記憶を失った彼は、私を求めて泣き崩れた

記憶を失った彼は、私を求めて泣き崩れた

渡り雨 · 完結 · 25.0k 文字

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紹介

私たちの婚約パーティーで、彼の初恋の人が皆の前で彼に想いを告げた。

彼はためらうことなく私を突き飛ばして彼女を追いかけ、置き去りにされた私は車にはねられた。

私が入院している間、彼は彼女を私たちの家に住まわせ、私にはアレルギーのある食べ物を無理やり口に押し込んだ。

最も理不尽だったのは、彼女に私の腎臓を移植させるため、彼自らが私を手術台へ送ったことだ。

彼女が私の猫をなぶり殺しにしても、彼はただ「たかが猫じゃないか」と言い放った。

私が海外へ発つと決めた日、彼は私が飛行機墜落事故で死んだと思い込んだ。その後、彼は交通事故に遭い記憶を失い——私たちが深く愛し合っていた18歳の頃の記憶しか残っていないという。

だけど残念ね。決して消えない傷跡だってあるのだから。

チャプター 1

 彼にとって、私はそれほど重要な存在ではないのかもしれない――そう初めて気づいたのは、私たちの婚約パーティーの席だった。

 ホテルの大宴会場では、誰もが口を揃えて同じ言葉を繰り返していた。

「幼なじみ同士なんて、まさに理想のカップルだね」

 イブニングドレスに身を包み、正面のステージに立つ私。その私に向かって、翔が会場の反対側から歩み寄ってくる。高校の卒業パーティーの時よりも、ずっと洗練されたスーツを着こなして。

 手には指輪の入ったケースが握られ、その足取りは確かなものだった。

 突然、その場を切り裂くような声が響き渡るまでは。

「翔!」

 人波を押し退け、よろめきながらステージへと駆け上がってきた人影。

 麗奈だった。

 高校時代、翔と隣の席だったクラスメイトだ。

 この場には全くそぐわない淡いピンク色のワンピース姿で、その両目は赤く腫れ上がっている。

「ごめんなさい……ごめんなさい、遅れて……」息を弾ませながら、彼女は私たちに向かって真っ直ぐに駆け寄ってきた。

 翔は無意識のうちに、彼女を庇うように一歩前へ出た。

「麗奈」低い声で彼が窘める。

「ここは、そういう場じゃない」

「わかってる」顔を上げた彼女の頬を涙が伝い落ちる。それでも彼女は、どうにか無理に笑顔を作ってみせた。

「今日、あなたが婚約するってこと。昨日、知ったから」

 そう言いながら、彼女は翔だけを見つめていた。まるで、本当の婚約者である私のことなど、存在すらしていないかのように。

「ただ……あなたが他の誰かの指にその指輪をはめる前に、これだけは言っておきたくて」

 彼女は深く息を吸い込んだ。

「好きよ、翔。高校一年の時から……ずっと好きだった」

 宴会場に、息を呑む音がさざ波のように広がっていく。人々はヒソヒソと囁き交わし、何人かは隠そうともせずに驚きの声を漏らした。

 私の中で、何かが音を立ててひび割れた。

 彼女が彼への想いを口にしたからではない。

 そうではなく――

 翔が、それを否定しなかったからだ。

 彼はただ一瞬だけ動きを止め、眉をひそめると、顎の筋肉を微かに引きつらせただけだった。

 麗奈もその反応を予想していたのだろう。彼女はぎゅっと目を閉じ、残りの言葉を一息に絞り出した。

「私の気持ちには応えてくれなくていいの。結婚するのはわかってるから。式をぶち壊しに来たわけじゃないの」

 そして彼女は、苦々しさと切なさが入り混じったような、どこか奇妙な微笑みを浮かべた。

「ただ……この想いを伝えないまま一生を過ごすなんて、どうしてもできなかったから」

「だから、これは……昔の私に対する、お別れの言葉だと思って」彼女の声が震え、言葉に詰まる。

「幸せになってね、翔。本当に、そう願ってる」

 そう言い残すと、彼女はきびすを返し、ふらつく足取りでステージを降りていった。

 会場は瞬く間に騒然となった。ひそひそ声が飛び交い、中にはすでにスマートフォンを取り出して録画を始めている者すらいる。聖歌隊の歌声は静かにフェードアウトし、ピアノの音色も不自然に途切れた。

 私のすぐ隣で、彼の呼吸がふいに乱れる気配を感じた。

「翔」と、私は声をかけた。自分の声は、思っていたよりもずっと落ち着いていた。

「あなたは別に――」

「あいつは一人でここに来たんだ」麗奈が消えた方向から目を離さないまま、彼が私の言葉を遮る。いつもより少し早口になっていた。

「あいつは取り乱してる。何か馬鹿なことをしでかさないか心配なんだ」

 彼は一歩、前へと足を踏み出した。

 道理から言えば、彼の言葉は全く筋が通っていない。

 私は彼の婚約者だ。麗奈は、他人の未来の夫に対して公衆の面前で告白をした張本人に過ぎない。誰の目から見ても、彼がそばに留まり、慰めるべき相手は私のはずだった。

 彼女のことが心配だと言ったとき、彼の声は確かに震えていた。

 そして、その声に滲む温かさ――他の誰かに対して彼が向けるのを、もう随分と長い間聞いたことがなかったようなその響きは、私の心を必要以上に深く抉った。

「翔」私は彼の手首を掴んだ。

「せめて、先に私に指輪をはめて」

 小学校の学芸会、高校の卒業式、大学のスピーチコンテスト――数え切れないほど多くの人生の節目を、私たちは隣同士で並んで迎えてきた。私の隣に立つのは、いつだって彼だった。何があろうと、真っ先に私を見つけ出してくれるのは彼だったのだ。

 ほんの一目、私を見てくれるだけでよかった。

『怖がらないで、俺がここにいるから』と伝えてくれるような、その一瞥さえあれば。

 もし彼がそうしてくれていたなら、私は彼が彼女を追いかけるのを黙って見送ったはずだ。

 だけど、彼はそうしなかった。

 彼は私を見下ろした。その瞳にほんの一瞬だけためらいの色が浮かび――次の瞬間、それは抑えきれない焦燥感によって完全に呑み込まれてしまった。

 そして彼は、乱暴に腕を振りほどき、私を突き放した。

「話は戻ってからだ」

 次の瞬間、彼はステージから飛び降り、宴会場の出口に向かって一直線に駆け出していった。

 その勢いに押され、私は体勢を崩した。

 磨き上げられた床でヒールが滑り、重心が大きく傾く。

 誰かが「危ない!」と悲鳴を上げた。

 まさにその瞬間、床から天井まで続くガラス張りの窓の外から、けたたましいブレーキ音が聞こえてきた。

 ホテルのエントランスには、宴会場のガラス壁に沿うようにして、半屋外の車寄せが設けられていたのだ。翔が私を押し退けていった反動で横によろけた私は、シャンパングラスの載ったトレイを運んでいたウェイターに激突した。

 トレイが宙を舞う。

 無数のガラスの破片が四方八方に飛び散った。

 私は完全に足を取られてしまった。

 続いて、タイヤが路面を激しく擦るようなスキール音が再び轟いた。

 次の瞬間、何か巨大な質量が私に激突した。

 全身の骨が一本一本、バラバラに引き裂かれていくかのような激痛が走る。意識が粉々に砕け散る直前、誰かが声を振り絞って叫ぶのが聞こえた――

「麗奈!」

「結衣」ではなく。

 麗奈、と。

 その一瞬の、たったそれだけの違いが――私を撥ねた車よりもずっと、私にとって致命的だった。

 再び目を覚ましたとき、視界に飛び込んできたのは眩しいほどに真っ白な天井だった。

 鼻をつく消毒液の匂い。喉は砂を飲み込んだように酷く渇ききっている。息をするたび、まるで鋭い刃物で胸を切り裂かれるような痛みが走った。

「結衣?」

 誰かが私を覗き込み、私は見慣れすぎたその顔と視線を合わせた。

 それは、本来なら酷く安心できる光景のはずだった。熱を出せば彼がベッドの傍らに座り、腕を骨折した時は彼が病院に泊まり込んでくれた。この十五年間、私たちはそんな場面を何度も繰り返してきたのだから。

 だけどこの瞬間、彼はまるで赤の他人のように感じられた。

「まだ痛むか?」彼は私の手を取りながら尋ねた。その手のひらは、相変わらず温かかった。

「足に亀裂骨折があって、あとは軽い脳震盪を起こしてるだけだって。医者も大丈夫だと言ってたよ」

 喉がひりついて、まともに声が出ない。私はどうにか言葉を振り絞った。

「婚約パーティーは……どうなったの?」

「婚約パーティー?」彼は眉をひそめた。

「君は死にかけたんだぞ」

 彼は私の手を握る力を強め、声を潜めた。その声には、微かな非難の色さえ滲んでいた。

「どうして急に、エントランスの方に向かって走ったりしたんだ?」

 私は瞬きをした。

 あまりにも滑稽だった。

 私を突き飛ばしたのは、彼の方なのに。

 宙に放り投げられたパズルのピースが組み合わさるように、記憶が鮮明に蘇ってきた。ステージの眩しい照明、麗奈の告白、乱暴に振り払われた手、走り去る彼の背中――そして、彼が叫んだあの名前。

「婚約を破棄したい」私の声は弱々しかったが、その一言一言ははっきりとしていた。

 翔は固まった。

「結衣、何を言ってるんだ?」

「あなたとは結婚しない」私は顔を背けた。

「彼女のところへ行って」

 病室がふっと静まり返る。心電図モニターの規則的な電子音が、突然、耐え難いほど大きく響き始めた。

「馬鹿なことを言うな」ようやく口を開いた彼の声には、必死に抑え込んだ怒りが滲んでいた。

「俺と麗奈の間には何もない。あいつのことは、ずっと妹みたいに思ってきただけだ」

 妹。

 その言葉を耳にした瞬間、私は思わず笑い出しそうになった。

 子供の頃、彼が私を呼んでいたのもその言葉だったからだ。『結衣は俺の妹だ。誰にもいじめさせない』。それが後になって、こう変わったのだ。『こいつは妹じゃない。俺の彼女だ』と。

 その程度の、薄っぺらい言葉。

「あなたは彼女の名前を呼んだわ」天井を見つめたまま、私は言った。

「私を突き飛ばして、彼女を追いかけていった」

 翔は一瞬黙り込んだ。必死に言い訳の言葉を探しているかのようだった。

「あいつが何か無謀なことをするんじゃないかって、心配だっただけだ。一人で飛び出していったから――」

「私はどうなの?」私は彼の言葉を遮った。

「私だって、死にかけたのよ」

 その言葉には、私自身すら驚かされた。

 麻酔が切れたばかりだからかもしれないし、まだ体内に薬が残っているせいかもしれない。けれど、私の声は今までにないほど落ち着き払っていた――これまでのどんな喧嘩の時よりも。

 その時、病室の外から、聞き覚えのある押し殺したようなすすり泣きの声が聞こえてきた。

「翔……」ドア越しに、麗奈の弱々しい声が漂ってきた。

「全部私のせいだわ……私のせいよ……」

 彼は弾かれたように立ち上がった。「待っててくれ」の一言もなく、そのまま病室を出て行った。

 ドアが閉まり、部屋は再び静寂に包まれた。

 ガラス窓越しに、廊下の明かりが斜めに差し込んでいる。外に立つ彼がうつむき加減で、麗奈に話しかけているのが見えた。

 彼は彼女にティッシュを渡し、自ら手を伸ばしてその涙を拭ってやった。彼女の方へ身をかがめるその背中は、優しく、忍耐強く――幼い頃、私を慰めてくれた時と全く同じだった。

 ただ一つ違うのは、かつて私だけを見つめていたその瞳が、今は別の誰かに向けられているということだ。

 突然、とめどない記憶の波が押し寄せてきた。

 私が八歳の時。家族で郊外の赤レンガの家に引っ越した翌日、翔は我が家のドアを叩き、ツリーハウスを作るんだと言って私を裏庭へ引っ張り出した。あのカエデの木は、きっとまだあそこにある。秋になるたび、庭中を真っ赤に染め上げていたあの木が。

 十六歳の時。クラスの男子が私のリュックにラブレターを忍ばせたことがあった。翔は駐車場のフェンスに彼を追い詰めて殴りつけ、それから私に向かって怒鳴ったのだ。

「お前はいつになったら大人になるんだよ? お前は俺だけのものだろ」

 大学時代には、こう言ってくれた。

「卒業したら結婚しよう、結衣。指輪はもう選んであるんだ」

 私はずっと、そんな独占欲に満ちた、執着にも似た愛こそが、安心なのだと思っていた。

 麗奈が現れるまでは。

 彼女は高校一年の時に転校してきて、彼の隣の席になった。教授に紹介された時、彼女は太陽のように笑っていた。

 図書館の勉強机には、彼女がいつもコーヒーを二つ置いていった。彼にはブラックコーヒーを、「先輩の結衣さん」にはラテを。

 三人で一緒に勉強する時、彼女はいつも無意識のうちに、彼の方へと少し身を乗り出していた。

 飲み会で酔っ払うと、彼女は彼の肩に寄りかかり、「翔くんって本当に優しいね」と呟くのだった。

 最初は、彼女のことが嫌いだったわけではない。

 あの頃の翔は、まだ自分の時間と関心をすべて私に注いでくれていたから。

 徹夜で勉強していると、夜食を買ってきてくれた。

 大きな試験の前には、いつも一緒にグラウンドを十周歩いてくれた。

 新入生歓迎会では、皆が見ている前で堂々と私の手を握った。

「友達はたくさん作ってもいいけどさ」あの時、彼はニヤリと笑って言った。

「彼氏は俺一人だけだからな」

 それがいつもの彼の口調だった。強引で、自信に満ちていて。

 私は、そんな彼を愛していた。

 だけどいつからか、麗奈は私たちの間で、決して無視できない存在になっていった。

 彼は時折、私との約束をキャンセルするようになった。

 最初は「プロジェクトの打ち合わせが入ったから、遅れる」というものだった。

 それが次第に、「麗奈の具合が悪いから、家まで送っていく」に変わった。

 最終的には、私たちのデートにまで、彼女を連れてくるようになったのだ。

 卒業旅行でさえも。

 その旅行で、彼は私をトスカーナへ連れて行きたいと言っていた。私の好きなブドウ畑があって、長く続く土の道があって、夕暮れ時にはブドウの木の下でキスをしたい、と。

 ロマンチックな瞬間を数え切れないほど想像し、着ていくワンピースまで選んでいた。

 なのに、出発の二日前、彼からメッセージが届いた。

『麗奈、最近ちょっと落ち込んでるんだ。あいつも連れて行きたいんだけど、構わないよな?』

 あの頃の私は、まだあまりにも無邪気だった。

 一人増えたところで何が変わるというのだろう、そう思っていたのだ。私たちには一生分の思い出がある。ただのクラスメイトに、何が脅かせるというのか、と。

 彼女のために、彼が海に私を置き去りにしたあの日までは。

 その日は風が強かった。私たちは『ブルー・コーヴ』というサーフィンクラブにいた。日焼けしたジャックというオーストラリア人のインストラクターが、サーフボードを次々と海に投げ入れ、私たちに順番に波に乗るよう指示していた。

 翔は私の後ろに立ち、片手を私の腰に添えてバランスを取るのを手伝ってくれていた。

「怖がるな」と彼は言った。

「俺がついているから」

 私は笑って、彼をからかった。

「他の女の子にもそんなこと言ってるの?」

 彼は私の耳元に顔を寄せ、こう囁いた。

「まさか。お前だけだよ」

 ウェットスーツ越しに伝わる彼の手の温もりに、その瞬間だけは、世界がまだ昔のままであるかのように錯覚していた。

 そして、波がやってきた。

「翔!」

 少し離れた場所に立つ麗奈が、私たちに向かって手を振っていた。風に乗って、彼女の甲高い声が響く。

「見て、この貝殻すごく不格好。縁がピンク色のやつが欲しいな。探してくれない?」

 彼女は唇を尖らせた。

 翔が彼女を振り返ったその瞬間、彼の手の力が緩んだ。

 そして信じられないことに、彼は本当に私から手を離し、彼女の方へ歩き出しながら笑顔で言ったのだ。

「待ってろ。探してやるよ」

 まさにその瞬間、波が私の上に崩れ落ちた。

 足元でボードがひっくり返り、私は水中に引きずり込まれた。耳の中が、轟音を立てる水で満たされる。

 私は泳げなかった。

 子供の頃から、彼はそのことを知っていたはずなのに。

 パニックが猛烈な勢いで私を襲った。本能のままに手足をバタつかせ、もがく。海水が喉の奥に流れ込んできた。あの恐ろしい一瞬、私は本当にこの海で死ぬのだと思った。

 ライフセーバーに引き上げられた時、私はボードの上に這いつくばり、激しくむせながら息をあえいでいた。

 少し離れた浅瀬では、翔と麗奈が立ち、彼の手のひらにある貝殻を二人で見下ろしていた。

 彼女は無邪気な笑顔を浮かべている。

 そして彼の瞳には、もう随分と長い間私には向けられていなかったような、優しい光が宿っていた。

 その時、私は初めてこう思ったのだ。隣の席の彼女が現れた時点で、もう私の居場所なんてなかったのかもしれない、と。

 その後、ホテルの部屋で、私たちは今までで一番ひどい喧嘩をした。

「一体何を考えてたの?」私はバスローブ姿でベッドの傍らに立っていた。髪からはまだ水滴が落ちている。

「私が泳げないって知ってるのに、どうして手を離したの?」

「大丈夫だと思って――」

「思った、ですって」私は彼の言葉を遮った。

「今回の旅行で、あなたはどれだけ勝手な思い込みをしてるの? 私が気にしないと思い込んで。彼女を連れてきても構わないと思い込んで。私が怒らないと思い込んで」

「あいつはただの友達だ」彼は苛立たしげに髪を掻きむしった。

「あいつが転校してきた時、クラス中が無視したんだ。うちの家族があいつを助けた。あいつはずっと俺を頼ってきたんだよ」

「じゃあ、私は?」私は彼を睨みつけた。

「私は何なの? 八歳の頃からずっと、あなたを頼ってきた人間じゃないの?」

 部屋は長い間、静寂に包まれた。

 そして私は、ずっと恐れて口にできなかった残酷な言葉を放った。

「もしこれからも彼女をそばに置きたいなら、もう私に連絡しないで」

 あの時、翔の顔は険しくなったが、最終的には歩み寄ってきて、後ろから私を抱きしめた。

「わかった。もうあいつとは関わらない」私の耳元で彼は囁いた。「誓うよ」

 誰かの約束に慣れてしまうと、その約束がいかに無価値なものであるかを忘れてしまう。

 なぜならその後、彼は毎晩のように「残業」するようになったからだ。

 ただ、その「残業」はいつも午前二時を過ぎてから終わるようだった。時折、彼のネクタイから別の女の香水が匂うことがあった。そして彼のスマートフォンの画面には、「L」という名前のチャット履歴が一番上に固定されていた。

 私たちの婚約の日まで。

 病室のベッドに横たわり、ドアの向こうで繰り広げられる光景を見つめながら――彼が別の女を慰めるために頭を下げるのを見つめながら――私はふと、ずっと昔に彼が私に言った言葉を思い出した。

『結衣、心配するな。俺が生きている限り、お前には指一本触れさせないからな』

 あの頃、彼の瞳は星のように輝いていた。

 そして今、彼は私の病室の外で私に背を向けて立ち、傷つけられる私を完全に無防備なまま放置している。

 その後、ようやく彼が部屋に入ってきた時、その顔には疲労と罪悪感が浮かんでおり、彼の指先にはまだ、他の誰かの涙がこびりついていた。

「結衣」彼はベッドの傍らに座り、私の髪に触れようと手を伸ばした。

「婚約破棄なんて言うなよ。ただの誤解なんだ」

「誤解?」私はその言葉を繰り返し、そのあまりの滑稽さに笑い出しそうになった。

「だったら、私たちの間のことも全部――一緒に育ってきたこれまでの年月も全部、ただの大きな誤解だったっていうことにしましょうよ」

 私は目を閉じた。

 もう、彼の顔など見たくなかった。

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