紹介
私が彼を発見した時、彼は知人らしき相手にこう言って嗤っていた。
「北条隆一を苦しめたいがために、西村綾香との結婚を決めただけだ」
「だが、いざ結婚が現実になると、興味が失せてしまった」
「しかし、このままでは気が済まない。結婚をドタキャンして彼女の顔に泥を塗ってやれば、面白いと思わないか?」
そこで私は、彼より先に結婚から逃げ出した。彼を街全体の笑い者にするために。
後日談だが、誇り高き藤原家の若様は、失踪した自身の花嫁を、街を隅から隅まで探しても見つけられなかったという。
チャプター 1
結婚式の一ヶ月前、婚約者の藤原常宏が失踪した。
いくら探しても、彼は見つからなかった。
彼が姿を消して七日目の夜、ようやく京都にいるという連絡が入った。
私は躊躇うことなく、東京から京都へと飛んだ。
京都に着いたのはもう深夜だった。急いで彼のいる場所へ駆けつけ、ドアをノックしようとした瞬間、中から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「俺が西村綾香と付き合ったのは、ただ北条隆一をむかつかせるためだよ」
藤原常宏の声だった。
私の手は、宙で固まった。
「一度味わってみたら、案外つまらない女でな」
彼の声には、私が今まで聞いたことのない軽蔑の色が滲んでいた。
「藤原さんは流石ですね、あの高嶺の花を落とすなんて」
誰かがお追従を言った。
「残念ながら、俺は彼女の初めての男だが、初めて好きになった男じゃない」
藤原常宏は続けた。
「あれだけ長いこと北条隆一を想っていたんだ。今でも心の中じゃあいつを愛してるんじゃないのか、誰が知るもんか」
「北条隆一と犬猿の仲じゃなければ、あいつの女を追って不快にさせてやろうなんて思わなかったさ……健気に守る情の深い男なんて芝居、する羽目にもならなかった」
私の心は、氷の底へと沈んでいった。
「藤原さん」
と、低い声が尋ねた。
「三年間、本当に一度も西村さんに心が動いたことはないのですか?あれほどあなたを信頼していたのに、一瞬でも憐れみを感じなかったのですか?」
個室は一瞬、静まり返った。私は息を殺し、常宏の答えを待った。
「憐れみ?」
常宏は鼻で笑った。
「ビジネスは戦場だ。感情なんざただの駒にすぎん。北条の奴が俺の一番大事な投資案件を奪ったから、俺はあいつが一番気にかけてる女を奪った。彼女はただの捨て駒だよ」
「九州のプライベートアイランドで結婚式をドタキャンして、あいつに恥をかかせるのも面白そうじゃないか?」
その言葉は一本の匕首のように、私の胸に深く突き刺さった。ドアの隙間から、常宏が杯を掲げるのが見えた。その瞳には「宿願を果たした」という快感だけが宿っていた。
私は、彼が私を愛していると、ずっと思い込んでいた。
私が北条隆一に夢中だった頃、彼は私にひどく冷たく、誰もが私のことを笑い者にしていた。そんな時、ただ一人、藤原常宏だけがずっと陰ながら私を守ってくれていた。
彼は言った。
「君に俺を見てほしいなんて思わない。ただ、君がこれから自由であってほしいと願うだけだ」
私が彼の交際を受け入れた日、彼は一晩中、花火を打ち上げた。
私たちが付き合って三年目、彼は私の名義で島を一つ買い、そしてプロポーズしてくれた。
これらは、愛ではなかったというの?
両脚が震え始め、胸が引き裂かれるように痛んだ。五年間の記憶が脳内で砕け散り、優しい微笑みも、情熱的な眼差しも、甘い誓いの言葉も、そのすべてが鋭いガラスの破片となって私の心臓を切り刻んだ。
真心だと思っていたそれは、ただ周到に仕組まれた罠だったのだ。
「女に復讐するなら、そりゃあ幸せの絶頂でどん底に突き落とすのが一番ですよ」
個室の誰かが提案した。
「いっそ何事もなかったかのように振る舞って、結婚式の当日に恥をかかせるのはどうです?」
その瞬間、私の心は微かに揺れた。常宏が「いや、綾香にそんな仕打ちはできない」と断ってくれるかもしれない、と一瞬だけ、愚かにも期待してしまったのだ。
ほんのわずかな躊躇いでも、一片の良心の煌めきでもいい。
「うん、その考えは悪くないな。それでいこう。綾の島でだ」
常宏はためらうことなく同意し、その声には愉悦さえ含まれていた。
その瞬間、私の最後の希望も打ち砕かれた。
私は顔の涙を拭い、静かにその場を離れた。
藤原常宏、そんな風に私を弄びたいの?なら、私もあなたを弄んであげる。結婚式の当日、あなたよりも早く、あなたより先に、結婚式から逃げ出してやる。
私は京都へ行った痕跡をすべて消し去り、自らデザインしたウェディングドレスを切り裂いた。
そうすることで自分に言い聞かせるのだ。情けをかけてはいけない、と。感情もウェディングドレスも、一度裂け目が入ってしまえば、二度と元には戻せないのだと。
それらを隠し終えた後、私は眠れなくなった。
ベッドで何度も寝返りを打っても眠れず、スマートフォンを開いてSNSを眺めていた。
ふと、「常宏を愛する知世子ちゃん」という名のアカウントが目に留まった。
タップすると、それはある女性が一人の男性に十年も片想いをし続けた記録だった。
最新の投稿、その位置情報は京都を示していた。
彼女はこう綴っていた。
「十年好きだった人がもうすぐ結婚します。勇気を出して告白したいので、皆さん、私に勇気をください」
その文章の下の写真に、私はもう一つの見慣れた手を見つけた。
それは藤原常宏の手だった。そこには、私たちの婚約指輪がはめられていた。
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