元カレは、私が億万長者の妻だってことを知らない

元カレは、私が億万長者の妻だってことを知らない

渡り雨 · 完結 · 18.1k 文字

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紹介

四年前、笹谷良雄(ささたに よしお)は高級レストランで私を衆人環視の中で振り、そのわずか二週間後に真理奈(まりな)と婚約した。私は狂ったように彼の家の前でひざまずき、よりを戻してほしいと懇願し、F市中の笑い者になった。

四年後、彼はカジノで私と再会した。私の暮らしが落ちぶれていると思い込み、彼の家で清掃員として働かないかと声をかけてきた。

彼が知る由もなかったのは、その質素な服で目の前に立つ女が、裏社会全体をひれ伏させる浅野(あさの)グループのボスの妻であるということを。

チャプター 1

「千載一遇のチャンスだぞ! 浅野グループの社長、浅野和輝が母親の喪に服すためにF市に戻ってる。情報によれば、今は浅野グループの本社にいるはずだ!」

「直談判できる機会なんてそうそうねえ。他の連中に出し抜かれる前に押しかけて、契約をもぎ取るぞ!」

 仕立ての良いスーツに身を包んだ男たちが数人、浅野グループのプライベートオフィスへと続く廊下を歩いてくる。その話し声は、周囲に自分たちの『ビッグビジネス』を聞かせつけるかのように、絶妙な音量で響いていた。

 私はついさっき、和輝の車列を見送ったばかりだった。義母である静留の葬儀が終わって間もないというのに、彼には処理すべきファミリーの案件が山積みだ。本来なら私も付き添うべきだが、半月もペンディングになっていたサプライヤーとの契約書を、今日中に決裁しなければならない。

「兄貴、あれ七海じゃありませんか?」

 村田が私に気づき、良雄の肩を叩く。

「四年前に兄貴に捨てないでくれって泣きついた、あの女っすよ」

 四年前に別れたあの日、良雄の別荘から私を引きずり出したのは彼だった。そのせいで階段で転び、膝を割った痛みは今でも鮮明に覚えている。

 良雄の視線がこちらを射抜く。一瞬の驚きの後、口の端を吊り上げ、大股で私に近づいてきた。

「七海か?」

 彼はズボンのポケットに両手を突っ込み、私を見下ろす。

「ここは社長のプライベートオフィスだぞ。お前みたいなのが何でここにいる? 浅野社長の部下に見つかったら、ただじゃ済まないぞ」

 村田が追従する。

「その格好、ここらで清掃員でもやってるんでしょう。兄貴に捨てられて、まともな嫁ぎ先も見つからず、こんな汚れ仕事で食いつなぐしかないんすよ」

「全身安物だな」

 早野が私の体をジロジロと眺め、舌打ちをした。

「まともなバッグ一つ持ってねえ。やっぱり落ちぶれたもんだな」

 私は視線を落とし、自分のシルクのロングドレスを見た。漆黒で、シンプルで、ロゴの一つもない――義母、静留を悼んだ直後なのだから、派手な格好などできるはずがない。だが、この愚か者たちの目には、スパンコールや巨大なブランドロゴしか映らないらしい。

 良雄が一歩踏み出し、玩具でも品定めするような目で私を眺めた。

「どうだ、俺のオフィスで掃除婦として雇ってやろうか? 月給一万ドル、衣食住付きだ」

 彼は一呼吸置き、自分では魅力的だと思っているであろう笑みを浮かべる。

「何より、毎日俺に会える特典付きだ」

 冷ややかな視線を返し、失せろと言いかけたその時、良雄の携帯が鳴った。

 彼は電話に出ると、わざわざスピーカーモードに切り替える。

『ダーリン? 浅野家の社長には会えた?』

 真理奈の甲高い声が響く。

『噂じゃ、今回は奥様も戻ってきてるらしいじゃない! もしお近づきになれたら最高よ、ウチら両家にとってすっごいメリットになるわ! 何とかしてコネを作らなきゃ――』

「和輝は今、不在よ」

 私は彼女の妄想を静かに遮った。

「それに彼の妻は、あなたのような人間と関わり合うつもりなど毛頭ないわ」

 電話の向こうが、一瞬沈黙した。

 直後、真理奈の声が金切り声へと変わる。

『誰よあんた!? 何様のつもりで浅野社長の奥様の代弁なんかしてんのよ!』

「私が、その浅野の妻だからよ」

 一言一句、明瞭に告げる。

 良雄が慌てて電話に向かって叫ぶ。

「真理奈、聞くな! 七海の奴だ、あの狂った女だよ。ここで清掃員をしてる分際で、浅野社長の女だなんてほざいてやがる!」

『なんだ、七海か』

 真理奈の声がさらに耳障りなものに変わる。

『まあ良雄、頭がおかしくなるのも無理ないわよ。あんたがあたしを選んであの女を捨てたこと、街中の知るところになったんだもの。誰だって気が狂うわ』

 彼女は言葉を切り、白々しい同情を滲ませた。

『でもまあ、昔のよしみってことでチャンスをあげてもいいわよ――ウチでメイドとして使ってあげる』

「もう帰って」

 私は淡々と言い放ち、契約処理のためにオフィスへ戻ろうと背を向けた。

「それから、浅野家が笹谷、ロッシの両家とビジネスをすることは二度とないわ」

 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、良雄が私の手首を乱暴に掴んだ。

 驚くほどの馬鹿力だった。指が肉に食い込む。その目は蛇のように陰湿で、殺意に満ちていた。彼は私を強引に引き寄せ、脅しを隠そうともしない低い声で唸る。

「七海、自分がどれだけ危険な火遊びをしてるか分かってんのか?」

 喉仏がゴクリと動く。

「社長の関係者を騙るだけならまだしも、教父の代理気取りで商談を断るだと?」

 さらに声を低くし、彼は続けた。

「発狂するなら俺を巻き込むな! こんな戯言が浅野社長の耳に入ってみろ、笹谷家がイカれた女を使って挑発してきたと誤解されるだろうが。そうなったら、俺たち一家全員、お前のせいで破滅だぞ!」

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