紹介
「てめえ……」
怜司は血のにじむ口元を親指で拭い、低く笑った。
「俺が本気だって、どうしても信じられねえのか」
「あんたの『好き』なんて、どうせ見た目に惚れただけでしょう」
貧乏学生の奈緒は、冷たく言い捨てた。
だが、死して霊となった彼女は、思いがけない光景を目にする。
あれほど自分につきまとっていた御曹司が、自らの手で彼女の仇を討ち、血をもってその罪を償っていたのだ。
ビルの屋上で、暗い夜空を見上げながら、彼は静かに呟いた。
「仇は討ったぞ」
その一言に込められた想いを知ったとき、奈緒はもう一度生きたいと願った。
次の瞬間、彼女は大学一年生の自分に戻っていた。
まだ死んでいない。彼の手も、まだ自分のために血に染まってはいない。
「俺から逃げられると思うなよ」
唇を離し、顎を掴んで凄む彼に、奈緒は微笑んだ。
「私のどこが好きなの? どうせ顔でしょう?」
そう言って背伸びをすると、今度は自分から彼の唇に口づけた。
*
人混みの中で彼女を一目見た瞬間、風間怜司は心を奪われた。
守りたい。抱きしめたい。何があっても、手放したくない。
一目惚れだった。
生きていても、死んでいても、彼が愛するのは彼女ただ一人。
チャプター 1
2014年。
大都会の夜は濃く、すでに安らかな眠りに沈む者もいれば、酔いと欲望に溺れ、人の本性を剥き出しにする者もいる。
小島奈緒は必死に階段を駆け下りていた。
廊下に敷き詰められた分厚い絨毯や、ロビーにぶら下がる眩いシャンデリアに比べれば、非常階段の造りはあまりにも簡素だ。火事でも起きない限り、ここを使う人間などほとんどいない。
蛍光灯の白い光が冷たく照らす中、奈緒の頬だけが激しい運動で赤く染まっていた。
エレベーターは使えない。下の乗り口を相手の手下が塞いでいる。乗った瞬間、袋の鼠だ。
ヒールが足を引っ張った。ぐきり、と足首が折れそうに捻れる。痛みに歯を食いしばり、靴を脱ぎ捨てて裸足で走った。さらに二階分降りたところで、下から複数の足音がどっと迫ってくるのが、はっきり聞こえた。
ぞくり、と背筋が凍る。反射的に足を止める。
「急げ! 絶対上にいる! 出口は全部塞いだ! 逃げられるわけねぇ!」
男の声が階段室に反響し、耳にまとわりつく。
小島奈緒は即座に踵を返し、今度は上へ走った。
裸足の足音はほとんどしない。だがすぐに、また声が響く。
「靴がある! 上だ!」
絶望が胸の奥に沈む。上へ行けば行くほど、助かる道などない。それでも、もう他に逃げる方向がなかった。
最上階に辿り着き、扉を押し開ける。そこに広がっていたのは、漆黒の夜空――屋上だった。
街の照明が屋上を照らしている。殺風景で、雑然としていて、小さな小屋のような四角い突起がいくつか並ぶ。エレベーターの機械室か、冷却装置だろう。あとは補修用の足場が点在するだけ。
人影はない。
屋上に出た瞬間、足裏が何かで切れた。何を踏んだのかも分からない。痛みを堪え、前へ走り、四角い突起の陰に身を滑り込ませた。
お願い、神様。どうか見つけないで――。
だが、祈りなど届かなかった。数分遅れで連中が屋上へ上がってくる。彼らは彼女がここにいると分かっていながら、すぐに探し始めなかった。
唯一の出口を塞ぎ、「本命」が来るのを待っている。
ほどなくして、その男が現れた。もちろんエレベーターで最上階まで上がり、そこから屋上へ来たのだ。
「小島奈緒。隠れてないで出てこいよ。見えてるぞ」
楽しげに笑いながら叫ぶ。
嘘だ。あの位置から、彼女は見えない。奈緒は息を殺し、体をさらに小さく縮めた。足先が冷たいものに触れる。
見下ろすと、地面に腕ほどの長さの鉄パイプが落ちていた。
音を立てないよう拾い上げ、ぎゅっと握りしめる。
彼女が出てこないと分かると、聞き慣れた声が命令を飛ばした。手下たちが散って捜索を始める。ここは隠れようがない。十分もあれば見つかる。
それでも男は余裕たっぷりに言葉を投げ続けた。
「なぁ、考え直せよ。誰のために守ってんだ? 風間怜司か? はは。『誰も触るな』って息巻いてたくせに、今どこにいるんだよ?」
風間怜司。――また、風間怜司。
しつこく彼女に絡みついてきた風間怜司は、数か月前、突然学校から姿を消した。
奈緒は関係ないと思っていた。自分と風間怜司は、噂で言われるような関係ではない。そもそも何もない。
だが甘かった。風間怜司が消えた途端、待ってましたとばかりに誰かが彼女に手を伸ばしてきた。
男はさらに続ける。
「別にさ、俺はお前と風間怜司のことなんて気にしねぇよ。大人しくしろ。俺の彼女にしてやる。出てこいって。意地張るな」
「風間怜司とは寝たくせに、俺とは無理ってか?」
ふざけるな。寝てない。
歯を食いしばる。
女子たちは、彼女が通ると声を潜めて囁き、驚いたように息を呑み、見下すような目で蔑んだ。
男子たちは、胸や腰や尻を値踏みするように視線を走らせ、ひそひそと何か言っては、時に下品に笑った。
当事者にならなければ分からない。噂話がどれほど人を傷つけるか。
彼らはただの色恋沙汰として消費し、寝る前の話のタネにするだけで、当事者の人生を削る刃だとは知らない。
そして、噂を真に受けて「何をしてもいい」と勘違いする者がいる。目の前の男が、その典型だった。
足音が近づく。男の声が、もうすぐそこだ。
「お前、ほんと分かってねぇな。ぶりっ子してんじゃねぇよ。誰が知らねぇんだよ――貧乏女。1晩6万だろ? 俺なら15万出す。20万でもいい。出てこい」
息を止め、鉄パイプを握り締める。
男の靴先が見えた。次の瞬間、顔が覗き込む。自然な動きでこちらを確認し――隠れていた奈緒と目が合った。
「いた――」
喜色が走り、仲間を呼ぼうと口を開いた、その瞬間。
奈緒は全身の力を振り絞り、鉄パイプを振り抜いた。
鈍い衝撃。鼻梁を直撃し、血がぱっと弾ける。飛沫が奈緒の頬にも散った。
男は悲鳴を上げ、のけ反って倒れる。
奈緒はその体を飛び越え、階段口へ突っ込もうとした。だが物音を聞きつけた手下が一斉に駆け上がってくる。
鉄パイプを振る。用心棒が腕で受け、痛みに顔を歪めながらも逆に掴み取り、素手で奪い取った。別の男が彼女を地面へ押さえつける。
もがく中、手が何かに触れた。レンガの欠片だ。反手で振り上げ、押さえつけている男の頭へ叩きつける。
「ぐっ……」
男が呻いて手を緩めた。
その隙に振りほどく。
だが、逃げ場はない。最後の最後、奈緒は建物の縁へ飛び乗った。
「来ないで! 来るな!」
喉が裂けるほど叫ぶ。
けれど虚勢だ。手元にはレンガの欠片。背後は三十数階の闇。望めるのは、相手が突然良心に目覚めてくれることだけ。
――そんな奇跡が起きるはずもない。
血だらけの若い男が肩を支えられながら近づいてくる。目には凶光。鼻は激痛で、骨が折れているかもしれない。歯も二本欠けた。そんな状態で良心など思い出すわけがない。
「このアマァ!」
怒鳴り、唾を飛ばして命じる。
「引きずり下ろせ!」
男たちが迫る。奈緒は後ずさり――足を踏み外した。
闇へ。
落下の時間は、永遠のように長いという。恐怖で満たされる、と。
奈緒はその長さを、骨の髄まで味わった。死にたくない。苦しくても必死に生きてきた。死にたいはずがない。
自分が死んだら、お婆さんはどうなる?
人は、どうしてここまで残酷になれるのか。風間怜司ですら十分に酷いと思っていたのに、世の中にはもっと酷い人間がいる。
同じ学生で、同じ学校の人間で――どうして、ここまで。
恐怖と、悔しさと、怒りを抱えたまま。小島奈緒は墜ちて死んだ。
魂が身体を離れ、屋上を見上げる。彼女を殺した連中は慌ただしく去っていった。
警察が来て遺体を回収し、捜査が始まる。これで罰せられる――そう思った。
だが、違った。
どこからともなく現れた「目撃者」たちが口を揃えて言った。
その夜、彼女は金のことで客と揉め、叱責され、思い詰めて飛び降りたのだ、と。
言葉の端々は、彼女が自殺したと決めつけるために整えられていた。
結局、結論は「自殺」。
噂は学校にも届き、また風が吹く。
「不潔だよね。女の子があんなとこでバイトって。そういう店なんでしょ?」
「男客と金で揉めたんだって?」
「え、詳しく知ってるの?」
「……金らしいよ」
「1晩6万って、風間怜司から始まったって……」
語る者は、まるで見てきたかのように得意げで。
聞く者は、驚きと興奮で身を乗り出す。
汚水が、何度も何度も彼女に浴びせられた。
言葉には力がある。誰かが彼女の名を口にするたび、奈緒はそこへ引き寄せられた。死んだ直後、学校中が彼女の話題で沸き、彼女はあちこちへ引きずり回されるように彷徨った。
お婆さんも彼女を呼んだ。
「奈緒、奈緒……どうして帰ってこないの……」
お婆さんは家に閉じ込められ、食べ物を食い尽くし、飢えて扉を叩いた。
「奈緒……お腹すいた……」
奈緒はどうすることもできず、焦りで胸が裂けそうだった。
幸い、隣人が助けを求める声に気づき、通報してくれた。警察が扉を破り、お婆さんは餓死を免れた。
認知症の老人。警察も扱いに困っていた、そのとき。
一人の若い男が現れ、お婆さんを引き取っていった。
噂の中で、奈緒と寝たことになっている金持ちの御曹司――風間怜司。
風間怜司はお婆さんを認知症専門の施設へ入れ、その場を去った。
お婆さんが彼女の名を口にするたび、奈緒はお婆さんのそばに留まれた。そうして、どれほどの時間が過ぎたのか分からない。
ある日、突然――別の誰かに呼ばれた。
気づけば、そこにいた。
二度と忘れない場所――自分が死んだ屋上。
真っ暗な夜。彼女を殺した男が両腕を背中で捻り上げられ、地面に押さえつけられている。
風間怜司は目を真っ赤にし、鉄パイプを握っていた。あのとき落ちていたものと同じかどうかは分からない。だが彼は、鬼の形相で男を叩きのめしていた。
男の悲鳴が豚のように響くたび、奈緒の胸は妙にすっとした。
脚を折り、肋骨を砕き、最後には鉄パイプが曲がるほどに殴り続けた。
「カラン」と音を立て、パイプが地面に落ちる。
風間怜司は鼻を拭い、手についた血で顔を汚した。
ネオンに照らされたその姿は、まるで悪鬼。
彼は手を振り、手下が男を放す。
風間怜司は屈み、男の襟首を掴んで引きずり、建物の縁へ向かった。
場所は正確だった。
奈緒が踏み外して落ちた、あの位置。
男を引き起こすと、掠れた声で叫ぶ。
「風間怜司! 頼む! 許してくれ! 許してくれ! お願いだ!」
「……あいつも、頼んだんじゃねぇの?」
風間怜司が言う。
「お前は許したか?」
「殺人だぞ! 殺人だ!」
声が裏返る。
風間怜司は鼻で笑った。
「血の借りは、血で返す。それだけだろ」
淡々とした口調。刃物みたいに冷たい声。
「怖いか? あいつをここまで追い詰めたとき、あいつがどれだけ怖かったか、考えたことあるか?」
「俺じゃない! あいつが勝手に落ちたんだ!」
必死の言い逃れ。
風間怜司はしばらく黙り、夜の中で薄く笑った。
「お前もだ」
腕の筋肉がぎゅっと張り、溜めて――一気に持ち上げ、外へ放った。
奈緒は思わず目を覆い、見られなかった。
少しして下から、重いものが地面に叩きつけられる鈍い音。悲鳴。
指の隙間から覗くと、男はもういない。
そこにいるのは風間怜司だけ。
夜風が前髪を煽る。
彼の瞳は夜よりも濃く黒く、底なしの穴が潜んでいるようだった。
視線が吸い込まれる。外せない。
どうして?
誰のために復讐を?
答えが胸の奥で、形になりかけた。
「早く離れましょう」
手下が低く促す。下ではもう騒ぎになっている。
風間怜司はしばらく闇を見つめ、踵を返した。
階段口の扉を開け、皆が流れ込む。風間怜司は最後尾。
一歩、階段室へ入った、そのとき。
彼は扉に手をついたまま振り返った。
奈緒はふわりと彼の後を追っていたが、突然、目の前で縫い止められたように動けなくなる。
彼の視線は広い屋上へ向いている。だが彼女は、ちょうどその正面にいた。
だから――目が合った。
見えているはずがないのに。
まるで、彼女を見ているみたいに。
薄い唇がわずかに動く。声は吐息ほど小さい。
それでも奈緒の目は、見開かれた。
「仇は取った」
「奈緒」
ため息みたいな声。
手が離れ、風間怜司の背が階段室へ消える。
扉が跳ね返り、「ガンッ」と大きな音を立てて閉まった。
その音がやけに耳を裂き、次の瞬間――巨大な引力が彼女を見えない時間の渦へ吸い込んだ。
渦の中で時間が加速し、映像は夢のように、ぶつぶつと切り替わる。
彼が手錠をかけられ、牢に入る。
面会に来た若い男が嘲る。
「どんだけ恨みがあったんだよ。急に殺しに行くとかさ。お前が突然狂ってくれたおかげで、こっちは掴むネタができた。危うくひっくり返されるとこだったぜ。女一人のために、そこまでする価値あった?」
彼は無表情で見返す。
中年の男と、黙って向き合う場面。
「……縁がなかったんだろうな。この人生は」
中年がため息をつく。
彼は冷笑し、目に嘲りを宿す。
硬い寝台で眠り、夢の中で呟く。
「奈緒……奈緒……」
奈緒は呆然と見つめ、触れようと手を伸ばす。
だが虚ろな腕は、彼の身体をすり抜けた。
そして処刑の日。
青空の下、彼は碧い空を見上げる。短い人生が終わる。
奈緒は彼を「抱きしめた」。
「もし来世があるなら……」
涙が溢れる。
「私と、あなた……」
こんな結末は、もう嫌だ。
銃弾が唸り、彼女の魂を貫き、彼の心臓を撃ち抜いた。
時間の渦が咆哮し、津波のような力で映像を引き裂き、彼女自身も引き裂いた。
消える――そう思った。
だが目を開けると、大学1年のあの年に戻っていた。
すべては、まだ始まっていない。
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人生を謳歌する
捨てられたルナの復讐
「ベラ」イーサンの声音が変わった。わたしが嫌というほど知っている、あの警告めいた刃が混じる。「いまのフェイは不安定なんだ。おまえが彼女を恨むんじゃないか、これで群れが割れるんじゃないかって、怯えてる。彼女がいちばん望んでないのは、この子が俺たちの間に入り込むことだ」
「だったら、そんなことしなければよかった」わたしは真正面から彼の目を捉え、こちらの瞳に張りついた氷を見せつけた。「息子のところへ戻って」
「いい加減にしろよ」彼は苛立ちまぎれに髪をかきむしった。「何度言えば――人工授精だ。俺の精子を使ったのはそうだが、フェイと俺は――」
ベラは冷えきった鼻笑いを漏らした。なんて厚かましい嘘。彼女の伴侶は、兄の番と関係を持ち、家族ぐるみで彼女を何も持たせず追い出した。愛人が「正しい」座に収まるために、道を空けるように。哀れな愚か者――彼は、彼女がただの厄介な養女で、簡単に切り捨てて支配できると思い込んでいた。自分が探し求めていた天才的な技術者が、まさか自分のルナだったとは、ついぞ知らずに。
彼が自らを汚した時点で、ベラの中ですべては終わった。彼女は彼を拒み、奪われたものを取り戻した。何年も密かに彼女を愛してきたヴィクターの助けを得て、頂点へと駆け上がっていく。
イーサンが彼女を取り戻そうとしたとき、こう言った。「俺たちの子どもを、父親なしで育てたいのか」
ベラは嘲るように微笑んだ。「その子の父親は、あなたじゃないわ」
運命のゲーム
フィンレイが彼女を見つけたとき、彼女は人間の中で暮らしていた。彼は自分の存在を認めようとしない頑固な狼に心を奪われる。彼女は彼の運命の相手ではないかもしれないが、彼は彼女をパックの一員にしたいと思う。潜在的な狼であろうとなかろうと。
アミーは彼女の人生に入り込み、パックの生活に引き戻すアルファの魅力に抗えない。彼女は長い間感じなかった幸せを見つけるだけでなく、ついに彼女の狼も目覚める。フィンレイは彼女の運命の相手ではないが、親友になる。パックの他のトップ狼たちと共に、彼らは最高で最強のパックを作るために働く。
パックの順位を今後10年間決定するパックゲームの時が来ると、アミーは古いパックと向き合わなければならない。10年ぶりに彼女を拒絶した男性を見たとき、彼女が知っていたと思っていたすべてが覆される。アミーとフィンレイは新しい現実に適応し、パックのための道を見つける必要がある。しかし、この予想外の展開は彼らを引き離してしまうのだろうか?
天才デザイナーの私と三つ子を、大富豪は取り戻したい
屈辱に塗れ、身一つで夜逃げするように国を去った私は、その後に彼の「三つ子」を身ごもっていることに気づく。
――6年後。
私は世界に名を馳せる天才デザイナーとなり、奪われたすべてを取り戻すために帰国した。
しかし、悪辣な嘘に目を曇らされた知暁は、私を激しく憎み、「仇敵」として冷酷に立ちはだかる。
やがてすべての真実が白日の下に晒された時、彼は己の過ちに絶望し、プライドを捨てて泣きながら私に許しを乞うた。
だが、傷つけられた私の心はもう戻らない。私は彼の懇願を、冷徹に突き放した。
――もう遅いわ。あなたを一生、許すつもりはない。
そう誓ったはずの私だったが、予想だにしない誤算があった。
私たちが産んだ愛らしい三つ子たちが、今さら戻りたいと泣く父親の、まさかの最強の味方として動き出したのだから。
社長秘書のヒミツ恋情
借金を返すため、彼と交わしたのは一通の契約書。
「体だけの関係。恋愛感情は一切なし」——そう決めたはずだったが…
私が去った日
けれど最後に彼が選んだのは、私ではなく、彼の初恋の女性だった。
夫は、私の心を深く傷つけただけではない。あの女が私の大切なジュエリーデザインを盗むことを許し、さらには実の息子までも操って、私を「怪物」だと思わせた。
嘘で塗り固められた結婚生活の中で、私は少しずつ自分を失っていった。
息が詰まるような日々。愛されていると思い込んでいた時間。すべてが偽りだった。
けれど、彼らはひとつだけ間違えた。
私を、もう戻れないところまで追い詰めたこと。
私が去ると決めたあの日。
私は、最低な夫も、母親への感謝を忘れた息子も、そして彼らによって壊された過去の自分も、すべて置き去りにした。
親友の支え。そして、私の本当の価値を見抜き、才能を認めてくれたある若き実業家との出会い。
その温かな手によって、私はもう一度、自分自身を取り戻した。
失った誇りを取り戻し、眠っていた才能を開花させ、世界へ羽ばたくデザイナーとして新たな人生を歩み始めた。
今、私の作品は世界の舞台で輝いている。
一方で、かつて私を捨てた男は、跪いて許しを乞う。
「戻ってきてくれ」と。
けれど、もう遅い。
私が去ったあの日こそが、私が本当の自分を取り戻した日。
もう二度と、過去には戻らない。
妊娠を隠して離婚します
九条雅人は彼女の顎を荒々しく掴み、低く唸った。
絢香の頬は屈辱と興奮で真紅に染まったが、その声にはまだ意地が残っていた。「あなたこそ、私に執着しているだけじゃないの?」
雅人は冷酷に鼻で笑った。
「離婚してからどれほど経った? それでもう俺の『ルール』を忘れたか。お前の身体は、今でも俺をこんなによく覚えているくせに。……ほら、咥えろ」
熱を帯び、恐ろしいほどに猛り狂った彼の太いものが、絢香の顔を容赦なく叩いた。
雅人は冷たく笑う。
「俺から離れられるなんて夢にも思うな、絢香。お前は俺だけのものだ」
——
3年間の契約結婚の間、霧島絢香は「雅人が冷徹な人間だから、その心を溶かすことができないのだ」と思い込んでいた。
しかし、彼が桜井陽菜の妊婦健診に付き添い、彼女が少しでも不快な思いをしないよう、見たこともないほどの優しさと甘やかし方で接している姿を目撃したとき、絢香はついに悟った。彼は人を愛せないのではない。ただ、自分を愛していなかっただけなのだと。
絢香は静かに離婚届にサインし、自身の「妊娠診断書」を胸に抱いて彼の元を去った。
だが、絢香が完全に姿を消した瞬間、雅人は狂わんばかりになり、街中を血眼になって彼女を捜し回った。
ついに再会を果たしたとき、雅人の瞳は血走り、その声は掠れていた。
「絢香、俺が悪かった……頼む、俺の元に戻ってきてくれ」













