虐げていたボディーガードが旦那様になりました

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渡り雨 · 完結 · 16.8k 文字

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紹介

ヤクザの組長の一人娘として、私は幼い頃から「信頼」が最も高価な贅沢品であることを理解していた。父が病に倒れた後、私にある条件を突きつけた。――正式に組を継ぎたいのなら、まず夫を選び、結婚しなければならない、と。

誰もが、私が幼馴染であり、組のナンバー2の息子である土屋恵司(つちや けいじ)を選ぶと思っていた。私自身でさえ、そう信じていた。――前の人生で、彼の無関心と裏切りによって殺される、その時までは。

私は廃墟となった埠頭の倉庫で、鉄格子の中に閉じ込められていた。すべてを飲み込もうとする炎の中、私は恵司に助けを求めた。彼はわずか10メートル先に立っていた。その足元には、鉄格子を開けるための鍵が落ちているというのに。

「寧音、お前の親父が生きている限り、組は俺のものにはならない。これは私怨じゃない、ビジネスだ」

彼の腕には、私が最も信頼していた“親友”の美沙希が抱かれていた。彼女は私に微笑みかけ、「あなたの代わりに、私がすべて面倒を見てあげるわ」と言った。

意識が遠のく直前、黒い影が火の海に飛び込んでくるのが見えた。――それは、私が「下賤の者」「犬」と罵ったことのある、あのボディーガードの赤山(あかやま)だった。

そして、私は目を覚ました。誕生日の宴の一ヶ月前に戻っていた。今度こそ、あの場所は本当に価値のある人に譲るつもりだ。

それなのに、なぜ。私の婚約披露宴で、恵司は皆の前で跪き、涙を流して「結婚してくれ」と懇願してきたのだろうか

チャプター 1

「ああっ——!」

 がばりと上体を起こした。激しく波打つ胸が、酸素を求めて喘いでいる。

 視界に飛び込んできたのは、黒焦げの廃墟ではない。見慣れた寝室だ。掃き出し窓の向こうには屋敷の薔薇園が広がり、朝の光が床に落ちている。

 私は……生きている?

 手をかざしてみる。指先に火傷の痕はない。サイドテーブルのカレンダーに目をやれば、そこには『五月十日』とあった。

 お父様が暗殺される、一ヶ月前。

 そして、私の二十二歳の誕生パーティーで、正式に婚約者を発表する一ヶ月前でもある。

 ノックの音が響いた。低く、抑制の効いた音だ。

「中宮お嬢様、起床のお時間です。土屋さんが階下で朝食をお待ちです」

 赤山敦司。

 その名前が頭に浮かんだ瞬間、心臓を鷲掴みにされたような痛みが走る。前の人生で、私は彼を空気のように扱い、道具と見なし、憂さ晴らしの対象にしてきた。けれど最期に火の海へ飛び込んでくれたのは、彼だけだったのだ。

「入りなさい」

 私は努めて平静を装った。

 ドアが開き、赤山が入ってくる。黒のスーツに身を包み、彫りの深い顔には何の感情も浮かんでいない。その瞳は恭順の色を湛えつつもどこか他所他しく、私を直視することさえ憚られるようだった。

「土屋さんが、お嬢様のお好きなクロワッサンをお持ちになりました。それと、いつものカフェのラテも」

 業火に焼かれる前の、綺麗なままのその顔を見つめると、目頭が熱くなる。

 だが、取り乱してはいけない。

 今の赤山にとって、私はただの護衛対象だ。あまりに不自然な振る舞いをすれば彼を怖がらせてしまうし、恵司に怪しまれる恐れもある。

「中宮お嬢様?」

 私の異変を察知したのか、赤山は素早くこちらを一瞥し、すぐに視線を伏せた。

「お加減が優れませんか。主治医をお呼びしましょうか」

「必要ないわ」

 私は布団を跳ね除けてベッドから降りた。その声は、氷のように冷え切っていた。

「恵司に伝えて。目障りだから帰れ、とね。今日は誰とも会いたくないの。そのパンの匂いだけで吐き気がするわ」

 赤山は呆気に取られていた。

 無理もない。昨日の私が恵司のためにネクタイを選び、婚約後のハネムーンの行き先を楽しげに語っていたのを覚えているはずだ。恵司の言葉なら何でも信じ、恵司が望めば全てを与えていた私を。

「それは……」

 彼は戸惑いを見せる。

「私の言葉が理解できないの?」

 鏡の中の自分を見つめ、口角を冷たく吊り上げた。

「今日から、朝一番に土屋恵司の名前を聞かせないでちょうだい。彼が持ってきた物は、全部捨てて」

 赤山は困惑しながらも、訓練された本能に従い即座に頭を垂れた。

「承知いたしました、中宮お嬢様」

 サイドテーブルの上でスマホが震えた。画面が明るくなり、恵司からのメッセージが表示される。

『寧音、まだ寝てるのかい? 今日は美沙希も来てるんだ。君が持ってるミッドナイトブルーのオートクチュールのドレス、借りたいんだってさ。あとで渡してやってくれよ。いい子だろ』

 前の人生で、私は何の迷いもなくあのドレスを美沙希に貸してしまった。お父様が二十一歳の誕生日に贈ってくれた、世界に数着しかない限定品。中宮家の後継者である証とも言えるドレスだ。その結果、彼女は慈善パーティーで主役のように振る舞い、私は愚か者のように部屋の隅で彼女に拍手を送る羽目になった。

 いい子?

 土屋恵司、今度の人生では教えてあげるわ。本当の意味で「いい子」にするとはどういうことか。

 私はスマホの電源を切ると、ベッドの上に乱暴に放り投げた。

「赤山」

 鏡越しに彼を見る。

「車を回して。プライベート射撃場へ行くわ」

「御意」

「それと」

 私は振り返り、彼の顔をじっと見据えて一言一句区切るように告げた。

「今日は貴方が相手をして。……手取り足取り、指導してもらうわよ」

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六年間、身を粉にして尽くしてきた日々は、何の意味もなかったのだ。

絶望の中で目にしたのは、かつて母が手にした科学界の最高栄誉であるトロフィー。
その輝きが、私に本来の自分を思い出させた。

私はエプロンを脱ぎ捨て、白衣を纏う。
もう誰かの妻でも、母でもない。一人の科学者として、世界を驚かせるために。

数々の賞を総なめにし、頂点に立った私を見て、元夫は顔面蒼白で崩れ落ちた。
震える声で私の名前を呼び、足元に縋り付く彼。

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