すべてを捧げた私は、冷徹な夫に離婚届を突きつける

すべてを捧げた私は、冷徹な夫に離婚届を突きつける

もりかわ みおな · 連載中 · 465.5k 文字

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紹介

壁に押し付けられた相沢千夏の身体に、氷川隼人は荒々しくもどこか愛おしむようにその熱を突き立てる。

苛立ちに任せて噛みついた彼女の胸元は赤く染まり、その刺激に千夏の身体は激しく震えた。

これまで、氷川隼人のために多くのものを犠牲にしてきた千夏。自らの調香師としての命である「嗅覚」さえも失った。しかし、その献身に対して彼から返ってきたのは、あまりにも冷徹な無関心だけだった。

彼の初恋の女が帰国したその夜、千夏はついに離婚届を突きつける。
だが、氷川隼人はそれを冷酷に破り捨て、こう言い放った。
「二ヶ月だけ、俺に時間をくれ。お前を必ず、俺の虜にしてみせる」

初恋の影、そして新たに結ばれた契約の重縛。相沢千夏は、底の知れない危険な愛のゲームへと、さらに深く囚われていく――。

チャプター 1

薄暗い地下診療所。

相沢千夏は簡素な治療ベッドに横たわり、見慣れた女医が嗅神経の修復処置を施していた。

「あなたの鼻、かなり重症よ。どうしてこんなことに?」

女医は眉をひそめ、器具を操作しながら小声で訊ねる。

相沢千夏は目を閉じたまま、かすれた声で答えた。

「香料を試してるとき、うっかり近づきすぎました」

隠す必要などなかった。

氷川隼人の病を治すため、この二年で数えきれないほどの毒香料を試してきた。毎回、自分の体で毒を確かめる――彼の体内の毒素を解く処方を見つけるために。

「抗体があるからって、そんな無茶をしていいわけじゃないでしょう。どうしてそこまで自分を追い込むの」

女医はため息をつき、口調を少し強めた。

「長期的な有害物質の接触が原因よ。これからは本当に気をつけなさい。放っておいたら、鼻が完全にダメになる。わかった?」

「この薬を持っていって。時間どおりに飲むこと」

相沢千夏はゆっくりと身を起こし、素直にうなずいた。

氷川隼人と結婚すると決めた時点で、覚悟はできていた。

それに見合うかどうか――

ぼんやり考えた瞬間、鼻腔から熱いものが溢れ出した。

相沢千夏は呆然と瞬きをし、指で鼻に触れる。掌にべっとりとついたのは真っ赤な血だった。

「石川先生、わたし……」

言い終える前に視界がすとんと落ち、ぐらりと眩暈が襲う。相沢千夏はそのまま、また倒れ込んだ。

「えっ――!」

最後に耳に入ったのは、石川先生の焦った声だけだった。

二時間後。

相沢千夏の濃い睫毛が震え、ゆっくりと目が開く。手探りで身体を起こした。

「目が覚めた?」

石川先生は気配に気づくと振り返り、静かに訊ねた。

「具合はどう?」

相沢千夏は血の気のない唇でうなずき、先ほどの出来事を思い出して申し訳なさそうに言う。

「すみません……ご迷惑を。もう帰ります」

「その状態で一人で帰れるわけないでしょう」

石川先生の顔色も冴えない。

「どうせここ、患者も少ないし。送っていくわ」

相沢千夏ははっとして、軽く首を振った。無理に立ち上がる。

「ありがとうございます。でも、大丈夫です」

石川先生はしばらく彼女を見つめ、複雑そうにため息をつくと、それ以上は強いなかった。道中気をつけるようにと言い添える。

薄暗い地下診療所を出る。

相沢千夏は新鮮な空気を深く吸い込んだ――けれど、何の匂いもしなかった。

二年に及ぶ香料の実験は、氷川隼人の隠れた病を治した代わりに、彼女の嗅覚を壊した。

本来は鼻が利くほうだったのに、いまは何も感じない。調香師にとって、それは致命傷だ。

それでも氷川隼人は何ひとつ知らず、彼女に冷淡で、無関心で、どうでもいい顔をする。

相沢千夏はふっと冷笑した。

こめかみを揉み、スマホを取り出して配車アプリを開こうとして――通話履歴に目が止まった。

氷川隼人へ発信した記録が十数件。すべて未接。

指先がわずかに震える。

緊急連絡先の設定はずっと氷川隼人だった。

時刻を見る。おそらく石川先生が彼に電話し、迎えに来るよう頼んだのだろう。

なのに彼は、こうして平然と無視した。

石川先生は彼女の気持ちを慮って、黙っていたに違いない。

画面に表示された目立つメモ――「旦那さん」。

それを見ただけで胃がむかむかした。

迎えを待っていたら血が尽きていたとしても、氷川隼人は冷たく鼻で笑い、「まだ死んでないのか」とでも言うのだろう。

哀れで、惨めで、失敗した女。

心臓が細かな針で刺されるように痛む。

相沢千夏は手で目元を覆い、指の隙間から涙をこぼした。

しばらくして気持ちを整え、車に乗り込む。車内は静かで、柔らかな音楽だけが流れていた。

相沢千夏は気を紛らわせるように漫然とスマホを眺めていると、ニュースが目に飛び込んできた。

「衝撃! 二年前、海外で事故死したとされる小林グループ令嬢・小林華絵が『奇跡の生還』。今朝、無事に帰国――」

相沢千夏は凍りついた。

小林華絵。

氷川隼人の初恋。彼の胸の奥で、決して枯れない高嶺の花。

写真の彼女は相変わらず息を呑むほど美しい。白いドレスに身を包み、スポットライトの下で白鳥のように優雅だった。

「お客さん、前が工事で通れないんですよ」

運転手が声をかける。

「ここから少し歩いてもらうことになります」

相沢千夏は我に返り、前方を見る。たしかに工事の柵が張られている。

小さく息をつき、降車した。

今日は本当にツイてない。

夜風が冷たい。上着をきゅっと掻き合わせ、人通りのある歩道をゆっくり進む。

高級レストランの前を通りかかったとき、ガラス越しに個室の中がちらりと見えた。

窓際の席に氷川隼人。向かいに座るのは見覚えのある横顔。

小林華絵は朝の白いドレスを脱ぎ、シャンパン色のイブニングドレスに着替えていた。黒髪が滝のように肩へ流れ、全身から気品が漂う。

二人の距離は近い。小林華絵の指が氷川隼人の頬を撫で、切れ長の瞳に陶酔が宿る。

人の接触を嫌うはずの氷川隼人は、避けもしない。

テーブルにはシャンパンの瓶とケーキ。何かの祝い――再会の祝いだ。

相沢千夏は、ふっと笑った。

ガラス越しでも、氷川隼人は目を奪う男だった。ジャケットを脱ぎ、広い肩と引き締まった腰が灯りの中で際立つ。座っていても、長身が放つ圧が伝わる。

彫刻のような横顔。通った鼻筋、深い眼差し、いつも結ばれた薄い唇。

権も財もある。才も顔もある。彼女を愛さないこと以外、欠点が見当たらない。

神が世の美を惜しみなく注いだ男――

その冷徹で自制的な“神の寵児”が、相沢千夏の知らないやわらかな表情で、小林華絵だけを見つめている。

思うべきだった。

小林華絵が帰国すれば、氷川隼人が彼女のもとへ行くのは当然だ。

自分は地下診療所で気を失っていたのに、彼は想い人と再会を祝っている。

結婚して二年。

氷川隼人が相沢千夏に向けたものは、いつだって嫌悪だけだった。

彼は相沢千夏を疫病神だと言い張り、小林華絵の死が彼女のせいだと頑なに信じた。

彼女が丹精込めて調合したアロマを何度も投げ捨て、「中に薬を仕込んだだろう」と責め立てた。

彼の目には、相沢千夏はいつも下劣な女として映っている。

けれどこの結婚は、相沢千夏のようなただの女が選べるものじゃない。

妹は重い病で、莫大な手術費が要る。K市で彼女を救える可能性があるのは氷川家だけ。

たった一人の家族を救うため、相沢千夏は氷川隼人の母の条件――彼と結婚することを呑むしかなかった。

いま、氷川隼人の母は亡い。

二年の契約は終わった。

相沢千夏は約束どおり氷川隼人の隠れた病を治し、三十歳を越えて生きられる身体にし、問題なく勃起できるように――「本物の男」にしてやった。

もう、彼に借りはない。

相沢千夏は視線を落とし、冷たく打ち込む。

「契約期限が切れた。離婚しましょう」

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家族の縁を切った日、兄たちはすべてを失った

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彼女は兄たちのためにすべてを捧げたというのに、家を追い出され、無残に死んだ。

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兄たちは皆、彼女がただ意地を張っているだけだと思っていた。三日もすれば泣きついて戻ってくるだろうと高を括っていたのだ。
だが三日経ち、また三日経っても彼女は戻らない。兄たちは次第に焦り始めた。

長兄:「なぜ最近、こんなに体調が悪いんだ?」――彼女がもう滋養強壮剤を届けてくれないからだ。
次兄:「会社のファイアウォールは、なぜこうも問題ばかり起こす?」――彼女がメンテナンスに来なくなったからだ。
三兄:「新薬の開発が遅々として進まないのはなぜだ?」――彼女が治験をしなくなったからだ。
四兄:「どうしてこんなにつまらない脚本しか上がってこない?」――彼女がもう執筆しないからだ。
五兄:「この義肢は、なぜこんなに出来が悪いんだ?」――彼女が製作をやめたからだ。
六兄:「なぜチームが負けた?」――彼女が脱退したからだ。

兄たちは地に膝をついて許しを請うた。「戻ってきてくれ。俺たちこそが、血を分けた本当の家族じゃないか」

彼女は絶縁状を兄たちの顔に叩きつけ、冷ややかに笑った。
「車が壁にぶつかってから、ようやくハンドルを切ることを覚えたのね。株が上がってから、ようやく買うことを覚え、罪を犯して判決が下ってから、ようやく悔い改めることを覚えた。残念だけど、私は――許さない!」