元夫の土下座を背に、私は最高の名門に嫁ぐ

元夫の土下座を背に、私は最高の名門に嫁ぐ

水瀬 しおり​ · 連載中 · 385.2k 文字

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紹介

結婚三周年の記念日、夫が私に贈ったのは——離婚届だった。

行き場を失った私は、重い病を抱えた娘を連れて街頭をさまよった。絶望の果てに、母が遺してくれたたった一つの形見を手放した。

しかし、一族の信託財産が公開された時、娘が最大の相続人に指定されていた。

元夫が親権を求めて私を法廷に訴えた時、私は全員の前で親子鑑定の報告書を叩きつけた。

「あなたは不妊症よ。最初から娘の父親ではなかった——本当の父親は、別にいる」

チャプター 1

松原南は呆然と食卓のそばに座り込み、江村成宏が投げつけてきた離婚届を見つめたまま、全身ががたがたと震えるのを止められなかった。

一時間前まで――彼女は胸を弾ませ、結婚三周年のキャンドルディナーを用意していた。

それが、たった一時間後。

成宏は女を連れて家に上がり込み、離婚届を頭からぶちまけるように叩きつけてきた。

「松原南、サインしろ。明子の席を空けろ!」

席を、空けろ。

つまりこの四年間の結婚は、彼女が勝手に信じていただけの夢だった。最初から最後まで、笑い話。

松原南は充血した目で成宏を見上げ、唇を震わせる。

「……彼女のために、私と離婚するの? 江村成宏、忘れたの? あなたが何もなかった頃、誰がそばで支えたと思ってるの」

成宏は聞く耳を持たない。冷淡な視線で見下ろし、その目には嘲りだけが浮かんでいた。

「今さら昔話? 松原南、鏡を見ろよ。右手は使い物にならない。ペンすらまともに持てないくせに、俺の何が支えられる? 明グループの今の立場には、明子みたいな世界で名の通ったデザイナーが必要なんだ。おまえみたいな役立たずじゃない」

役立たず。

その言葉が胸を貫き、息が詰まるほど痛かった。

四年前の事故。彼にデザイン案を届けようとして、右手を粉砕骨折した。今も完治していない。

かつて街を沸かせた天才デザイナーQは、そこで姿を消した。

なのに今、彼は彼女を「役立たず」呼ばわりする。

松原南は、ふっと笑った。笑っているのに涙が頬をつたう。

なんて残酷な男。

隣では白原明子が成宏の腕に絡みつき、華やかに微笑んでいた。松原南を見る目だけが、どこまでも哀れみを帯びる。

「南さん、成宏も会社のためなんです。ご存じでしょう? 明グループはいま上場の大事な時期で……その手では……確かに、彼のそばにいるのは難しいと思います」

松原南は二人を睨み据えた。怒りが、ありありと滲む。

「ここは私の家よ。出て行って」

「すぐにおまえの家じゃなくなる」

成宏が容赦なく言い放つ。

「この家は婚姻中の財産だが、頭金を出したのは俺だ。ローンも俺が払ってる。夫婦だった情けで精神的損害の慰謝料は請求しない。でも家は置いていけ」

まるで滑稽なものを見るように、彼は彼女を見つめた。

「……私に、何も持たずに出て行けってこと?」

松原南は信じられない思いで男の顔を見た。顔立ちは、確かに愛したままなのに――急に、何も見えなくなった気がした。

大学の頃、彼女は必死に彼を追いかけた。松原家がまだ崩れていなかった時期だ。両親の反対を押し切って嫁ぎ、地下の安アパートで暮らし、カップ麺で腹を満たし、自分のデザインで彼を神輿に担ぎ上げた。

それなのに。

成功した途端、彼は彼女を追い払う。

「じゃあ他に何がある?」

成宏は一歩詰め、松原南の顎を乱暴につかんだ。骨が軋むほどの力で。

「松原家の尻拭い、どうなってる? 脱税だの何だの、街中に知れ渡ってるじゃないか」

一拍置き、吐き捨てるように続ける。

「そんな汚い家の女に、俺の財産を分ける資格があるか? それに――クルミをおまえみたいな人間に育てさせるなんて、俺が安心できるわけないだろ」

娘の名を出された瞬間、松原南の身体がびくりと跳ねた。狂ったように成宏を突き飛ばそうとする。

「クルミを欲しがる? ふざけないで! クルミは私が十月十日お腹で育てて産んだのよ! あなたは『重荷だ』って嫌って、一度だって抱いたこともないじゃない! 何をどうして奪う権利があるの!」

「金があるからだ。最高の教育を受けさせられるのは俺だ。おまえは自分一人すら養えないだろ」

成宏は彼女を乱暴に突き放した。

松原南は床に尻もちをつき、右手に鋭い痛みが走る。思わず手首を押さえ、顔色が真っ青になった。

本当は、両親が反対しただけじゃない。彼女自身も迷っていた。

口にできない事情があったからだ。成宏が乏精子症だと告げれば、結婚を許すはずがない。

だから彼女は、結婚の時点で体外受精を終えていた。

それでも彼女は、そのことを理由に離婚を持ち出したりしなかった。

なのに、先に離婚を言い出すのは彼。

あまりにも皮肉だった。

「サインしろ」

成宏は高みから見下ろし、その目に温度は一欠片もない。

「俺に手を出させるな。そうなったら、おまえのほうが惨めになる」

松原南は顔を上げ、成宏を見た。心の中が、じわじわと冷えていく。

七年も愛した男が、これか。

青春も才能も、すべて差し出した末の結末が、これか。

彼女は、彼を何一つ分かっていなかったのかもしれない。

心が死ぬのは、一瞬だった。

「……いいわ。サインする」

松原南は立ち上がり、震える左手でペンを取った。

彼が情け容赦ないなら、こちらも望み通りにしてやる。

「江村成宏。私は七年もあなたを愛した。……その七年が笑い話だったってことにしてあげる。今日からは、他人よ。交わることは二度とない」

涙をこらえ、むしろ誰より誇らしげに笑ってみせる。傷んだ手は思うように動かず、文字は歪んだ。それでも契約書に名前を書き切った。

そのとき――テーブルの上のスマホが、ぶるぶると狂ったように震え出す。

画面に表示されたのは、幼稚園の先生の名前だった。

嫌な予感が、背筋を撫でた。

松原南は通話に出る。手が震えて、スマホを落としそうになる。

「……もしもし」

『松原さん、大変です! クルミちゃんが急に倒れて、鼻血がすごくて止まらないんです。救急車でもう市立病院に――早く来てください!』

耳元で雷が落ちたみたいだった。

松原南は力が抜け、スマホが床に落ちて――がん、と鈍い音がした。

「クルミ……」

呟くと同時に、彼女は踵を返して飛び出そうとする。

だが成宏が手首をつかんだ。

「サインしたばかりでどこへ行く。話をはっきりさせろ。いつ出ていくんだ」

「離して!」

松原南は真っ赤な目で振り返り、喉が裂けるほど叫んだ。

「クルミが病院に運ばれたの! 江村成宏――もし娘に何かあったら、あんたたち二人を絶対に許さない。地獄に道連れにしてやる!」

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