紹介
だから私は、そのすべてを置き去りにした。
なのに今さら、彼は私を取り戻そうと追いかけてくる。
……だけど、私がその願いを受け入れるとでも?
チャプター 1
「江口式さん、できるだけ早く手術を受けていただく必要があります。脳腫瘍の摘出を……」
悪性腫瘍の検査結果を握りしめたまま診察室を出た江口式は、真っ先に林田景司へ電話をかけた。
コール音はいつまでも鳴り続ける。出ない。
――なのに、耳に飛び込んできたのは、聞き慣れた声だった。
江口式は足を止める。
顔を上げると、ロビー中央の大型テレビに、スーツを端正に着こなした男が映っていた。英俊な顔立ちはいつもの冷たさを消し、穏やかで耳に心地いい声で授賞の辞を述べている。
林田景司だった。
スピーチを終えると、林田景司は両手でトロフィーを隣の女性に差し出した。その瞳の奥には、妻である江口式ですら一度も見たことのない、ひどくやさしい光が宿っている。
待合スペースがざわつきはじめた。
「今年のロボットデザインコンテストの受賞者、女の人なんだ。しかも、あんな美人……?」
「知らないの? 審査員に幼なじみの彼氏がいるんだって。大会中ずっと後ろ盾だったらしいよ。ほら、今トロフィー渡してる人。林田グループのトップ、林田景司。あの人がついてるなら、最初から決まってたようなもんでしょ」
「それは違うでしょ。松本寧音さんってドイツ帰りの理工系博士で、国内外でもトップクラスのエリートだよ。実力でしょ、男のコネじゃない」
「だから林田景司もあそこまで力入れるんだ。幼なじみってことは家柄も釣り合ってるし、二人とも優秀。まさに天が決めた相性ってやつ……」
江口式は検査結果を握りしめたまま、くらりと眩暈を覚えた。
耳鳴りが波のように押し寄せ、耐えきれず冷たい壁へ背を預ける。ようやく呼吸が落ち着いたころには、松本寧音は受賞コメントを終えて壇上を下り、配信も終わっていた。
今なら出るはず。
そう思って、江口式はもう一度かけ直した。
「……何か用か?」
さっきのやわらかな声とは別人みたいに、冷え切った声音。胸が詰まり、江口式は一瞬言葉を失った。
口を開きかけた、そのとき――
『景司、どうお祝いしてくれるの?』
弾むような女の声が受話器の向こうから聞こえた。
「待ってて」
林田景司の声。やさしさが、痛いほど滲んでいる。
そして次に江口式へ向けられたのは、どこまでも淡々とした、わずかに苛立ちすらにじむ声だった。
「今、忙しい。大した用じゃないなら何度も電話するな。帰ったら聞く」
通話は切れた。
江口式は無表情のままスマホを握り、ゆっくりと瞬きをする。
二、三秒後、暗くなった画面を見つめ、自嘲するように口元をわずかに歪めた。
その夜、林田景司は帰ってこなかった。
江口式が目にしたのは、林田景司の従妹が投稿したSNS。動画の中では、皆が松本寧音を囲んで祝福している。
林田景司もいた。松本寧音のすぐ隣に立ち、彼女を見つめる目には、隠しようのないぬくもりが満ちていた。
灯りを落とした寝室で、江口式の手足は冷え切っていた。
エアコンの温度を上げ、スマホの電源を落として横になる。
林田景司はもう一週間も家に帰っていない。今夜もきっと帰らない。
そう思いながら眠りについたが、胸に重いものを抱えたままの浅い眠りだった。だから、寝室のドアが開く音で、すぐに目を覚ました。
身を起こした瞬間、差し込んだ灯りに目を細める。次に見えたのは、浴室へ入っていく林田景司の背中だけ。
時計に目をやると、もう深夜を回っている。
帰ってきたんだ。
幼なじみの相手は、しなくていいの?
江口式はもう眠れなかった。ぼんやりと長いこと座り込んでいたが、やがて明かりが消え、隣のベッドが沈んだことでようやく我に返る。
林田景司が彼女の腰を抱き寄せ、顔を首筋に埋める。冷えた声が落ちた。
「俺に何か用があったんだろ」
吐息が首元をくすぐる。江口式は深く息を吸い込む――だが鼻先をかすめたのは、かすかな甘い香りだった。
知っている匂い。
林田景司が松本寧音と一緒にいたあとは、いつもこの香りを纏って帰ってくる。風呂に入ったあとでさえ、完全には消えない。
心臓が速く脈打つ。
江口式は林田景司の手を押さえ、下唇をそっと噛んだまま、何も言えなかった。
林田景司は短気だった。
「言わないなら、始めるぞ」
今は話す気分じゃない。
まして、抱かれる気分でもなかった。
もう、疲れていた。
「寝ましょう。明日にして」
そう言って押し返すと、闇の中で林田景司の目がひやりと沈んだ。
江口式が彼を拒んだことなど、今まで一度もない。今回はあまりに不自然だった。
林田景司はすぐに思い当たる。今日、松本寧音のことで彼女の電話を切った、その件だと。
「拗ねてるのか?」
問い詰めるような口調のまま、さらに言い聞かせるように続ける。
「松本爺さんが亡くなったばかりなのは知ってるだろう。最期に、寧音のことを頼まれた。狭量な真似はするな」
「ええ、わかってる。年長者との約束で松本寧音さんの面倒を見てるだけでしょう。私は気にしてない」
江口式の声は静かだった。
だが林田景司の耳には、嫌味にしか聞こえなかったらしい。
「気にしてないなら、くだらない意地は張るな」
そう言って再び手を伸ばし、低く告げる。
「江口式、おまえはこの家での役目を忘れるな。拒む資格があると思うのか」
江口式の抵抗が止まった。
三年前、彼女は政略結婚を受け入れて林田家に嫁いだ。林田家は江口家の経営危機を救い、その代わりに江口式は林田景司の妻となった。
けれど――三年経っても、彼女は一度も妊娠しなかった。
翌朝、目を覚ましたときには、林田景司はすでに朝食を済ませて出かけたあとだった。
その日の粥は、なぜか甘いものが食べたくなった。砂糖を取りにキッチンへ向かい、入口で足を止める。
家政婦の長島さんが背を向けたまま、小瓶を取り出し、煎じたばかりの薬へ素早く粉末を振り入れていた。
江口式はそれを目の当たりにし、黙って半歩下がると、何事もなかったように席へ戻った。
二分後、薬の入った椀が江口式の横に置かれる。
「奥様、お薬ができました。熱いうちにどうぞ」
長島さんはそう言うと、いつものように江口式をじっと見張った。
長島さんは林田景司の祖母が寄越した家政婦で、この薬も祖母が手配したものだ。体を整えるため――そう聞かされていた。
以前の江口式は、長島さんが飲むところを見届けるのは、祖母への報告のためだと思っていた。
けれど今は、そうとも限らない気がした。
「まだ朝食の途中だから、あとで飲むわ」
「召し上がるのが遅すぎます。冷める前にお飲みください」
江口式が冷たく目を向けると、長島さんは一瞬だけたじろいだ。普段おとなしく穏やかな江口式が、あからさまに怒気を見せたのは初めてだったのだろう。
だが次の瞬間には、また平然と口を開く。
「奥様、三年もご懐妊されないものですから、老夫人に毎日きちんと薬を飲ませるよう言いつかっております。苦いからと飲まれないと、私も困るんです。もしよろしければ、薬をやめていいかどうか、老夫人に伺ってみましょうか?」
江口式はスプーンを置き、椀を持ち上げて匂いを確かめた。込み上げる吐き気を堪えながら、一気に飲み干す。
空になった椀を置くと、長島さんの得意げな顔も見ず、そのまま寝室へ戻って薬を全部吐き出した。
それから三十分あまり後、江口式はひとつの荷物を発送した。
その日の午後、メールボックスに検査報告が届く。
内容を読み終えた瞬間、顔色がみるみる白くなった。マウスを握る指が震える。
彼女が飲まされていた薬には、大量の避妊薬成分が混入していたのだ。
どうりで、もともと健康だった体が、結婚後には「虚弱で授かりにくい体質」だと診断されたはずだ。
避妊薬が、彼女の体を壊していた。
江口式は長島さんの部屋へ駆け下りた。だが部屋の前に着いた途端、中から漏れた言葉に足が止まる。
「若様のお言いつけは覚えてますよ。あの人に、若様の子を産む資格なんてありませんからね……」
長島さんの声は続く。
「ご安心ください。今まではバレるのが怖くて、スープに少量ずつしか入れられませんでしたけど、今はあの人が飲む薬に混ぜてます。量を増やしたって、気づくはずありません」
若様――
林田景司。
一気に力が抜けた。頭がくらくらして、どうやって自室へ戻ったのかも覚えていない。
長く鳴り続ける着信音で、ようやく我に返った。
発信者は林田景司の祖母だった。
「江口式、今夜は景司と一緒にこちらへ来て夕食を食べなさい。それと、専門医に新しく処方してもらった薬も持っていきなさい」
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#150 第150章 俺を愛したことがあるか
最終更新: 9/16/2026#149 第149章 本当に俺の?
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「この子に会いたければ、跪いて許しを請いなさい」
そう言えば、さすがに諦めるだろう——。
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やがて、雲市で最も賑わう中心街の大型街頭ビジョンに、ある動画が一日中エンドレスで流れ始める。
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