紹介
クラブ『深淵』は混沌だった。仮面をつけた見知らぬ男が背後から私に体を押し付けてくる。レースのコルセットとTバックは防御にならない——むしろ誘っているようなものだった。
彼の手がスカートの下に滑り込み、灼熱の掌が素肌に触れる。音楽があまりに大音量で、誰も私の声を聞けない。
すべてが速すぎて制御できない。
群衆が前へ押し寄せる。私はよろめいて後ろへ——
熱く太い何かが私の中に押し入ってきた。
私は硬直した。
初めて。群衆のただ中で。顔も見えない男と。
仮面が彼の顔を覆っている。名前も知らない。どんな顔かも分からない。
これが人生最悪の過ちなのかどうかも分からなかった。
でも、身を引くことができなかった。
チャプター 1
私の名前は水野瑠衣。今夜の私はただ、自分が「いつだっていい子」なわけじゃないってことを証明したかっただけだった。
クラブ「深淵」は混沌そのものだった。スピーカーから轟音のように響くヘヴィメタル、煙を切り裂くストロボの光、むせ返るほど濃厚な人々の汗と酒の匂い、それにどこか甘ったるい正体不明の香りが混ざり合っている。
視線を落とした。レースのコルセットが肋骨に食い込み、胸を極端に押し上げている。群衆に揉まれるたび、自分がどれほど肌を晒しているかを思い知らされた。
下着のTバックなんて、もはやただの二本の紐だ。お尻は完全に丸出し。顔の半分を覆うハーフマスクだけが、私に匿名の安心感を与えてくれていた。
同じアパートに住んでいる友達の美咲は、みんなこんな格好をしていると断言していた。ここで待ち合わせしようとも固く約束していたのに。
彼女は来なかった。
だから今、私はジロジロと視線を送ってくる仮面の見知らぬ人々の波の中で、たった一人取り残されていた。
人が増えていく。四方八方から体が押し付けられ、自分の体と他人の体の境界さえ曖昧になっていく。気つけば、私はフロアの端に追いやられ、身動きが取れなくなっていた。
どこを見ても仮面ばかり。表情は読めない。宙を舞う腕、激しく振られる頭。
誰も私のことなど気にしていない。
それが少しだけ、救いだった。
その時、背後から誰かがぶつかってきた。
大して気には留めなかった。こんな場所で接触を避けるなんて不可能だ。
でも、またぶつかってきた。
そして、もう一度。
何か硬いものが押し付けられる。彼の腰だろうか。それとも肘?
私は体重を移動させ、少しでも隙間を作ろうとしながら、半分だけ顔を後ろに向けて喧騒越しに声を張った。
「ごめんなさい、ぶつかるつもりは――」
彼は下がらなかった。
それどころか身を乗り出し、私の耳に唇を掠めるようにして囁いた。
「気にするな」
低く、意図的な響きを帯びた声。
「俺は全然構わない」
彼が言い終えた瞬間、体を押し付けられる力が倍増した。
私は凍りついた。
あれは、肘なんかじゃない。
熱くて、硬くて。そして――動いている。
嘘でしょ。
胃がすとんと落ちるような感覚。
私が「悪い子になりたい」と言ったのは、こういう意味じゃなかった。
背後の男は背が高く、肩幅が広く、がっしりとしていた。彼は体重をかけ、自分の体と前方の人の壁とで私を挟み込むように閉じ込めた。
前に押し退けようとしたが、逃げ場はない。左右にも、さらなる人の波、さらなる轟音、そして全てを断片的に切り刻むフラッシュの光だけ。
誰も見ていない。みんな音楽のビートに溺れ、完全に我を忘れていた。
私は捕らえられていた。
彼の手が私の腰を這う。大きくて、重い。薄い生地越しでもわかるほどの熱。
こんなこと、今まで経験したことがない。
彼の手のひらがゆっくりと、じわじわと滑り落ち、むき出しの素肌に直接触れた。
ざらつき、タコのある、燃えるような手。
私は思わず体を強張らせた――
それが失敗だった。
彼はさらに密着してくる。その形がはっきりとわかった。熱。そして、その動き。
下腹部の奥で、何かがねじれる。
恐怖を感じて当然なのに。
そうじゃなかった。
あろうことか――私はほんのわずかに、後ろへ体重を預けてしまった。
彼はそれに気づいた。
手の動きが止まる。彼の呼吸が変わった。
私が許したと、彼は勘違いしたのだ。
彼の指がさらに下へと這い、Tバックの紐に引っかかると、ピンと張り詰めるように引っ張った。
いとも簡単に。
躊躇いも、警告もなく。
布が食い込む。彼はそれを一度捻り、さらに強く引いて、私の足の間深くへと無理やり押し込んだ。
私はビクッと身をよじったが、逃げ場はない。
彼は止まらなかった。紐を握る手に力を込め、まるで獲物を操るかのように、ゆっくりと、執拗に引き上げる。私の足が震えるその場所を見つけ出すまで。
押し当てられ、私は強く唇を噛み締めた。
彼がもう一度、円を描くように圧をかけた時、私は危うく声を漏らしそうになった。
彼は自分が何をしているのか、完全に理解している。
音楽が激しく打ち鳴らされる。彼はそのリズムに合わせ、動くたびに細い紐をさらに深く引きずり込み、私に擦り付けてきた。
痛い。
けれど、痛みの下には別の何かがあった。熱が広がり、足の力が抜け、呼吸が異常に早くなっていく。
そして、彼の手が止まった。
手を引っ込めるのがわかった。
彼の唇が私の耳に押し当てられる。濡れた音――ゆっくりと、わざとらしく。
彼は、私から引き出したものを味わっていた。
顔がカッと熱くなる。
「濡れてるな」
彼は面白がるように耳元で言った。
「早かったじゃないか」
羞恥心が津波のように押し寄せる。
人の群れのど真ん中で、見知らぬ男のために濡らしてしまった。しかも彼は、まるで私からの贈り物でも受け取ったかのようにそれを味わっている。
涙が目に滲む。
光が明滅する。ストロボが閃くたびに周囲の顔が照らし出されるが、誰もこちらを見ていないし、何が起きているのか気づいてもいない。
見つかるかもしれないという恐怖が、あらゆる感覚を研ぎ澄ませた。
私の呼吸はもう乱れきっていた。足も、これ以上は立っていられそうにない。
彼はそれに気づいた。
彼の手が戻ってくる。今度は、一切の躊躇いがなかった。紐が完全に埋もれてしまうほど強く押し付けられる。その摩擦は耐え難いものだった。
声が漏れた――小さく、無力な声が。
音楽がそれを丸ごと飲み込んだが、彼には聞こえていた。
私の背中で、彼が笑うのを感じた。
私は屈辱と快感の狭間で、バラバラに壊れそうだった。
私は肩越しに首をひねり、彼に倒れ込みそうになりながらも、暗闇と仮面越しにその顔を見ようとした。
「お願い」
声がひび割れる。
「やめて。もう――無理――」
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「だったら、そんなことしなければよかった」わたしは真正面から彼の目を捉え、こちらの瞳に張りついた氷を見せつけた。「息子のところへ戻って」
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イーサンが彼女を取り戻そうとしたとき、こう言った。「俺たちの子どもを、父親なしで育てたいのか」
ベラは嘲るように微笑んだ。「その子の父親は、あなたじゃないわ」
彼女はもう、疲れた
十年ものあいだ、私は幽鬼のようにこの豪邸に閉じ込められ、身を削って家計を支え、彼の吐くその場しのぎの嘘を飲み込み、彼が一片の心も寄せたことのない結婚生活を守り続けてきた。彼は確信していたはずだ、私が逃げ出せるはずがないと。母の癌治療費は、すべて彼の施しで成り立っていたのだから。
それは間違いじゃない。たしかに、金は必要だった。
でも――私はもう、残りの人生すべてを、彼が誰かを愛するのを見て過ごすために生きたくはない。
離婚届は、もうテーブルの上にある。今度こそ、私は懇願しない。縋りついたりもしない。
私が選ぶのは、私自身だ。
私が去った日
けれど最後に彼が選んだのは、私ではなく、彼の初恋の女性だった。
夫は、私の心を深く傷つけただけではない。あの女が私の大切なジュエリーデザインを盗むことを許し、さらには実の息子までも操って、私を「怪物」だと思わせた。
嘘で塗り固められた結婚生活の中で、私は少しずつ自分を失っていった。
息が詰まるような日々。愛されていると思い込んでいた時間。すべてが偽りだった。
けれど、彼らはひとつだけ間違えた。
私を、もう戻れないところまで追い詰めたこと。
私が去ると決めたあの日。
私は、最低な夫も、母親への感謝を忘れた息子も、そして彼らによって壊された過去の自分も、すべて置き去りにした。
親友の支え。そして、私の本当の価値を見抜き、才能を認めてくれたある若き実業家との出会い。
その温かな手によって、私はもう一度、自分自身を取り戻した。
失った誇りを取り戻し、眠っていた才能を開花させ、世界へ羽ばたくデザイナーとして新たな人生を歩み始めた。
今、私の作品は世界の舞台で輝いている。
一方で、かつて私を捨てた男は、跪いて許しを乞う。
「戻ってきてくれ」と。
けれど、もう遅い。
私が去ったあの日こそが、私が本当の自分を取り戻した日。
もう二度と、過去には戻らない。













