紹介
私自身も、幸せを手に入れたのだと信じ込んでいた。隣人にこう言われるまでは。「夏休みの間、あなたと哲平さんが家で、それも窓に体を押し付けたりしながら、何度も愛し合っているのを見た」と。しかし、その夏休み、私はずっと息子に付き添って地元を離れていたのだ。
私は家に駆け込んだ。すると、8歳の雄介が電話で父親に褒めてもらおうとしている声が聞こえてきた。「パパ、僕がママを夏休みの間ずっと引き離しておいたよ。パパの『彼女』、機嫌は直った?僕のお小遣いは?」
監視カメラの映像を確認すると、そこには私のネグリジェを着た女が、夫と家の隅々で体を重ねる姿が映っていた。この家庭のために8年という歳月を捧げてきたというのに、あの父と息子は、二人で手を組んで私を裏切ったのだ
チャプター 1
普段なら夏休みはV市の自宅で過ごすことを好む雄介が、今年は珍しく、T市にある私の実家へ行きたいと言いだした。
夫の哲平はすぐに賛成してくれたものの、病院の手術予定がぎっしり詰まっていて身動きが取れない、と残念そうに肩を落とした。私は息子がただ祖父母に会いたがっているだけだと思い込み、その提案を快諾した。結局、私は雄介だけを連れてT市へ飛び、実家で丸々ひと夏を過ごすことになったのだ。
そして夏休みが明け、私が雄介を連れてV市に戻ってきた、その直後のことだった——。
自宅の玄関先に着くや否や、隣人の希美に捕まり、廊下の隅へと引っ張り込まれた。
「律子さん、やっと会えた! ずっと家に引きこもってるのかと思ったわよ」
希美は意味ありげな笑みを浮かべ、声を潜めた。
「あなたたち夫婦、最近ホントに熱烈ねぇ。何度か窓越しに見ちゃったわよ、リビングで……お二人だけの世界に没頭してるのを。一度なんて掃き出し窓に張り付いて、もう、すごい光景だったわ……」
彼女は言葉を切り、艶めかしい笑みを深めた。
「情熱を保つ秘訣としては刺激的でいいと思うわよ。でもね、奥さん……」
希美の表情が急に真剣なものになる。
「言っておくけど、先週、うちの栞奈が見ちゃったのよ。あの子まだ七歳なのに、『何してるの?』って聞かれちゃって。だからお願い、これからはカーテン閉めてくれない? 孫にあの光景を説明するのは、もう御免だもの」
頭の中で、轟音と共に何かが砕け散った。
夏休みの間、私はずっとT市で雄介と両親と一緒にいた。一度たりともV市には戻っていない。
だとしたら、希美が見た〝私〟とは、一体誰なのか?
私は必死に笑顔を貼り付け、希美に頷いてみせた。
「分かったわ、これからは気をつける。教えてくれてありがとう」
背を向け、自宅のドアを開ける。手は小刻みに震え、心臓の音がうるさいほど耳元で鳴り響いていた。
家に入った瞬間、雄介が電話をしている声が聞こえた。ソファの陰に隠れ、声を潜めているようだったが、その内容は嫌というほど鮮明に私の耳に届いた。
「パパ、今回のおれ、超ファインプレーだったでしょ! 約束通り、パパの若いカノジョのご機嫌が直ったら、お小遣いは週五万にアップだからね!」
「おれがママを連れて、丸々一カ月もおじいちゃんたちの家にいたおかげじゃん。おれがいなきゃ、こんな上手くいかなかったでしょ? この前パパのカノジョがヒス起こして、パパの顔ひっかいた時だって、おれが『ふざけてて怪我させた』ってママに嘘ついて庇ってあげたんだから!」
「あ、そうだパパ。約束の最新ゲーム機、いつ買ってくれるの?」
頭から氷水を浴びせられたように、私はその場に立ち尽くした。
すべては仕組まれていたのだ。雄介が実家に行きたがったのは、哲平に自由な時間を与えるため。そして哲平は、私がいないこの夏休みの間、別の女をこの家に連れ込んでいたのだ。
哲平が私を裏切るなんて、夢にも思わなかった。
私と哲平の出会いは、大学のディベート大会だった。前大会の王者だった彼は、学内に敵なしと言われていた。誰もが彼の勝利を疑わなかった試合で、私と対峙した彼はなぜか全力を出さず、わざと隙を見せた。結果、私たちのチームが勝利したのだ。
試合後、彼に片思いをしていたチームメイトの女子が、腹を立てて私に食ってかかってきた。揉み合いになり、彼女は私を突き飛ばし、二人とも池に落ちてしまった。泳げない私は必死にもがいたが、体は沈んでいくばかり。飛び込んだ哲平は、まずその女子を岸に上げ、それから私を助けに戻ってきた。
引き上げられた時、私は水を大量に飲んで意識が朦朧としていた。彼が人工呼吸をしてくれ、目が覚めた時に最初に見えたのは、彼の不安げで、でも優しい瞳だった。
その後、哲平からのアプローチで付き合うことになった時、私は彼になぜ私を先に助けなかったのかと問い詰めた。
彼は悪戯っぽく笑ってこう言ったのだ。
「堂々とキスする口実が欲しかったから」
その瞬間、私は完全に彼に堕ちた。
大学時代から愛を育み、卒業してすぐに結婚した。盛大な結婚式を挙げ、結婚後の生活もすべて私の好みに合わせてくれた。彼の衣食住の世話をする私に、彼は文句一つ言わず「最高のケアだ」と感謝してくれた。記念日を欠かさず祝い、サプライズを用意し、私に決して嫌な思いをさせず、情緒的な満足感を常に与えてくれた。
誰もが哲平を「いい夫」だと絶賛した。優しく、家庭的で、責任感があり、私に怒ることもなく、雄介にも忍耐強い。
「哲平さんのような人と結婚できて、あなたは幸せ者ね」と友人たちは羨んだ。
私も、これが幸せなのだと信じていた。
けれど今思えば、不審な兆候はとっくにあったのだ。半年前、見たことのない白いワイシャツがクローゼットにかかっていた時、彼は「出張で買った」と言った。一カ月前、深夜帰宅した彼の着替えを手伝った時、腰のあたりに深い引っかき傷があった。心配して尋ねる私に、彼は「荷物を運ぶ時にぶつけた」と答えた。
私はあの時、そのすべてを信じてしまっていた。
気配を殺してキッチンへ逃げ込み、口元を押さえて嗚咽を殺した。誰もが羨む愛なんて、蓋を開ければこんなにも醜悪なものだった。あの頃の誓いも、優しい約束も、すべてには賞味期限があったのだ。
どれくらい時間が経っただろうか。スマホが短く震えた。
画面を見ると、かつての上司である新井幸恵からのメッセージだった。
『律子、マネージャー職の募集がまた始まったの。あなたが適任だと思うわ。家庭を大切にしているのは知っているけれど、本当に復帰を考えてみない? 滅多にないチャンスよ、これを逃したら次はいつになるか分からないわ』
私はその文字を見つめながら、この家庭のために迷わず仕事を辞めた日のことを思い出した。哲平は言った。「一生愛する」「君は家で僕と子供を支えてくれればいい」「幸せな家庭を作るから」と。
その言葉を信じ、専業主婦を八年続けた。
今、あの親子二人を除けば、私には何も残っていない。現実は容赦なく私の頬を張り飛ばし、教えてくれたのだ。いわゆる「幸せ」なんてものは、私一人の独りよがりな幻想に過ぎなかったのだと。
哲平、あなたが裏切ったのよ。私は絶対に許さない。
深く息を吸い込み、私はスマホの画面をタップした。幸恵への返信を打ち込む。
『幸恵さん、お話をお受けします。私は仕事に戻ります』
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