彼の高嶺の花が帰ってきた日、私は妊娠を隠した

彼の高嶺の花が帰ってきた日、私は妊娠を隠した

ユイ · 連載中 · 419.7k 文字

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紹介

「離婚しよう」

結婚して三年、夫の心の中にいた高嶺の花が帰ってきた。

彼は自らの口で私たちの三年間の結婚に終止符を打ち、私は彼に容赦なく捨てられ、誰の目にも笑い者になった。

私は妊娠していることを隠し、彼の世界から完全に姿を消した。

私がいなくなれば、彼が望む幸せを叶えられると思っていた。

けれどまさか、再び出会った時、かつて冷酷で薄情だった元夫が、目を赤くして私の前に立ちはだかるとは思わなかった。

「この子は……誰の子だ?」

——

後になって、私は他の人から聞いた。

実は、私が姿を消したあの日から、元夫は狂ったように世界中で私の行方を探し続けていたという……

チャプター 1

妊娠検査薬には、くっきりと二本線が出ていた。

桑野夜子の頭の中が、真っ白になる。

――私、妊娠したの?

結婚して三年。

夫はコンドームをつけている時だけやけに熱心で、それ以外はずっと淡白だった。

もし本当に妊娠しているのなら、ぎくしゃくした二人の関係も、少しは和らぐのだろうか。

驚きと喜びがいっぺんに押し寄せ、桑野夜子は病院で改めて検査を受けようと決めた。

その時、手の中のスマホがぶるっと震えた。

知らない番号からのメッセージだった。

【どうして辰也がずっとあなたに冷たいのか、知りたい? 今夜9時、ここに来て。答えを教えてあげる】

続いて送られてきたのは住所と一枚の写真。

住所はT市最大のバー。写真に写っていたのは、彼女の夫――浅木辰也だった。

桑野夜子はスマホをぎゅっと握りしめる。

辰也は今日、残業だと言っていたのに……。

少し迷った末、彼女は確かめに行くことにした。

外はどんよりと曇っていた。

会所の個室にたどり着き、まだ扉を開ける前から、中の嘲るような声が針みたいに耳に刺さる。

「やっぱ真代ってすげぇよな。俺ら誰だって知ってるだろ。浅木さんの中じゃ、真代がいちばん大事なんだよ」

「そもそも浅木さんが桑野夜子と結婚したのだって、親父さん同士の昔の義理があったからだろ? じゃなきゃとっくに真代と結婚して、子どもだって作ってたって」

部屋の中央に座る男は、黒いシャツ姿だった。

襟元が少し開いていて、尖った喉仏と整った鎖骨がのぞいている。

細長い目元は酒のせいか、目尻がうっすら赤い。

気だるく、それでいて育ちの良さを隠しきれない男。

浅木辰也。

そしてその隣には、若い女が座っていた。

甘い顔立ちに、白い肌。

その言葉に、彼女は照れたように笑う。

「やだ、変なこと言わないで。私と辰也なんて、とっくに終わった話だよ」

そう言いながらも、視線は何度も浅木辰也へ落ちていく。

「浅木さんの方は終われてねぇんだよ!」

男たちは黙ったままの浅木辰也を見て、ますます囃し立てた。

「浅木さん、真代が帰ってきたのに、まさかヨリ戻す気ないとか言わないよな?」

一瞬、空気が止まる。

桑野夜子は無意識にスカートの裾を握りしめ、端正な男の顔をまっすぐ見つめた。

浅木辰也は唇の端をわずかに持ち上げ、気の抜けたような調子でふっと笑った。

肯定もしない。

否定もしない。

桑野夜子の唇から、最後の血の気まですっと消えていった。

その時、誰かが彼女に気づいた。

「あれぇ? 浅木奥様じゃないですか。そんなとこ立ってないで、入ってきたら?」

その一言で、全員の視線がいっせいに向く。

浅木辰也は彼女を見るなり、底の読めない黒い瞳をすっと細めた。

「夜子」

鈴木真代が足早に近づいてきて、親しげに桑野夜子の手を取る。

「久しぶり! 辰也もひどいよね、夜子が来るなら言ってくれればよかったのに」

桑野夜子はさりげなく手を引き抜いた。

鈴木真代は一瞬だけ固まったものの、笑顔は崩さない。

「ここまで来て疲れたでしょ? 何か飲み物、持ってくるね」

そう言って酒の並ぶ台へ向かい、シャンパンを一杯持って戻ってくる。

「これ、辰也が用意してくれたの。夜子の好みかわからないけど」

桑野夜子は一瞬ためらい、それでも手を伸ばした。

指先がグラスの縁に触れそうになった、その瞬間。

「あっ」

鈴木真代がわざとらしく声を上げた。

シャンパンはそのまま桑野夜子のワンピースにぶちまけられ、濃い染みが一気に広がっていく。

グラスは床に落ち、ぱりんと砕け散った。

「ごめん!」鈴木真代が慌てて謝る。「夜子、大丈夫? 私、ほんと不器用で……」

彼女が破片を拾おうと腰を落としかけた時、力強い手がその手首をつかんだ。

「触るな」

低く、冷えた声。

浅木辰也がいつの間にか近くまで来ていて、鈴木真代を一歩後ろへ引いた。

それから視線を桑野夜子へ向ける。

濡れて身体に張りついた服。

青ざめた顔。

見るからに痛々しい姿。

浅木辰也は眉をひそめた。

「どうしてそんなに不注意なんだ」

その言葉は、桑野夜子の中で勝手に別の意味へ変わる。

――ほら、またそうだ。いつもぐちゃぐちゃにして。真代に怪我でもさせたらどうするんだ。

桑野夜子は拳をきつく握りしめ、感情を押し殺した。

鈴木真代が手を滑らせたんだと、そう言い返したかった。

けれど、喉元まで上がった言葉は飲み込む。

そんな彼女を見て、浅木辰也の目つきがさらに冷えた。

無言でジャケットを脱ぎ、彼女の肩にかける。

「行くぞ。着替えるなり、何とかしろ」

……こんな寒い日に、こんな薄着で。

凍えたいのか。

桑野夜子は目を伏せた。

知らないうちに、目の縁がじわりと熱を持っている。

それでも意地を張って、その場から動かなかった。

「いい」

喉がごくりと鳴る。

「思い出した用事があるから。あなたたちのパーティーの邪魔はしない。先に帰る」

そう言って浅木辰也の手を振りほどき、俯いたまま駆け出した。

浅木辰也は反射的に追いかけようとしたが、友人たちが一斉に立ち上がり、行く手を塞いだ。

かなり遠くまで走って、ようやく涙がこぼれた。

夜風が頬を打つ。

いつの間にか雨が降り出していた。

冷たい雫が顔を叩き、シャンパンの湿り気と混ざって、骨まで冷やしてくる。

桑野夜子は傘も差さず、道をとぼとぼ歩いた。

服はあっという間に濡れそぼち、寒気がじわじわと染み込んでくる。

頭が重い。

視界もぼやける。

その時、背後から赤いスポーツカーが猛スピードで突っ込んできた。

ざばっ!

タイヤが水たまりを跳ね上げ、冷たい泥水が桑野夜子の全身に降りかかる。

車はすぐそばで止まり、運転席の男が顔を出して口笛を吹いた。

「どうだ? 少しは目ぇ覚めたか? 身の程わかってんなら、さっさと真代にその席譲れよ!」

隣の男も笑いながら続ける。

「ほんとそれ。浅木さんのそばに何年いようが、自分が本物の浅木奥様だなんて思うなよ。恩を盾に真代を追い出して、名家に嫁入りとか。マジで胸糞悪い」

言うだけ言って、車は走り去った。

桑野夜子はその場に立ち尽くしたまま、泥水を髪先からぽたぽた滴らせる。

寒い。

寒すぎる。

全身ががたがた震え、視界の端から暗く揺らいでいく。

数歩だけ踏み出したところで、膝から力が抜けた。

次の瞬間、彼女は雨の夜道に重く倒れ込んだ。

……

目を覚ますと、視界いっぱいに白が広がっていた。

何度か瞬きを繰り返し、ようやくここが病院だと気づく。

「目が覚めましたか」

カルテを挟んだ医師が、ベッド脇に立っていた。

「具合はどうです? どこかつらいところはありますか」

桑野夜子は全身がだるく、力も入らない。

「……大丈夫です」

「路上で倒れていたところを、通りがかった方が運んでくださったんです。雨に濡れたことと、強い精神的ショックが重なって、急性の低血糖と軽い発熱を起こしています」

医師は手元の検査用紙に目を落とし、少し言葉を切った。

それから顔を上げる。

さっきよりも、表情がずっと重い。

「ただ、一番大事なのはそこではありません」

桑野夜子が意味を飲み込む前に、医師はきっぱりと言った。

「妊婦さんが、こんな雨の中で倒れるなんて、どういうつもりですか」

桑野夜子の呼吸が、ぴたりと止まった。

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しかし、そんな彼女を指さして嘲る者がいる。
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神医の令嬢も彼女なら、国画の大家も彼女。
伝説のハッカーも彼女なら、正体不明の謎の女優も彼女。
そして、暗部を統べる首領さえも——彼女なのだ。

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紅蓮が流し目をひとつ送る。

「婚約、破棄しなくていいの?」

「しない」

彼が長いあいだ追い求めてきた決して手の届かない高嶺の花こそが、いま腕のなかにいる婚約者なのだ。
解消などありえない——この婚約は、死んでも解消しない。