彼を見つめた。急激な吐き気がこみ上げてくる。
「あなた、この子が欲しくないのね」
長い沈黙。
「そんなことは言ってない。ただ、タイミングが悪いと言ってるんだ」
また彼の電話が鳴った――今度は大悟からだ。
「行かなきゃならない。緊急事態だ」彼はもうコートを掴んでいた。「明日話そう、いいな?」
ドアが乱暴に閉まる音がした。私は窓辺に歩み寄り、剛臣の車が港湾地区へと向かっていくのを見送った。
そこは、大悟の地下格闘技サーキットが行われている場所であり、まだ、この街の罪の温床でもある。
私はソファに戻り、癌の診断書を引き出した。
半年。
私は暗闇の中に座り込み、片手をお腹に当て、もう片方の手で人生を一変させる診断書を握りしめたまま、身動きが取れずにいた。
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これで互いに違う道を歩むだけだと思っていた。ところが、隠していた孕み腹はやがて露見してしまう。
復縁を切り出してきた元夫に、綾部栞は怒りを叩きつけた。
「この子に会いたければ、跪いて許しを請いなさい」
そう言えば、さすがに諦めるだろう——。
だが、彼女は読み違えていた。相手の、その異様なまでの図太さを。
やがて、雲市で最も賑わう中心街の大型街頭ビジョンに、ある動画が一日中エンドレスで流れ始める。
それは、ひとりの男が地面にひざまずき、ただひたすら復縁を乞い続ける姿だった。
全能令嬢の帰還、家族が倒産?
父は冤罪で獄中にあり、母は病に伏せっている。
六人の兄たちも、ある者は身体に障がいを負い、ある者は無気力に沈んでいた。
そんな折、家に潜り込んでいた偽令嬢は状況を見るや否や一家を見捨てて姿を消し、さらに屋敷までも奪い取ろうとしていた。
世間は夏川家を「落ち目の負け犬」と嘲笑い、皆がこぞって踏みにじる。
紅蓮が静かに一声を発すれば、暗部より無数の異能の士たちが姿を現し、形勢は一瞬にして逆転する。
父は無実のまま出所し、母は健康を取り戻し、廃人同然だった長兄は再び己の足で歩き出し、残る五人の兄たちもまた紅蓮の導きによって各々の才覚を花開かせ、やがて各界を牽引する大物へと成り上がっていく。
しかし、そんな彼女を指さして嘲る者がいる。
「夏川紅蓮は地味で野暮ったい田舎者だ」と。
何を隠そう、彼女は無数の隠された顔を持つ存在。
神医の令嬢も彼女なら、国画の大家も彼女。
伝説のハッカーも彼女なら、正体不明の謎の女優も彼女。
そして、暗部を統べる首領さえも——彼女なのだ。
そんな折、頂点に君臨する名門の若様が、彼女をそっと腕のなかに抱き寄せた。
「誰が彼女を田舎くさい地味女だと言った? 彼女こそ、俺・諏訪淳行の婚約者だ」
紅蓮が流し目をひとつ送る。
「婚約、破棄しなくていいの?」
「しない」
彼が長いあいだ追い求めてきた決して手の届かない高嶺の花こそが、いま腕のなかにいる婚約者なのだ。
解消などありえない——この婚約は、死んでも解消しない。













